2015년 2월 28일 토요일

91. 神功摂政の眞相



古事記は仲哀天皇が息長帯比売命を娶って生んだ御子は品夜和気命, 次に大鞆和気(オホトモワケ)命, またの名は品陀和気(ホムダワケ)命であるとした. この太子の御名に大鞆和気命と負わせた理由は初め生まれた時, 鞆(とも)のような形の肉が腕にあった。そこで, その御名に付けた. 仲哀天皇の御年は五十二歳, 壬戌年六月十一日に亡くなった.

息長帯比売命は後で神功皇后と追贈された神話的人物で歷史的實相はよくわからない. 古事記と日本書紀の神功皇后記述の中で歷史的眞實を窺って見るのがこの書の目的である.

上の古事記の記述の中で 仲哀天皇が壬戌年亡くなったというのを受容してこれを西紀362年と決める. 仲哀天皇が362年亡くなったかどうかは分からないが, 362年というのは神功皇后が1年後出産する太子の生年になるから重要である. そんなふうに古事記は神功の太子が363年生れた情報を暗號のように殘したのである.

生まれた太子の腕に鞆(とも)のような形の肉があったから大鞆和気命と御名に付けたというのは日本書紀神功五十二年七枝刀の記事と繫がる裝置である.

神功五十二年 久低たちが千熊長彦とともにやって来た。そして七枝刀七子鏡等様々な宝物を献上し「我が国の西に流れる川は七日以上も遡ったところに水源があります. この水を飲み, この水源である谷那の鉄山の鉄を採掘して, 永続して献上しましょう」との言葉を伝えた. そしてまた, 王は孫の枕流(トムル)王に「私が交流を続けている東方の日本国は、我が国の勢力拡大に協力してくれ, それによって地盤を安定させることができた. おまえも友好を重視し, 貢物を絶やさないようにすれば、私の死後も安泰だろう」と語った.

百済の肖古王と王の孫の枕流(トムル)王が登場するこの場面は日本書紀がわざと殘したと思われる. 枕流(トムル)王は大鞆和気命(オホトモワケ)であり神功皇后の太子であるとの暗示である. すると神功皇后は百濟貴須王 (第14代近仇首王, 在位375年~384年)の妃になるのが眞相である. 仲哀天皇が息長帯比売命を娶ったというのは噓になる.

“古事記は仲哀天皇が息長帯比売命を娶って生んだ御子は品夜和気命, 次に大鞆和気(オホトモワケ)命, またの名は品陀和気(ホムダワケ)命である.” とした. ここで “またの名は品陀和気(ホムダワケ)命である.” の添加記錄が問題になる. 品陀和気命は應神天皇の御名であるから神功皇后の子が應神天皇であると主張するためこんなふうに史料を歪曲したんじゃないかと思われる.

大鞆和気命と品陀和気命は別人で品陀和気命の子が大鞆和気命である. 古事記の5)気比大神という項で “私の名を御子の御名と換えたいと思う”とある. 神功皇后の子の名前が 換えられたとの證言である.

日本書紀應神紀の系譜は神功紀となんの繫がりも見せない. 應神紀には應神以後の王權承繼について應神の苦惱が窺える. 皇后所生の大山守命と中后の大雀命より15から10歲ほど年下で又3歲しかなっていない宇遅能和紀郎子を選擇しなければならないのが 應神の苦惱である. あそこに王母の權力鬪爭が挾まれている. 丸邇の比布礼能意富美の娘, 宮主矢河枝比売は宇遅能和紀郎子の母后で優れた政治感覺の持ち主であったに違いない. 應神天皇は宮主矢河枝比売に屈服し宇遅能和紀郎子を落点する.

この決定は後に長い間王室に暗影を垂らす. 大山守命はこの決定に從わない. 品陀天皇(應神)は甲午年に亡くなった. 甲午年は西紀394年である. その喪中まで大山守命は父王の決定を拒否して政變を起したから宇遅能和紀郎子が大山守命を殺害してしまった.

日本書紀神功紀は新羅遠征から歸った皇后は十二月筑紫で誉田(ホムタ)天皇を生んだとした. 西紀363年のことである. しかし太子の名は大鞆和気命で誉田別命でない. 誉田別命は大鞆和気命の父王である.

