2020년 7월 24일 금요일

114. 反逆の家系 - 爾林城から馬津城まで




日本書紀雄略九年三月記事があるが顕宗三年(AD 487)のと同じ事件である. 大伴談連は
當代倭最高實權だったのにどうして現忠淸北道の爾林まで進軍してあそこで戰死
したのか. 高句南下し忠州を掌握している頃である.


雄略九年(AD 487) 三月。紀の小弓宿禰、蘇我の韓子宿禰、大伴の談連、小鹿火宿禰たち
遣することにし.....そうして紀の小弓宿禰たちは新羅に入り、喙の地まで進軍した。しかし
の夜、大伴の談連と紀岡前久目連はむなしく戦死した。大将軍の紀の小弓宿禰はその途中
病死した。


紀の小弓宿禰
途中で病死
蘇我の韓子宿禰
大伴の談連 戦死
紀岡前久目連 戦死
小鹿火宿禰


日本書紀顕宗三年(AD 487) の記事がある. 日本書紀は知らんぶりをしているが大伴の談連
とは任那の左魯同じ人です. 大伴の談はAD 430年代生れで487年忠淸北道の爾林で死んだ.
紀岡前久目連は那奇他甲背をいうようだ.


顕宗三年(AD 487) 紀の生磐宿禰が任地の任那において、高麗〔こま〕(高句麗)と接触した。
三韓のとなろうと謀り、官府を整え、自ら神聖と名乗った。そうした中、任那の左魯と
那奇他甲背等は計略を用い、百済の適莫爾解を爾林<高麗の領内である>で殺害すると、
帯山城を築いて交通路を押さえ、港から百済の軍勢への食糧の供給を遮断した。百済の王は
激怒し、方面長官の古爾解と官人の莫古解等を派遣して帯山を攻めさせた。生磐宿禰は任那
支援してこれを迎え討ったが、しだいに劣勢となり、政策の失敗をさとって任那から引き
上げた。百済国は左魯や那奇他甲背等、三百人を殺害した。


大伴談連は佐魯, 大伴狭手彦は佐魯麻都と同じ人です. 大伴家は允恭から欽明まで反百濟親
高句麗路線辿る. 


大伴家系
AD 400 - 460年代
430 年代- 487
460 – 520年代
490 年代 - 
大伴連室屋
大伴談連
大伴金村大連
大伴狭手彦



佐魯

佐魯麻都大連


百濟の木滿致は母の國, 新羅に忠誠を盡す人柄で彼の家門は頑固に反百濟親新羅路線を取る.
百濟王室に深い恨みを抱いたような頑固さが感じられる. (參照 113. 葛城襲津彦の正体). 大伴
家は襲津彦家門と協力るようになったと推測される. 襲津彦家門は百濟の甲背という官職
を持っていたからいろいろ役にだったでしょう. 


大伴家は安羅に反百濟親高句麗-新羅路線を追求する私的組職を設けて襲津彦家門といっし
うに運營した. 私的組職というのは倭の天皇とは關係ないとの意味です. 顯宗から繼體天
皇までの46年間大伴家が倭を支配した. 日本書紀編者らがこの私的組職を任那日本府と名付
けたから, まるで國の組職であったように見える. 


安羅は廣開土王南征以來高句麗との特殊な地位を樂んできたようだ. 大伴家が私的組職を安
設置したのは安羅の早岐も大伴家と内通する仲間だったからでしょう. 欽明治世, 的臣,
河内直と阿賢移那斯は襲津彦家門, 佐魯麻都は大伴家門である.


欽明治世 日本府の執事
吉備臣
的臣
河内直
阿賢移那斯
佐魯麻都


河内直の先祖
AD 440
AD 470
AD 500
那干陀甲背  またの名
那奇陀甲背  
加猟直岐甲背
鷹奇岐弥(ようがきみ)
阿賢移那斯(あけえなし)


AD 527年継体治世近江の毛野臣が登場する. 爾林城の役から40年後の出來事です. 毛野臣は
まだの人であるがここで左魯, 那奇他甲背と近江の毛野臣らの正體を調べる. 


