2019년 3월 26일 화요일

108. 二つの顔を持つ応神天皇


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古事記と日本書紀は応神天皇が神功皇后の御子だと謳うからそれは事だろうと信じる人が多いようですが, 応神が神功の子とするのは矛盾である. 書紀に基づいたら応神(誉田) の出生から皇太子になるまでの記錄は次のようです.

AD 362
仲哀九年二月
仲哀天皇が筑紫の橿日の屋敷で亡くなった,  古事記は壬戌年(362)崩御とする.

    冬十月
新羅遠征
362
    十二月
皇后は筑紫で誉田〔ホムタ〕天皇を生んだ
363
遠征翌年二月
内乱 - 終決
363
冬十月
豪族たちは皇后を皇太后(天皇の母)と呼ぶことにした. これを摂政の元年とする.
365
神功三年 正月
誉田別皇子を皇太子(後継ぎ)とした
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神功十三年
武内宿禰に命じ、太子に角鹿(福井県敦賀市)の笥飯〔けひ〕大神を参拝させた。

古事記に拠ると、その地に鎮座する伊奢沙和気大神之命が夜の夢に現れて、「私の名を御子の御名と換たいと思う」と言った。そこで祝福して、「畏まりました。お言葉の通りに換えて奉まつりましょう」と申し上げた.

そういうわけで太子の御名は誉田別になった.

御子の御名と換て太子の御名は誉田別になったとしたら御子の御名はそれまでなんだったでしょう. そして御子に御名を遺った伊奢沙和気大神という神は誰を指すか?

上の記錄だけなら別に問題にならない.  しかし他の記錄と矛盾があったら事実関係が解明されなければならない. 神功皇后が25歲(362年)で応神天皇を産んだとしたら神功は338年頃生れになる.

日本書紀 応神天皇
385
三年
この年 百済で辰斯王(在位:385~392)が即位した。
392
十年
貴国の天皇に対して禮を失した。そこで紀角宿禰、羽田矢代宿禰、石川宿禰、木菟宿禰を派遣し、その外交姿勢を責めさせると、百済の国人は辰斯王を殺して謝罪した。紀角宿禰たちは阿花(阿辛王。在位:392~405)を即位させて帰還した。

392年 武内宿禰の4人の子 (紀角宿禰、羽田矢代宿禰、石川宿禰、木菟宿禰) は百濟の阿辛王 (在位392~405)を即位させて帰還した. 4人の子が平均して40代とすると352年前後に生れたことになる. すると武内宿禰は320年代の生れと見える.

日本書紀は応神の子, 大雀命と武内の子, 木菟宿禰は同年生れとした.  応神と武内は二人共320年代の人間でしょう. 応神の5人の子を出生順に並べると次のようになります.  

応神(誉田)天皇
額田大中日子命 345 -
大山守命 347 -
速総別命 350 -
大雀命  352 -
宇遅能和紀郎子  362 -
武内宿禰
紀角宿禰
羽田矢代宿禰
石川宿禰
木菟宿禰 352 -


継体天皇が應神天皇の5代孫という釋日本紀の記述も參考になる. 斯王(彦主人王)とは古事記雄略条の葛城山の神
雄略が大御刀と弓矢をはじめとして多くの官人たちの着ている衣服を脱がせ, 拝んで献った一言主神です.

釋日本紀上宮記逸文
應神天皇
若沼毛二俣
意富富杼王
乎非王
斯王(彦主人王)
継体天皇
320 - 394
370 - 424
391 - 432
412 - 455
430 - 475
450 - 531

ここで事実関係の矛盾が現れる.  338年生れの神功皇后が320年代の人間, 応神天皇を産むのはできません. 落とし穴は意外にも神功十三年事にあります. 神功皇后の御子の名前は誉田別でなかっだ. しかし太安万侶が神功皇后の御子を誉田別と名付けたから矛盾が出た. 応神天皇は眞の応神(誉田)と神功皇后の御子の応神との二つの顔を持つ. 応神天皇にはいろんな名前がある. 列拠された名前の中で胎中天皇と大鞆和気命は応神天皇の本の名前でないから除くべきです.