遠征翌年(364) 鹿坂王と忍熊王の内乱を平定した豪族たちは皇后を皇太后(天皇の母)と呼ぶことにした. これを摂政の元年とする。

摂政三年(366)の春正月。誉田別皇子を皇太子(後継ぎ)とした。ここも大鞆和気皇子を皇太子(後継ぎ)としたとするべきである. そして磐余(奈良県桜井市)を都とした。若桜宮というらしい。

大鞆和気皇子は西紀366年3歲で旣に皇太子になった. そのとき大山守命は20歲位いである. 應神紀の妃の中で高木之入日売(大山守命の母),  中日売(大雀命の母), 弟日売は同母の姉妹同士で天皇と同一家門出身であるのにもかかわらず3歲の大鞆和気皇子が皇太子になったから家門の激しい反對に直面したに違いない. 大鞆和気皇子と宇遅能和紀郎子は同一人である.

西紀366年から宮主矢河枝比売は百濟の慰禮城を訪門, 百済の肖古王に泣訴する. そして家門の反對を百濟王の權威で突破しようとして七支刀を造ってもらい家門の人達ちの目の前に百濟王の璽書を傳示した.

七支刀の(表)は祖父として家門の後孫に世子奇生を認めよと賴んで, 又 (裏)は百濟王として世子奇生を倭王に命するとの 璽書である. 世子奇生とは大鞆和気皇子の百濟式名前らしい. 世子奇生は百濟の世子であり倭王でもある. 彼が百濟の 枕流(トムル)王になったのは384年である. 百兵とは家門の激しい反對派, 主に大山守命をさすようである. 今の兩國國民 としては 受容し難い史實である. 歷史學者さえも似た傾向を見せて七支刀の銘文を自分の好きなままに歪曲している. 七支刀の銘文の璽書を聖音と讀んだら意味の通じない文章になってしまう.

(表) 泰和四年十一月十六日丙午正陽造百錬鐵七支刀出辟百兵宜供供候王 暢德興福祖
(裏) 先世以來未有此刀 百濟王 世子奇生璽書 故爲倭王 旨造 傳示後世

ここまで來てしまうと, そうしたら宇遅能和紀郎子の父, 應神天皇は今何處に在るのかという疑問が出て來る. 彼は百濟 の北の國境で高句麗と對峙しているから倭で摂政の話しが出て來るのである. 應神は主に百濟本國で父王を補佐した. 應神は百濟の肖古王の子で貴須王と同一人である.

彼は384年枕流王に百濟を任せて倭に歸った. もしかすると宮主矢河枝比売の身の上になんか問題があったんじゃないだろうか? 384年宮主矢河枝比売 (息長帯比売命)も旣に50近くの歲である. 363年大鞆和気命を生んだとき25歲としたら彼女は338年生れとなる. 應神天皇は320年頃の生れで神功より18年位い年上であるから神功の子だとは無理な設定である.

                                                                 - 終り -


2015년 1월 23일 금요일

90. 神武東征 前後の歷史のジグソーパズル




日本古代史を記錄した古事記と日本書紀は兩方とも神の時代を先にして後に人の時代に繫がる構造になっている. 神の時代というから時間槪念がなく現象界の因果律が適用されない話が多い. 歷史というより神話の方が正しい表現で ある.  たからといって古事記と日本書紀の記錄に歷史的真実は全然ないという訳ではない.  真実と不純物の塊まりの中から真実たけを選び出す爲には何時も注目しなければならない. そんなところが古事記と日本書紀を勉强する楽しみで ある. 

神の時代と人の時代の區切りは神武東征であるが 時間槪念がない古事記と日本書紀は紀元前660年という愕然たる話をするばかりである. いろんな神話的要素を除いて神武東征はいつの出來事であるか調べてみるのがこの書の狙いである. そのため論議をつぎのように單純化する.

A. 先ず歷史的事件又は人物を時代順に並べて現象界の時間槪念で歷史の展開を見る. 神武東征を中心に先後の代表的事件又は人物を並べて 須佐之男命  - 大國主神 - 葦原中國平定 - 神代末倭の要人達 - 神武東征 – 論功行賞 – 大毘毘の登場までの 7項目を決めて須佐之男命との世代差を見て年代を推理する. そうすれば上記の歷史的イベントのある 時点の年代さえ分れば外の年代は自動的に大体の見当がつける.そういう訳で年代が確実な歷史記錄との繫がりを搜すのが重要である.