日本書紀継体治世21年(AD 527)夏6月3日、近江の毛野臣(けなのおみ)が、兵六万を率いて
任那に行き、新羅に破られた南加羅(ありひしのから)、とく己呑(とくことん)を奪還し、
再び任那と併合しようとした。このとき筑紫国造磐井が肥前、肥後、豊前、豊後などをおさえ、
海路を遮断し、任那の遣わされた毛野臣の軍を遮り, 毛野臣は前進を阻まれ、途中で停滞してし
まった。

治世23年(529) 春3月この月に近江毛野臣を使いとし、安羅に遣わした。詔して新羅に勧め、
南加羅(ありひしのから)、とく己呑(とくことん)を再建させようとした。

百済は将軍君尹貴、麻那甲背、麻鹵らを遣わして、安羅に行き詔を聴かせた。
安羅は新しく高堂を建て、勅使をそこに上らせ、国主はその後ろから階を昇った。国内の大臣
も共に昇殿したのは一、二人だけで百済の使者の将軍らは堂の下であった。数ヶ月にわたり、
再三殿上の謀議は行われたが、将軍君らは常に庭におかれたことを恨んだ。

この年(530)毛野臣は召されて対馬に至り、病にあって死んだ。葬送の舟は、河の筋を上っ近江
についた。その妻が歌った。「枚方(ひらかた)ゆ 笛吹上る 近江のや 毛野の若子い 笛吹
上る」(枚方を通って笛を吹きながら淀川を上る。近江の毛野の若殿が笛を吹いて淀川を上る。)
比攞哿駄喩 輔曳輔枳能朋樓 阿苻美能野 愷那能倭倶吾伊 輔曳符枳能朋樓

治世25年(531)春2月、天皇は病が重くなった. 7日、天皇は磐余の玉穂宮で崩御した。


近江の毛野の若殿とは近江毛野臣の子を指す. 毛野愷那(けな)と訓む. 毛野 = 愷那(けな) =
賢那 = 阿賢移那斯になるわけです. 毛野の若殿の名前は阿賢移那斯, 近江の毛野臣は爲哥岐
の有非岐でございます. 

新羅が南加羅ととく己呑を併合して今卓淳を攻めろうとしている. 卓淳のあとは安羅になる
わけです. 安羅に組職を持っている大伴家が襲津彦家の加猟直岐甲背を送って安羅を救おう
したのが本音である. 


襲津彦家系
AD 330
AD 360
AD 380
AD 410
AD 440
木羅斤資
味師内宿禰
葛城曾都毘古
開中費直
加不至費直
葛城野伊呂売 (応神妃)
葛城磐之媛 (仁徳妃)
木滿致
蘇我滿智
的戸田宿禰 (的臣)
玉田宿禰
葦田宿禰
黒比売 (履中妃)
紀小弓宿禰
蘇我韓子


那干陀甲背
那奇陀甲背
紀岡前久目連
紀生磐宿裲
小鹿火宿禰
木劦滿致?
AD 470
AD 500



加猟直岐甲背
鷹奇岐弥ようがきみ
為哥可君 
爲哥岐弥 有非岐
近江の毛野臣
阿賢移那斯
延那斯
近江の毛野の若殿
烏胡跛臣(的臣)
河内直





AD 548年 馬津城の役はこの年の1月に高句麗が攻め込んで百濟の馬津城を囲んだ戦いである.


聖明王>馬津城(ましんのさし)の役のおりに、捕虜が「安羅国と日本府が、高句麗に百済進行
を勧めたのだ」と申しました。
天皇> 延那斯(えなし)、麻都(まつ)が密かに使いを高麗に遣わしたことについては、虚実を
質す者を遣わそうと思う.


葛城襲津彦の家系はAD 410年代生の世代の情報が少なすぎる. そして那干陀甲背の父が
誰で紀小弓宿禰 は誰の子であったのかはっきりしない. ここまで調べてきていきなり一
の疑問が浮かぶ. AD 475年の盖鹵王, AD 554年の聖明王事件の後ろにも反逆の家系が
絡んでいるのでは?


- おわり -

2020년 7월 12일 일요일

113. 葛城襲津彦の正体


 

葛城襲津彦4世紀末前後に百濟關聯外交業務を担当したらしい. 彼の記錄を檢討してまの姿を描いてみましょう. 彼は建内宿禰(武内宿禰)の子7男2女のうちの第八子として記載されている.

