2016년 8월 26일 금요일

94. 日本書紀 皇極紀の行間を読む



日本書紀   卷第二十四  皇極紀は 642年1月から 645年6月までの3年6月の記錄であるが不明瞭さを感じてスッキリしない部分が多い. なぜかすると西紀645年の乙巳の変を通じて天皇位を奪った勢力はそれを眞似て皇室轉覆を企てるきっかけになるんじゃないかと心配する. そして乙巳の変を美化 して日本書紀が書かれた.

皇室構成員の系譜や生沒情報が捏造または改竄されたから日本書紀の記事は難解で意味不明である. 日本書紀の中で最もむずかしくて解釈に苦しむ皇極紀に登場する人名はお互いにどんな繫がりがあるか分らない. 提供された情報は 獨立的破片であって他の破片との關聯は提供されていないから謎のまま 殘っている.

皇極紀のクライマックスは乙巳の変であるから皇極紀で提供される情報は多かれ少なかれ乙巳の変と關聯深い情報的破片と考えながら皇極紀の解說に入る.

皇極紀は次の文章で始まる.  

“天豊財重日足姫天皇は 渟中倉太珠敷天皇の曾孫 押坂彦人大兄皇子の孫 茅渟王の女なり.”

皇極天皇の出自を記錄したこの文章が眞實でないことはすぐ分かる.  見易すく現在, 知られている生沒年を記入して見たら作爲が明かに現れる. 570年生れの彦人大兄の孫が594年生れの皇極であることは無理である.

敏達天皇(538 – 585) - 押坂彦人大兄皇子 (570 – 599) -茅渟王 (? - ?) - 皇極天皇(594 – 661)

押坂彦人大兄(570 – 599)の孫が皇極(594 – 661)である可能性はない. 茅渟王 (? - ?)は彦人大兄の子ではないはずである. 日本書紀に書かれているから信じるというわけにはいかない. 日本書紀の意図を看破して本の歷史を考えるのが望ましい. 日本書紀は皇極と齊明のまの顔をしらせたくなかったから皇極紀の始めから噓をいう.

皇極と齊明が別人であったら皇極天皇は廢位されたことになる. 政變で政權を奪取した主謀者達ちは天皇廢位の前犯の歷史たけは隱したかっだにちがいない. 皇極と齊明を同一人と仕上れば天皇廢位の歷史はなかったように見える. これが “韓人殺鞍作臣”の韓人たちの神の一手であった.

茅渟王たけ除いて敏達天皇(538 – 585) - 押坂彦人大兄皇子 (570 – 599)  - 皇極天皇(594 – 661)の系譜は一見整合性があるように見えますが一回騙されたらもっと改竄の可能性があると見るのが當り前です. どうしても意図をもって細工された歷史でこざいます. そういうわけで文字記錄より勘で行間を読むことをお勸めします.

吉備嶋皇祖母命, 皇祖母尊, 嶋皇祖母命という呼稱も眞實を隱す手段として使う.  齊明母, 皇極, 齊明, 舒明母の四人の呼稱をでたらめに混って使うから誰のことであるか分らない. 日本書紀は皇極と齊明を同一人と見せるためならなんでもやる.

皇極紀で一番先に出てくる人物は翹岐です. “弟王子兒翹岐及其母妹女子四人”とするから百濟王の弟王子兒の名前らしく642年正月, 翹岐の母, 妹と妻そして翹岐本人の四人が追われて Boat People になったが 2月24日大和に流れてきたから阿曇山背連の家に安置らしむ.

翹岐は實名じゃなく歷史家が作った名前であろう. “翹企”が足をつまだてて待ち望む 転じて熱望することを意味するから王になれない出身であることを暗示する. 政變なんかの途じやないと翹岐は天皇になれない男である.

翹岐及其母妹女子四人 內佐平岐味 有高名之人四十余 被放於島 としたから大勢の人達が島放たれて大和に流れてきたらしい. ここでの島は九州をいう. なぜかすると百濟の都には島なんかいない.

つぎに塞上の名前が出る. “塞上恒作惡之” そして642年4月8日 蘇我大臣、畝傍の家にして、百済の翹岐等を喚ぶ。親ら對ひて語話す。仍りて良馬一匹・鐵廿铤を賜ふ。唯し塞上をのみ喚ばず。(乙未, 蘇我大臣於畝傍家喚百濟翹岐等, 親對語話.仍賜良馬一疋, 鐵二十鋌, 唯不喚塞上) の唯不喚塞上 である. 塞上は塞城又は忠勝と同一人で義慈王の弟である.

どうしてここで塞上の名前が出てくるか? 又蘇我大臣が畝傍の家にして百済の翹岐等を喚ぶ, 唯し塞上をのみ喚ばずとは なんの意味であるか? 塞上こそ翹岐の生父であるとの暗示だと思う.

大和は翹岐を丁寧に歡待するのが見える. 王になれない出身である翹岐に百濟の大佐平智積さえ最上の敬意を表す. 翹岐にすでに權力者のオーラ (aura)が見える. 日本書紀の作者は翹岐 - 中大兄 - 天智との流れを知っているから翹岐の記事にも鄭重である.