B. 一世代は凡そ30年を基本とするが場合によって20年足らずも認める.
C. 怪力乱神は語らない. 出來るたけ神話的要素は排除する.
D. 古事記と日本書紀に登場する系圖は参考にしても信じない. 神と人の名前は古事記に從う.

E. 須佐之男命を1世代として彼の後孫達ちの名に世代番號をつける.

須佐之男命(1)
大國主神(2)
大年神(2)
宇迦之御魂神(2)
天忍穗耳命(2)
阿遲志貴高日子根神(3)
事代主神(3)
大國御魂神(3)
奥津日子神(3)
賀茂建角見命(3)
天押帯日子命(4)
大倭帯日子国押人(4)
比賣多多良伊須氣余理比売(4)
大倭根子日子國玖流命(4)
波邇夜須毘賣(4)
AD 130
AD160
AD190
AD220

1.須佐之男命(1)と同時代に神格化すぎ天照大神があるが卑彌呼が歷史的個人の名である.又の名は織津で忍穗耳命
の生母.  須佐之男命は京都八坂神社の祭神, 天照大神は 伊勢神宮の祭神.

2. 須佐之男命(1)の子で重要人物は下記の通り.

大國主神(2)
須佐之男命(1)の長男で後繼者. 出雲大社.
大年神(2)
奈良県御所市 葛木御歳神社, 又の名は三島湟咋
宇迦之御魂神(2)
旦波を根據地としたが賀茂建角見命(3)時代に葛野に進出. 伏見荷大社.
天忍穗耳命(2)
須佐之男命(1)と天照大神の子.

3. 古事記葦原中國平定の登場人物. 葦原中國平定にはAD160から190年代生れの人物が登場する.

大國主神(2)
須佐之男命の子
阿遲志貴高日子根神(3)
大國主神の子, 御所市高鴨神社
高比賣(下照比賣)(3)
阿遲志貴高日子根神の妹
事代主神(3)
大國主神の子
建御名方神(3)
大國主神の子, 諏訪大社
天忍穗耳命(2)
天照大神の子
天菩比神(2)
天照大神を背信し大國主神に奉仕. 三年経っても報告に戻らなかった.
天若日子
天照大神を背信し大國主神の娘の下照比賣を娶りまた八年経っても報告に戻らなかった.
建御雷之男神


4. 古事記 神代末, 倭の要人達

阿遲鋤高日子根神(3)
大國主神の子, 神武以前大和の王, 迦毛大御神. 御所市高鴨神社, 欠史八代の懿德.
事代主神(3)
大國主神の子, 葛城鴨都波神社, 欠史八代の孝昭.
天押帯日子命(4)
事代主神(3)の子, 日本書紀, 古事記とも事績にする記載はない.
大倭帯日子国押人(4)
事代主神(3)の子, 大物主神, 三輪氏の祖, 大神神社, 欠史八代の孝安.
比賣多多良伊須氣余理(4)
事代主神の娘, 神武皇后.
建御名方神(3):
大國主神(2)の子, 諏訪大社
大國御魂神(3)
大年神(2)の子, 速日命, 欠史八代の安寧.
宇痲志痲遲命(4)
速日命(3)の子, 物部氏の祖
勢夜陀多良比賣(3)
大年神の娘, 事代主神の妻, 伊須氣余理(4)の母, 三嶋溝杙姫, 玉櫛媛, 奥津比賣命, 竈神
奥津日子神
大年神(2)の子, 尾張連の祖, 勢夜陀多良比賣(3)の兄, 高倉下 = 劍根, 葛城國造
賀茂建角見命(3)
宇迦之御魂神(2)の子, 賀茂氏の祖. 京都賀茂御祖神社, 八咫烏(3)
天若日子/下照比賣
臍見の長柄丘岬(御所市長柄)の猪祝)

古事記と日本書紀は事代主神(3)と大物主神(4)を別神としたりまたは同一神として扱っているがこの二神は 別神として 區別する. 事代主神(3)の子が大物主神(4).

又 大國御魂神(3)の情報をつぎのようにあからさまにする. 大國御魂神(3)は大年神(2)の子で一名 邇速日命, 神武東征時 “阿遲鋤高日子根神(3) = 兄師木”の臣下であったが 兄師木を背反し侵略者と密通, 神武治下で功臣になった.