 

波多八代宿禰 (紀,羽田矢代宿禰)  

波多臣 林臣 波美臣 星川臣  淡海臣 長谷部君の祖

許勢小柄宿禰 (紀, なし)

許勢臣 雀部臣 軽部臣の祖

蘇我石河宿禰 (紀,石川宿禰)

蘇我臣 川辺臣 田中臣 高向臣 小治田臣 桜井臣 岸田臣 等の祖

平群都久宿禰 (紀,平群木菟宿禰) 

平群臣 佐和良臣 馬御杙連 等の祖

木角宿禰(紀, 紀角宿禰)

久米能摩伊刀比賣 (紀, なし)

怒能伊呂比賣 (紀, なし)

木臣 都奴臣 坂本臣の祖

葛城長江曾都毘古 (紀,葛城襲津彦)

玉手臣 的臣 生江臣 阿芸那臣 等の祖

若子宿禰 (紀, なし)

江野間臣の祖

 

建内宿禰には味師内宿禰という異母の弟があるが味師内の系譜は傳えられていない. 建内宿禰の子は7男2女もあるのに味師内宿禰の系譜がないのは可笑しい.

 

古事記は建内宿禰と味師内宿禰の母を記錄した.

 

古事記

建内宿禰

山下影日賣, 木国造の祖である宇豆比古の妹

味師内宿禰

葛城之高千那毘賣, 尾張連等の祖である意富那毘の妹

 

味師内宿禰の母は葛城之高千那毘賣です. 高千那毘賣の後裔の名前に葛城が付. 葛城襲津彦の葛城は高千那毘賣の葛城に因む.

 

古事記 応神天皇 后妃と御子に葛城之野伊呂売がある. 建内宿禰の系譜の怒能伊呂比賣 (紀, なし) と同一人で葛城之野伊呂売も味師内宿禰の子と見るぺきです. 葛城之野伊呂売は応神天皇の采女を經て大雀命にお与えになったようだ. 仁徳天皇皇后磐之媛命の元の名は葛城之野伊呂売でしょう. すると建内宿禰の系譜の中少なくとも二人の味師内の子が含まれているから外にまた有るかも知りません.

 

応神天皇系譜の伊奢能麻和迦王

葛城之野伊呂売

伊奢能麻和迦イザノマワカ王

書紀に記載なし

 

葛城之野伊呂売が産んだ伊奢能麻和迦王と磐之媛が産んだ伊邪本和気命 (履中)  は同一人のようですがこの皇子は応神と仁徳の中, 誰の子だったでしょう.

 

 仁徳天皇系譜の大江之伊邪本和気命 (履中) 

古事記

日本書紀

大后 石之日売命 (葛城之曾都毘古の娘)

大江之伊邪本和気命 (履中)  380年代

墨江之中津王

葛城襲津彦の娘の磐之媛命を皇后

大兄去来穂別天皇380年代

住吉仲皇子

 

襲津彦の時代を確かに判るために仁德天皇から斯麻王までの系譜を參考して下さい.

 

仁德天皇

履中

市辺之忍歯王

飯豊郎女

斯麻王

AD350年代

AD380年代

AD410年代

AD440年代

AD461

 

履中天皇はAD380年代の生れです. すると履中天皇の母は360年代の生れでしょう.

応神の子, 大雀命(仁徳天皇)と建内宿禰の子, 木菟宿禰は同年輩である.

 

彦太忍信命 260年代

忍男武雄心命290年代

武内宿禰 320年代

木菟宿禰 350年代

葛城襲津彦と葛城之野伊呂売は360年代の生れと見て差支えない. 履中磐之媛命を襲津彦の娘とした記錄は意図的改ざんである. 襲津彦の父と子の系譜がばれないように務めたわけは彼ら3代が百濟の官人だったからである.

 

忍男武雄心命290年代

武内宿禰 320年代

木菟宿禰 350年代

 

味師内宿禰 330年代

葛城襲津彦 360年代

葛城之野伊呂売 360年代

 

葛城襲津彦の事績は神功, 応神, 仁徳時代にかけて日本書紀に次の記錄がある. 三國史記によると神功5年記事はAD 418年の出來事である. 神功62年記事は AD 382年の出來事のようだ. すると襲津彦は 382年から418年にかけて活動し た人物でしょうか.

