2017년 8월 25일 금요일

99. 信じ難い歷史の展開


永楽6年(AD 396)に、高句麗王(廣開土王)が自ら大軍を率いて百済軍を討伐した。 王(広開土王)は「壹八城」以下58城を攻撃したが、百済は正義の高句麗に屈服しないばかりか戦いを挑んで来た。王は激怒し、漢江を渡って先鋒部隊を百済の王都に迫らせた。(これを見た百済軍は恐れおののいて)  百済の王都に逃げ帰った。  そうして百済王(阿莘王)は困り果てて、  男女の奴隷千人、 上質の布千匹を差し出し、  王(廣開土王)の前に跪いてこれからは 永遠に王(廣開土王)の臣下になりますと誓った。 王(廣開土王)は先に迷っての過ち  (「百済」が「高句麗」に叛いて「倭」と同盟したこと)を許し、 王は 58城、村700を奪い、残主の弟および大臣10人を 人質にして都に帰った。(好太王碑文)

枕流王が385年11月に死去したとき、阿莘王がまだ幼かったので叔父の辰斯王が第16代の王位を継ぎ、辰斯王が392年11月に死去して阿莘王が第17代の王位についた。(三国史記 百済本紀)

阿莘王六年 (397)夏五月百済は倭国と友好を結ぶために「太子」を人質に出した.

古事記 応神天皇の子孫の處で若野毛二俣王(372 – 424)の子は;

大郎子:オホイラツコ。またの名は意富富杼:オホホド王。(391 – 432)
次に忍坂之大中津比売:オシサカノオホナカツヒメ命。(393 - )
次に田井之中比売:タヰノナカヒメ。(396 -  )
次に田宮之中比売:タミヤノナカヒメ。 (399 -  )
次に藤原之琴節郎女:フヂハラノコトフシノイラツメ。(402 -  )
次に取売:トリメ王。
次に沙禰:サネ王。でございます.

百濟の阿莘王は倭の若沼毛二俣王をさします. 大郎子又の名は意富富杼王 (391 – 432)は 百濟の腆支王(或云直支)と 同一人である. 信じられますか? 行く途が遠いから驚くのは又速い.

阿莘王が王(廣開土王)に差し出した残主の弟および大臣10人の中には阿莘王の公主, 忍坂之大中津比売命も含まれていた. 公主のお歲ただ四つにすぎなかった頃である. 阿莘王が24才であったから娘も幼ない. 廣開土王は大中津比売命を大事に育てて後で自分の子のお嫁にしたらしい. 大中津比売命を嫁にした王子の名は珍, 高珍であって宋書に出る倭の五王の一人である.

397年阿莘王が太子を倭国に送ったのは人質に出したのではなく戰爭の危險から太子を保護するためだった. 倭は當時 百濟の他國じゃなく領有地であって百濟の支配下にいた.  歷史とは信じ難く眞實からも遠いようだ.

広開土王 永楽14年 (AD 404) 不法にも「倭軍」は「百済」と共に帯方界にまで侵攻し「石城」にまでやって来た。「倭軍」は船を連ねて侵攻して来たのである。(この知らせを聞いて)(広開土王)が自ら軍を率いて平壌から出陣した。先鋒部隊が「倭軍」らと遭遇し、「高句麗軍」は王の旗印を翻して侵略者「倭軍」(倭寇)と戦い、これを壊滅させた。惨殺したもの無数に上ったのである. (好太王碑文)

永楽17年 (407) 王(広開土王)は歩兵・騎兵5万を遣わし、(倭軍)の討伐に向わせた。(倭軍)との戦いは、相手を総て斬り尽くし、捕獲した鎧は1万余領、軍用物資・兵器は数知れなかった。帰還の途中、沙□城婁城□留城など多くの城をも攻め立て破壊した. (好太王碑文)

410年頃 高句麗軍は九州北部地域を占領し福岡縣久留米市を據占とした. 412年広開土王死亡, 414年好太王碑が 建立 された. 417年頃王子高珍が久留米市の高良山に陣取った. 高良大社で祭る玉垂命 (たまたれのみこと) こそ王子高珍を さすことを知っている人は少ない. 忍坂之大中津比売は418年頃高良大社で木梨之軽王を産んだ.

 日本書紀仁德十二年の秋七月 高麗国(高句麗)が鉄の盾と鉄の的を披露しに来た。八月。高麗の使者を歓待した。この日、豪族たちや家来たちを集め、高麗の献上した鉄の盾と鉄の的を射させた。多くの人が射通すことができず、ただ的臣 (いくはのおみ)の祖先となる盾人宿禰 (タテヒトノスクネ) だけが鉄の的を射通した。高麗の使者はこれに驚愕した。翌日になり、盾人宿禰を誉めて的戸田宿禰 (イクハノトダノスクネ)という名を与えた。また、小泊瀬造(をはつせのみやつこ)の祖先の宿禰臣 (スクネノオミ)に賢遺臣(さかのこりのおみ)という名を与えた。

王子高珍は417年仁德と交涉に出たらしく仁德は王子高珍に宿禰臣又は賢遺臣という名を与えた。宿禰臣は後で允恭天皇の名前に現われる. 允恭天皇の名前は雄朝津間稚子 宿禰天皇である.