つぎの人物は大佐平智積と智積兒 - 達率闕名,恩率軍善 である. 恩率軍善は大佐平智積兒である.

642年7月22日, 百済の使人大佐平智積等に朝に饗へたまふ. 或本に云く、百済使人大佐平智積及び兒達率 名を闕せり・恩率軍善といふ.

2009年益山彌勒寺址 復原工事中 石塔の舎利奉安の事情を記した奉安記が発見された. そこで639年の銘文が 見つかり, 百濟王后,  佐平沙乇積德女種善が奉安したことが明かになった. 百済の第30代王の武王 (在位600-641) 時代 佐平 沙乇積德女の名は “種善”とした. 大佐平智積兒の名は “軍善”とするから 軍善は實名である可能性が高い.

ここで大佐平智積と智積兒 恩率軍善の名前が出るのは 沙宅軍善が 中臣鎌子 - 中臣鎌足 - 藤原鎌足の元の姿であるからでしょう. 中臣鎌子は大佐平沙宅智積兒である. 藤原鎌足は614年生れとするから642年沙宅軍善は29歲, 翹岐(中大兄) 27歲であった. 654年建立された砂宅智積碑から智積は義慈王と同年輩位いの人と見える.

日本書紀 舒明13年 (641AD)10月 舒明天皇が崩御されたとき「東宮開別皇子十六而誄」- 皇太子開別皇子 (後の 天智天皇)は16歳で 誄(しのびこと)を読まれた-とありますが, 天智 626年生れとするのは捏造である.  まずこの時天智は皇太子であるはずがない. 天智が始め皇太子になったのは乙巳の變の後である. 626年生れだったら642年17歳にすぎないが, 翹岐はすでに結婚して兒をつれて飛鳥へ現れた. 616年生れで642年 27歳のほうがもっともである.

日本書紀 斉明紀: 天豊財重日足姫天皇は、初に於橘豊日天皇の孫高向王に適して、漢皇子を生しませり. 後に息長足日広額天皇に適して、二の男・一の女を生します。二年に、立ちて皇后と爲りたまふ.

日本書紀 舒明二年の春正月の丁卯の朔戊寅(630.01.12)に、宝皇女を立てて皇后とす. 皇極と斉明が別人だったら宝皇女とは皇極の名前である.  

斉明紀で斉明は漢皇子を生んだ後舒明との間で二男一女を生んだ. 舒明との間で葛城皇子, 間人皇女, 大海皇子を生んだとする. すると葛城皇子大海皇子は天皇の子であるから天皇になれる出身である. 翹岐と似た出身は漢皇子一人である. ここで, 漢皇子 -翹岐 - 中大兄 - 天智は同一人に見える. 中大兄と間人皇女は異父兄妹であったから通情云云されるのです. 中大兄が乙巳の變の後から667年まで卽位を遅らせたのも出身のハンデキャップの爲でしょう.

敏達天皇 即位7年(578) 菟道皇女(うじのひめみこ=敏達天皇の娘で菟道磯津貝皇女)を伊勢の祀(まつり)に仕えさせた。すぐに池辺皇子に侵された. 事件が明らかになって解任になったとあります. 敏達と推古の長女 菟道皇女が 7歲 位いの時, 伊勢神宮に侍らせた. 591年頃, 池辺皇子が聖處女 菟道皇女をレイプした. この事件が明らかになって菟道皇女は  解任されて池辺皇子の妃になった. 池辺皇子とは聖德太子(574 – 622)のことである.

斉明も婚前,  塞上にレイプされた後, 舒明の妻になったと推測される. 結婚後すぐ漢皇子が生れてレイプのことがばれて しまう. たから漢皇子は天皇の子でない. 橘豊日天皇の孫高向王に適して漢皇子を生しませり, 後に息長足日広額天皇に適してというのはありえない.  舒明天皇は倂の天皇であるまい. 隋書倭國傳の多利思比孤が舒明である.

敍明の弟の名は中津王である. 多利思比孤も九州 中津出れで, あそこで皇后皇極, 妃法提郎媛, 妃齊明を納る. 西紀613年頃皇極と法提郎媛, 616年頃斉明が多利思比孤に適したとおもわれる. 614年法提郎媛が古人大兄皇子を生んだ. 616年斉明は漢皇子を生んだ. あとで舒明と斉明の間で二男一女が産れた.

629年多利思比孤は大和を合倂して天皇に卽位する. その時, 皇極と法提郎媛は天皇といっしょうに大和に移したが斉明は九州に殘された. 舒明二年(630.01.12)皇后になったのは宝皇女卽ち皇極であって斉明じゃない. 

舒明三年(631) 三月の庚申の朔(03.01)に、百済の王義慈 王子豊章を入りて質とす. これは面白い記錄である. 日本書紀がこんな間違いをするなんて信じられない. 三國史記百濟本紀は 641年3月武王薨, 日本書紀は641年10月舒明崩とした. 百済の義慈王は641年卽位したはずであるのに “舒明三年(631) 三月に百済の王義慈、王子豊章を入りて質とす”とは間違いである. これは舒明三年(631) 三月, 九州で産れた豊章を大和の父の膝下に連れて來たということである. 王子豊章の父は舒明でもあるし又義慈でもあるから日本書紀編者も混同したでしょう. 豊章を百濟義慈の王子として扱かってきたから631年,  質と誤魔化す時, 百濟は武王治世だったのに氣付かなかったらしい.