大倭帯日子国押人(4) = 弟宇迦斯(4)”も裏切り者で戰後, 神武治下で功名を樂しんだ人物である.

須佐之男命(1)の孫(3)と曾孫(4)の時代に神武東征があったと見える. 當時倭は大國主神直系の阿遲鋤高日子根神(3)が治めた. 神武東征時九州軍と協力して戰後論功行賞を受けた現地人, 弟師木(3) = 黑速, 弟宇迦斯(4), 高倉下(4) = 劍根, 八咫烏(3)は みんな須佐之男命(1)の後裔である. 須佐之男命(1)の家門自ら分裂, 敵と內通して國を破滅させた.

5. 神武東征  登場人物

神武東征 登場人物
備考
()神倭伊波禮毘古命
() 神日本磐余彦天皇
彦火火出見, 神武天皇, 難升米
五瀨命
五瀬命
東征中 死亡
槁根津日子
珍彦, 椎根津彦
倭国造
登美能那賀須泥毘古(登美毘古)
長髄彦
東征中 死亡
高倉下(大年神の子 奥津日子神)
高倉下
葛城国造, 剣根, 神武正妃母の兄
八咫烏
八咫烏
賀茂建角身命, 葛野主殿県主
兄宇迦斯(天押帯日子命)
兄猾
東征中 死亡
弟宇迦斯(大倭帯日子国押人)
弟猾
猛田県主
     


兄師木 (阿遲鋤高日子根神)
兄磯城
東征中 死亡
弟師木(邇芸速日命) 
弟磯城
磯城県主, 黑速

兄倉下
强硬派

弟倉下
强硬派
邇芸速日命
饒速日命
磯城県主, 黑速
登美夜毘賣       
三炊屋媛
宇痲志痲遲命
宇痲志痲遲命
可美真手命
邇芸速日命の子, 物部氏の祖
道臣命
道臣命
大伴連等の祖
大久米命
大久目
久米直等の祖
比賣多多良伊須気余理比賣
媛蹈鞴五十鈴媛命
神武正妃
勢夜陀多良比賣
玉櫛媛
神武正妃母
大物主神
事代主神
神武正妃父
当芸志美美命
手研耳命
神武長子
阿比良比売
吾平津媛
神武本妻


古事記と日本書紀の神日本磐余彦天皇の系譜は信じ難い.  歷史的展開を考慮して須佐之男命(1), 天忍穗耳命(2), 日子番邇邇(3), 彦火火出見命(4)の系譜が正しい.

AD 130
AD 155
AD 174
AD 194
天照大神 (卑彌呼)(1)
天忍穗耳命(2)
日子番邇邇(3)
彦火火出見 (難升米)(4)

神武東征はいつの出來事であるか? 三國志魏志倭人傳難升米の記事がある.

景初二年(238年)
六月 倭の女王が大夫の難升米らを派遣して帯方郡に詣で天子に詣でて朝献することを求めた.
正始四年(243年)
倭王は再び大夫の伊聲耆 掖邪狗ら八人を遣使. 
正始六年(245年)
詔を以て倭の難升米に黄幢を賜り帯方郡に付託して仮授せしめた.

魏志の難升米を難斗米と変換した書紀神功紀の記事は愛嬌だっぷりである. 升の代りに升の十倍の斗を擇んた. 難升米穂穂手見命(4)は同一人であり天照大神卽卑彌呼の曾孫であ. 西紀238年遣使から帰って穂穂手見命(4)は東征を宣言する.  

四十五歳になった時、兄や子を集めて、「我らの一族の神話では、高皇産霊尊と大日霎〔オホヒルメ〕尊(天照大神のこと)が地上世界を平定し、彦火瓊瓊杵尊に授けたことになっている。彦火瓊瓊杵尊は天から雲をかきわけてやって来て、この西の辺境の地を治めた。.. 東の方に美しい土地があるという。青山に囲まれた盆地で、そこには天磐船に乗って降りてきたと伝える一族もいるらしい。…….いっそ移住を考えてみようか」と語った。
                                                                                                                                                                    
西紀239年穂穂手見命(4) 四十五歳になった時とするから穂穂手見西紀194年生れになる.