 

 

神功5

新羅王の人質の微叱旱岐が一時帰国したいというので、神功皇后は微叱旱岐に襲津彦をそえて新羅へ

と遣わしたが、対馬にて新羅王の使者に騙され微叱旱岐に逃げられてしまう。これに襲津彦は怒り、

使者3人を焼き殺したうえで、蹈鞴津(たたらつ)に陣を敷いて草羅城を落とし、捕虜を連れ帰っ

た。

 

神功62

新羅からの朝貢がなかったので、襲津彦が新羅討伐に派遣された。続いて『百済記』を引用. 『百済記』逸文 壬午年(382年に貴国(倭国は沙至比跪(さちひこ)を遣わして新羅を討たせようとしたが、新羅は美女2人に迎えさせて沙至比跪を騙し、惑わされた沙至比跪はかえって加羅を討ってしまった. 百済に逃げた加羅王家 は天皇に直訴し、怒った天皇は木羅斤資を遣わして沙至比跪を攻めさせたという. また「一云として沙至比跪 は天皇の怒りを知り、密かに貴国に帰って身を隠した。沙至比跪の妹は皇居に仕えていたので、 妹に使いを 出して天皇の怒りが解けたか探らせたが収まらないことを知ると石穴に入って自殺したという。

 

応神14

百済から弓月君が至り、天皇に対して奏上するには、百済の民人を連れて帰化したいけれども

新羅が邪魔をして加羅から海を渡ってくることができないという。天皇は弓月の民を連れ帰るため

襲津彦を加羅に遣わしたが、3年経っても襲津彦が帰ってくることはなかった。

 

応神16

天皇は襲津彦が帰国しないのは新羅が妨げるせいだとし、平群木菟宿禰と的戸田宿禰に精兵を授けて

加羅に派遣した。新羅王は愕然として罪に服し、弓月の民を率いて襲津彦と共に日本に来た。

 

仁徳41

天皇は百済に紀角宿禰を派遣したが、百済王族の酒君に無礼があったので紀角宿禰が叱責すると、

百済王はかしこまり、鉄鎖で酒君を縛り襲津彦に従わせて日本に送ったという。

 

神功5年記事がAD 418年の出來事であれば襲津彦は60代で實在性が疑われる. 神功62年はAD 382年で沙至比跪また20歲位いの時点である. 未熟な若い官人がなんか判斷ミスをしたらしい. その事件を直すため現われたのが木羅斤資でしだ. 木羅斤資は神功49(AD 369) 登場する人です.

 

沙至比跪の妹は皇居に仕えていたので妹に使いを出して天皇の怒りが解けたか探らせたという. 磐之媛命は沙至比跪の妹 である.

 

AD 420年木羅斤資關聯記事がある.

 

応神天皇廿五年

百濟直支王薨、卽子久爾辛立爲王。王年幼、木滿致執国政、與王母相婬、多行無禮。天皇聞而召之。百濟記云「木滿致者、是木羅斤資討新羅時、娶其国婦而所生也。以其父功、專於任那、來入我国。往還貴国、承制天朝、執我国政、權重當世

 

百濟直支王と久爾辛王の年齡は木滿致の年齡を推測する徑です. AD 420 29歲だった王母と相婬した相手は 380年代 生れと見ていいようです.

 

AD391

397

405

420久爾辛卽位

427 久爾辛廢位

直支王 生れ

6

歸國 14

直支 29

直支 36

 

 

 

八須夫人29

八須夫人36

 

木羅斤資はAD 330年代, 木滿致が 380年代としたら, 二人の間に又一世代がいります. 木羅斤資が木滿致の父だというのは

日本書紀の嘘である. その間に入る入物を露出されないように書紀が働いている.

 

木羅斤資  AD 330年代

沙至比跪AD 360年代

木滿致  AD 380年代

 

沙至比跪はAD382新羅の美女を通じて木滿致を生んだ. 葛城襲津彦は味師内宿禰の子だとしたのを覺えていますか. AD382沙至比跪の事件を直すために現われたのが木羅斤資でしだ. 父が子の事件を直しに來たのです.

 

味師内宿禰

襲津彦

 

木羅斤資

沙至比跪

木滿致

 

味師内宿禰 と百済の木羅斤資は同一人のはずです. 磐之媛命は山背の筒城の韓人, 名は奴理能美の家で亡くなった. 筒城の内鄕で自殺したとのことです. 奴理能美は味師内宿禰のことで父の家に歸って死んだことになる. 磐之媛30歲位いだった. 仁徳は履中が自分の子か弟か悩んだから仁徳天皇磐之媛命はいつも緊張關係だったでしょう. 

 

AD 382年沙至比跪は新羅の美女2人を迎えて木滿致を生んだ. それを切っかけに新羅との外交問題があると沙至比跪に 任すようになった.  廣開土王の南征で追い出された亂民を倭國に移住させたのが弓月君の帰化である.

 

- おわり -