それから豊章は皇極の手で大和で育ってられる. そういうわけで大人になった後, 豊章は生母齊明より, 皇極を母と思うようになった. 皇極紀 643年, 百済の太子余豊、蜜蜂の房四枚を以て、三輪山に放ち養ふ. 豊章はまだ13歲の子供で三輪山で遊んでいた. 迫る危險から母を護る力をもっていなかったとの意味であろうか?

すると舒明と斉明の間での二男とは誰であるか? 豊章と善光を覺えますか? 大海皇子とか大海人皇子は日本書紀で豊章といっしょうには出て來ない豊章の影でございます.

大海皇子は登場しなく, 豊章と一緖に移動していた大田皇女と鸕野讃良皇女(持統)は百濟救援の遠征中, 子を生む. 大田皇女と鸕野皇女の亭主はだれであろう.

斉明七年の春正月の丁酉の朔壬寅(661.01.06)に御船西に征きて始めて海路に就く. 甲辰(01.08)に、御船、大伯海に到る.時に、大田皇女、女を産む. 仍りて是の女を名けて、大伯皇女と曰ふ. 鸕野讃良皇女(持統) 662年 筑紫の那の大津で草壁皇子を産む。663年(天智2年)九州の那大津で大田皇女 大津皇子産む.

皇極元年の春正月の丁巳の朔辛未(642.01.15)に、皇后即天皇位す. 乙酉(01.29)に、百済の使人大仁阿曇連比羅夫、筑紫国より、駅馬に乗り来て言さく、「…. 百済国、然も其の国は、今大きに乱れたり (然其国者今大乱矣)」とまうす. 百済国とは九州のことである.

皇極紀642年記事は つづく. “今年の正月に、国の主の母薨せぬ. 又弟王子兒翹岐及び其の母妹の女子四人、内佐平岐味、高き名有る人四十余、嶋に放たれぬ” とした. 642年 正月, 国の主の母薨というのは 斉明の母,  吉備嶋皇祖母命薨のようだ. その喪中, 九州でなんが深刻な事態があったにちがいない. 大乱の中,  翹岐, 母斉明, 間人皇女 そして翹岐の妻の四人が島放たれて2月24日大和に流れてきたということである. それをきっかけに大和で乙巳の變が發芽する.

643年9月11日吉備嶋皇祖母命の記事が又出てくる. これは642年記事の重復と思われる. 日本書紀は斉明が九州にあった, 吉備嶋皇祖母命が九州で死んだ, 斉明が九州で, 皇祖母命の臥病したまひしより、喪を発すに至る及に、床の側を避りたまはずして、視養たてまつりたまふこと倦ること無かっだのを, 丸で大和での出來事のように見せるため歷史を誤魔化した. 皇極と斉明を同一人に仕上げる作業である. 

日本書紀は大和を正統として書れたから九州のことを全く触れていないが, 安閑天皇以來, 九州に九州王, 大和に大和王が 別別にあったのを認めなくて, 日本書紀の理解は不可能である. 崇峻 推古時代, 大和は九州倂呑の爲, 征伐軍を遣わしたが, かえって戰爭に負けて九州に倂呑されたのを日本書紀は曖昧に記錄したから普通の人は氣付かない. 崇峻4年 (591), 推古10年(602),  推古11年(603)九州征伐で大和は負けて九州の屬邦になってしまったことに氣付く人は別にないようだ.(88. 磐井の乱のコペルニクス的 転回, 93. 崇峻天皇の弑 參照)

645年6月12日中大兄の主導で鞍作臣を殺す. 鞍作死ぬ前, 皇極天皇に問う “当に嗣位に居すべきは天子なり. 臣罪を知らず. 乞ふ、垂審察(あきらめたま)へ」. 天皇大きに驚きて中大兄に詔して曰はく「知らず、作る所、何事有りつるや」.  

古人大兄、見て私の宮に走り入りて、人に謂ひて曰く、「韓人、鞍作臣を殺しつ. 吾が心痛し」といふ。

古人大兄の絶叫から當時 大和人は九州人を自分とは異なる, 百濟人又は韓半島から來た人と受入れたことがわかる. 中大兄, 中臣鎌子は大和人じゃなく, 九州又は百濟からきた韓人である. 乙巳の変は韓人である翹企(翹岐 - 中大兄)の仕業だと日本書紀は古人大兄の叫びを借りてはっきりとした. 明瞭な宣言である.

皇極天皇は乙巳の變の擧事計劃を知らなかったようだ. なぜなら皇極は中大兄の母じゃないから. 擧事の後, 除去されるのが彼女の運命だった. 皇室を美化するためならなんでもする日本書紀は彼女の存在自體を消してしまった.           

                                                                                    – おわり –