その後東征で勝天皇は勝利を宣言する.「故郷を離れて六年になったが、振り返ると旅の途中で死んだ者もいた。周辺にはまだ揉めごとも多いが、饒速日命のように親切にしてくれる集団もいるので、もうこの地に定住してもいいだろう。巣や穴に住んでいるような人たちもいるが、せっかくだから高床式の屋敷を作ろう。付近を見てまわったが、畝傍山の東南の橿原の地が最適だろう」と言った。

六年經ったとするから西紀245年神武の時代が始まったことになる. 穂穂手見命(4) 51歲の時である.

ここで魏志倭人傳 正始四年, 正始六年記事を確めて見る必要がある. 西紀243年戰爭中 難升米再び遣使た. 魏は245年倭の難升米に黄幢を賜り帯方郡に付託して仮授せしめた. 243年の倭王とは難升米をさす. 243年伊聲耆 掖邪狗ら難升米征伐戰爭中であるのを魏に知らせたことになる.

穂穂手見命(4)45歲の時, 239年東征に出たとしたら神武東征に參加した人達は西紀190 -220年代生れと見ていい. すると”4.古事記 神代末, 倭の要人達”もその範籌に入る. 須佐之男命の3, 4世の後孫達が古事記神代末, 倭の要人達で あることが分る. 古事記葦原中國平定の登場人物を見ると須佐之男命の2世が3人含まれている. 大國主神(2), 天忍穗耳命(2), 天菩比神(2)3人は須佐之男命の2世である. 2世は160年代, 3世は190年代, そして須佐之男命本人は 130年代の人間と見ることが出來る.

 6. 神武天皇 論功行償

道臣命
築坂邑〔つきさかのむら〕(橿原市鳥屋町付近)に住着き
大久目たち
畝傍山の西の川辺に住み着いた
珍彦  國神
その子孫が倭国造
弟猾  大倭帯日子国押人(孝安天皇)
猛田邑〔たけだのむら〕に移って猛田県主
弟磯城と通称で呼ばれていた黒速〔クロハヤ〕の子孫   邇芸速日命(安寧天皇)
磯城県主
剣根〔ツルギネ〕という者  奥津日子神 =  高倉下
その子孫が葛城国造
八咫烏  賀茂建角身命
葛野主殿県主〔かづののとのもりのあがたぬし〕(山城国葛野郡)

7. 大毘毘の登場

当芸志美美命(5)
当芸志美美命(5): 彦火火出見(4)の長子
神沼河耳命(5)
皇后 伊須氣余理(4)の子, 綏靖天皇は卽位したことないと思われる
大毘毘命(5)
大倭根子日子國玖流命(4)の娘
日子国意祁都命(5)
天押帯日子命(4)の子, 丸邇臣の祖.
建波邇夜須毘古命(5)
日子國玖流命(4)の子. 母は波邇夜須毘賣(4). 現京都 賀茂別雷神社の祭神
日子夫玖命(6)
日子国意祁都命(5)系譜の子
日子坐王(6)
大毘毘命(5)系譜の子で日子夫玖命(6)と同一人

西紀245年神武の時代が始まった時穂穂手見命(4)は51歲, 彼の長子, 当芸志美美命(5)は25位いで皇后伊須氣余理(4)
20歲前後と思われる. 255年頃61歲の穂穂手見命(4)の死亡と同時に倭は混沌狀態になった. 当芸志美美命(5)が王位を繼くとして動き出したのは自然である. 當時35歲位いの当芸志美美命(5)は東征の戰爭は勿論その間國政へ參與したとしたら彼が卽位するのはなにも可笑しくはないが神武の皇后伊須氣余理比賣を含んだ倭の先住勢力は九州人脈の卽位を許さ なかったらしい. 彼は强いて卽位して嫡后の伊須気余理比賣を娶ったと古事記は記錄した. その結果先住勢力の反撥をよび当芸志美美命(5)が殺された. 皇后伊須氣余理(4)の子神沼河耳命(5)246年生れとしたら神武死後10歲程の子供で綏靖天皇になって卽位した可能性なんかないはずである.

神武以後天皇として羅列された欠史八代綏靖, 安寧, 懿德, 孝昭, 孝元天皇は卽位したことのない架空の記錄である.