日本書紀允恭十四年の秋九月。天皇は淡路嶋で狩りを行った。大きな鹿や猿、猪があちこちの山谷に溢れていたが、炎のように見え隠れしては蝿のようにすばしっこく逃げ、一匹の獣も獲れなかった。狩りをやめて占うと、嶋の神の祟であることがわかり、「赤石(兵庫県明石市)の海底に真珠がある。その珠を供え物とすれば、獣を与えよう」との神託を得た。そこであちこちの海人(漁師)を集めて赤石の海に潜らせたが、海が深くて誰も底にたどり着けなかった。すると、阿波国(徳島県)の長邑(那賀郡)に住む男狭磯 (ヲサシ)という海人が、腰に縄をつけて海に潜り、しばらくしてから出てきて、「海底に大きなアワビがあり、なにやら光っていた」と報告した。男狭磯はふたたび潜り、大きなアワビを抱えて出てきたが、すでに息絶えており、プカプカと波に浮かんでいた。縄を外して深さを測ると、六十尋のふかさであった。そのアワビを切り裂くと、腹の中に桃の実のような大きな真珠があった。それを神に奉げて狩りを行うと、多くの獣が獲れた。ただし、男狭磯が死んだことを悲しみ、墓を作って手厚く埋葬した。その墓は今もあると伝わる。

日本書紀允恭十四年記事は大體418年の出來事でしょう. 仁德天皇が高句麗軍と淡路嶋で接戰中死亡したらしい. 男狭磯とは大鷦鷯のことでしょうね. その墓は今もあると伝わるというのが決定的端緖ではないでしょうか.

日本書紀允恭三年の春正月。使者を新羅に派遣して医者を求めた。秋八月。新羅から医者が訪れ、天皇を診察した。すぐに病気が治り、天皇は喜んで、医者を厚くもてなして帰国させた。

古事記には訪れた新羅の使者が医学に通じており、天皇を治したとある。古事記允恭天皇2) 氏姓の制定の處でこの貢物の大使の名を金波鎮漢紀武と言う。この人は薬の処方を深く知っていたため、帝皇の病を治療して差し上げたとある.

この記事は大體428年頃と思われる. 418年の淡路嶋決戰で王子高珍も致命的負傷を負ったらしく高句麗軍は倭に進擊することなく九州に退脚, 福岡縣久留米市に籠もった. あそこで王子高珍は十年近く死境に置かれたようだ.

その間高句麗軍は倭の反擊に備えて九州と瀨戶內に山城を築造した. その跡を今神籠石とよぶ. 倭はその間大鷦鷯の墓を築造するのに盡力したらしい.

ここに出る新羅の波鎮漢紀金武は新羅の將軍であり福岡縣金武市を據占として王子高珍を補佐した. 高句麗と新羅の同盟軍が倭の占領に動員されたのである. 金武市の地名は將軍金武から由來したのである. 金武は453年允恭天皇が毒殺されたあと卽位した安康天皇でありますけど信じ難いでしょうね.

大體428年頃王子高珍の病気が治り倭占領作戰が再開される. 高句麗軍の難波攻略が始まって難波之高津宮の御殿に火を放つ. 履中天皇は難波を捨てて伊波礼之若桜宮 (奈良県桜井市)に避亂するが 432年 (壬申年) 履中天皇は死亡する. 高句麗軍が倭を占領したとのことでしょう. 以後水歯別命 (反正天皇)は少ない側近と逃避しながら抵抗するが次第に消滅して行く.

そして高句麗は百濟の支配勢力を制圧して倭の支配に成功した. 信じ難いけど.

432年 (壬申年) 王子高珍は遠飛鳥宮において天下を治めた。男浅津間若子宿禰命という名前で. いわゆる允恭天皇である.

日本書紀 応神天皇 三十九年の春二月。百済の直支王(腆支王。在位:405年~420年)がその妹の新斉都媛〔シセツヒメ〕を派遣して仕えさせた。新斉都媛〔シセツヒメ〕は七人の女性を連れて来た。

応神天皇 三十九年とはありえない. 応神は394年なくなった. 百済の直支王が新斉都媛と七人の女性を倭に送ったのは420年頃と思われる. 直支王の妹は四人であるが忍坂之大中津比売は王子高珍の妃である. のこりの三人は

田井之中比売
田宮之中比売
藤原之琴節郎女である.

古事記 反正天皇 后妃と御子は丸邇の許碁登臣(コゴトノオミ)の娘、都怒郎女(ツノノイラツメ)((紀)津野媛)を娶って生んだ御子は甲斐郎女, 次に都夫良郎女 二柱。
また、同じ臣の娘、弟比売を娶って生んだ御子は財(タカラ)王, 次に多訶弁郎女(タカベノイラツメ)。併せて四王である。

直支王の妹の新斉都媛とは丸邇の許碁登臣(コゴトノオミ)の娘、都怒郎女のようだ. 弟比売とは普通藤原之琴節郎女のことである. すると丸邇の許碁登臣(コゴトノオミ)とは直支王の倭の名前 意富富杼(オホホド)を歪(ゆが)めて作し出した僞名であろう. 新斉都媛は 田井之中比売であろうか田宮之中比売であろうかはっきりしない.

古事記允恭天皇は木梨之軽太子の御名代として軽部を定めた。大后の御名代として刑部(おしさかべ)を定めた。大后の妹の田井中比売(タヰノナカツヒメ)の御名代として河部(かはべ)を定めた。

日本書紀は允恭天皇が大后の妹の弟媛のために藤原部を定めたとした。

反正天皇死後允恭天皇は心の中で大后の妹, 弟比売 (藤原之琴節郎女) を熱望して大后の激しい反對にも拘らず琴節郎女を誘う. 結局弟比売を手に入れて幸わせになったが間も無く悲劇的終末を迎える. 運命の惡戱というか高句麗の夢が消えて終う. 木梨之軽太子と琴節郎女が愛し合うようになって太子が453年父王を毒殺してしまった. 信じ難い歷史の展開である.

                                                           - おわり -