三國志魏志倭人傳西紀247年記事は”…更新して男の王を立てるが、国中が服さず、更に互いが誅殺しあい、当時は千余人を殺した。再び卑彌呼の宗女「壹與」を立てる。十三歳で王となると、国中が遂に鎮定した.”とある. 247年の記事は時期がなる幾つの記事の破片が混じっている. この時点は大體257年位いで卑彌呼の宗女「壹與」という13歲の少女が合意によって卽位するようになったらしい.  すると古事記の何處に「壹與」に當る記事があるか? 難しい質問である. なぜかすると古事記の編者達はあとでこんな疑問が出ると豫想し, ばれないように工夫したにちがいない. 虛点は殆どないと思われる.

孝昭天皇(3)の御子は天押帯日子命(4), 次に大倭帯日子国押人命(4)である。そして弟の大倭帯日子国押人命(孝安)が天下を治めることとなった。兄の天押帯日子命(4)は、春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壱比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢飯高君、壱師君、近淡海国造の祖である。

天押帯日子命(4)には尨大な後孫が羅列されているが事績にする記載はない . 尨大な後孫が羅列されているのにも拘らず彼の子の記錄さえない.

孝元天皇(4)の御子は大毘古命(5), 次に若倭根子日子大毘毘命(5)がある. そして若倭根子日子大毘毘命(開化)が 天下を治めることとなった. 若倭根子日子大毘毘命(開化)が丸邇臣の祖である日子国意祁都命(5)の妹, 意祁都比賣命を娶って生んだ御子は日子坐王(6)である.

日子国意祁都命(5)もなぜか事績に関する記載はない. 丸邇臣の祖であるというのが 全てである. しかし日子国意祁都命(5)は何等かの事情があって Identityが 隱されたと思われる. 開化天皇(5)の妃の中に日子国意祁都命(5)の妹があったという記事に名前が出るばかりの日子国意祁都命(5)は孝昭天皇の長子, 天押帯日子命(4)の子である. 天押帯日子命(4)は神武東征時戰死した兄宇迦斯(4)で弟の弟宇迦斯(4)の謀略で死んた. そんなわけで神武が死んたあと戰歿勇士兄宇迦斯(4)の子, 日子国意祁都命が家門の関心を引くのは当り前ではないだろうか.

日子国意祁都命(5)に子があったと傳われる. 『古事記』では「日子夫玖命」, 『日本書紀』では「彦葺」だが明らかな記述はない. 天押帯日子命(4), 日子国意祁都命(5), 日子夫玖命(6)の三代の記錄が殆とないのはなぜであろうか.
萬世一系の天皇家のイデオロギーを確立するため天皇系譜での次の血統が著しく露出されないように鴨氏-和邇氏系譜さえも捏造された. 天押帯日子命(4)次の血統が倭王家の主流であったのを承知している人は少ない.

鴨氏-和邇氏系譜 (數字は世代番號)
AD 220
AD 245
AD 270
AD 300
AD 330
天押帯日子命(4)
(神武東征中死亡)
日子国意祁都命(5)
丸邇臣の祖
比古由牟須美命(6)
日子坐王(6)
(彦国葺)
倭建命(7)

應神天皇(8)


日子国意祁都命(5)にも妃があるはずだが記錄はない. もし日子国意祁都命(5)の妃が古事記に男性として登載されたら誰の目にも日子国意祁都命(5)の妃は見えない. それが今までの有り樣だった. 若倭根子日子大毘毘命(開化)は女である. 開化の子, 日子坐王(6)は日子国意祁都命(5)の子で, 日子坐王(6)日子夫玖命(6)は 同一人である. そこでやっと「壹與」の影が見えはじまる. 開化の実体を隱すため夫の Identityを明らかにしなかった. 古事記の開化の系譜は多分日子国意祁都命(5)の系譜を基にして適當に仕上たものである.

孝昭天皇(3)が春日建国勝戸賣の娘, 名は沙本之大闇見戸賣を娶って生んだ子は沙本毘古王(4)と沙本毘賣命(4). またの名は佐波遅比賣である. この沙本毘古王(4)は孝元天皇の隱された名前であり沙本毘賣命(4)は伊久米天皇(垂仁)の后となった。 開化天皇(5)の父が孝元天皇(4)であるから開化は春日之伊邪河宮において天下を治めた。開化の夫, 日子国意祁都命(5)の領地は丸邇(現天理市)だから奈良市と天理市の相距である. そういう譯で神武以來畝傍山麓から御所を中心とした葛城山麓にあった皇居が開化天皇の時春日之伊邪河まで北上する.

古事記開化天皇(5)日子坐王(6)の系譜は誤謬の塊りである.  すると「壹與」卑彌呼の宗女というのはなぜであるか?

古事記は天照大神の天忍穂耳命(2)が高木神(高御産巣日神)の娘萬幡豊秋津師比賣〔ヨロヅハタトヨアキツシヒメ〕命と結婚して日子番能邇邇藝命(3)をとした. 天照大須佐之男命(1)と同時代人としたから高木神も同時代人と見ていい. 邇邇藝命(3)は天照大と高木神の孫である. 開化天皇(5)孝元天皇内色許賣命を娶って生んだ娘である.

神化的要素を除去したら天照大と高木神は同一家門出身である. 天忍穂耳命(2)も高木神(高御産巣日神)の娘を娶って邇邇藝命(3)を生んだ. もし開化天皇(5)の母, 内色許賣命が 高木神の家門出身だっだら筋が通る話になるのではないでしょうか. すると開化天皇(5)は須佐之男命(1),天照大, 高木神の血統であるから神武以後諸勢力の合意に依って卽位することが出來たんじゃないだろうか.

三國志魏志倭人傳の記事を顧みてこの書をまとめたい. 

西紀243年東征中難升米は 伊聲耆掖邪狗ら八人を遣使として天子(魏の皇帝)に朝献した. 天子(魏の皇帝)245年詔を以て倭の難升米に黄幢を賜り帯方郡に付託して仮授せしめた. 黄幢とは 天子が認める倭國の指揮旗のような物である. (帯方郡)太守の王頎は 247年 長城守備隊の曹掾史である張政らを倭に派遣し、詔書、黄幢をもたらし、難升米に拝仮させ檄文を為して(戦いを止めるように)これを告諭した. (難升米は東征が丁度終った時点で中國の天子が認める倭國の指揮旗を手に入れたのである.)

247年張政らが倭を訪門した後, 帯方郡太守王頎が 洛陽の官府に到着して報告したとしてなる幾つの記事の破片を羅列しているがこの記事は異なる時点の記事である.

(1)倭の女王「卑彌呼」と狗奴国の男王「卑彌弓呼」は元より不和。倭は載斯、烏越らを派遣して、帯方郡に詣でて攻防戦の状況を説明した。(これは238年以前の出來事である.)
(2)帯方郡は長城守備隊の曹掾史である張政らを派遣し、詔書、黄幢をもたらし、難升米に拝仮させ、檄文を為して、(戦いを止めるように)これを告諭した。(難升米は旣に倭王である.)
(3) 卑彌呼は既に死去しており、大きな墓を作る。直径は百余歩、殉葬する奴婢は百余人。(247年張政らが倭を訪門して把握した情報で卑彌呼が何時死去したか明示されていない.)
(4)更新して男の王を立てるが、国中が服さず、更に互いが誅殺しあい、当時は千余人を殺した。再び卑彌呼の宗女「壹與」を立てる。十三歳で王となると、国中が遂に鎮定した。(247年帯方郡張政らと関係ない後代の出來事)
(5)張政らは檄文を以て壹與を告諭し、 壹與は倭の大夫の率善中郎将「掖邪狗」ら二十人を遣わして張政らを送り届けたによって、臺(皇帝の居場所)に詣でて、男女の奴隷三十人を献上、白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢献した。 (張政らと関係ない後代の出來事)
(6)晉書武帝紀 泰始2(266) 十一月己卯倭人來獻方物

 陳壽(? – 297)の三國誌は魏文帝黃初元年(220)から晉武帝太康元年(280)までの時期をカバする. 西紀265年司馬炎により 魏皇帝曹奐は禅譲を強要され魏は滅びた.司馬炎は新たに西晋を建て280年に呉を征服し三国鼎立の時代を終わらせた。
そんな混亂中の記錄であるから一つ一つの歷史的情報の破片達が充分に檢討されないまま三國誌に記錄された.

(4)は神武死後の倭の狀況である.  (4),(5)は魏が滅びた後のの記錄から陳壽(? – 297)が採錄した情報である. (6)は266晉書倭人來獻方物記事で壹與の時代中國の認證を望んでの遣使だと見える. 

- おわり -




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