日本書紀
譽田天皇, 誉田別尊, 胎中天皇
古事記
品陀和氣命, 大鞆和気命(おおともわけのみこと)
播磨国風土記
品太天皇
『上宮記』逸文
凡牟都和希王(ほむたわけのみこ)

応神(誉田)天皇が神功皇后の御子でなかったら誰の子であるか. どうして太安万侶は応神(誉田)天皇の眞の姿を隱そうとしたか. 応神と神功は百濟と深く繫がっているからです. 百濟と倭の関係が深くなればなるほど歷史家の頭は忙しくなるわけです.

倭建命の皇子女を見ましょう.

古事記
日本書紀
布多遅能伊理毘売命
帯中津日子命 (仲哀)
両道入姫皇女
稲依別王
足仲彦天皇
布忍入姫命
稚武王
弟橘比売命
若建王
弟橘媛
稚武彦王
布多遅比売
稲依別王

大吉備建比売
建貝児王
吉備穴戸武媛 吉備武彦の娘
武卵王
十城別王
山代之玖玖麻毛理比売
足鏡別王

ある妻
息長田別王


仲哀天皇の名前は帯中津日子命で倭建命の子です. 仲哀には稲依別王という兄がある. 稲依別王こそ倭建命の長子で后继者になるわけですが稲依別の記錄は傳えない.  稲依別王は犬上君, 建部君等の祖としますから近江国犬上郡に因む.

日本武尊の子建部稲依別王の創祀という建部大社(滋賀県大津市)は倭建命をまつる. 犬上神社(滋賀県犬上郡)の祭神は日本武尊の第一王子稲依別王である. 古事記は意富多牟和気の娘, 布多遅比売が稲依別王を産んだとした.

布多遅比売
稲依別王
近淡海之安国造の祖である意富多牟和気:オホタムワケの娘, 書記ではこの御子を長男としている

意富多牟和気の情報はない. 近淡海之安国は建波邇夜須毘古の領地だったので意富多牟和気は建波邇夜須毘古の子と推測され倭建命と布多遅比売の系譜は次のようになります. 凡牟都和希は意富多牟和気を似っている.

建波邇夜須毘古 247 -
意富多牟和気  275 -
布多遅比売  300 -
稲依別王 320 -


日子国意祁都命 240 -
比古由牟須美命 270 -
倭建命 295 -
凡牟都和希王 320 -
宇遅能和紀郎子  362 -

稲依別王こそ応神天皇の眞の姿であり誉田別は応神天皇の兒名だったと思われます. 神功皇后記錄は架空の物語であるから無示するべきです. しかし神功のモデルになった人物がある. 古事記応神矢河枝比売がそれである. 矢河枝比売は362年菟道稚郎子を生んだ. 大鞆和気命(おおともわけのみこと)とも呼ばれたらしい. 365年菟道稚郎子を皇太子とした. この年武内宿禰は4歲の皇太子に角鹿の笥飯大神を参拝させた. ここでの皇太子(世子)は百濟のことである. 菟道稚郎子は384年百濟の枕流(トムル)王になった. 日本書紀は枕流をトムルと訓読みして枕流王は大鞆和気命のことであるとあからさまにした. 

七支刀銘文に拠れば百濟世子がさらに倭王にまで命じられるのは369年 (泰和四年) である. 菟道稚郎子世子奇生と呼ばれたらしい.

() 泰和四年十一月十六日丙午正陽造百錬鐵七支刀出辟百兵宜供供候王暢德興福祖
() 先世以來未有此刀 百濟王   (世子奇生 璽書 故爲倭王)  旨造 傳示後世

日本書紀 神功三年と応神四十年記事は同じ後継ぎ決定である. 神功三年のは架空の物語, 応神四十年記事が本物である.

365
神功三年 正月
誉田別皇子を皇太子(後継ぎ)とした

365
応神四十年
後継ぎの決定, 天皇は大山守命、大鷦鷯尊を呼び…菟道稚郎子を嗣〔ひつぎ〕(後継ぎ)と定めた。

神功五十二年の七枝刀と応神十五年の阿直岐記事も菟道稚郎子に因む. 神功五十二年記事は応神十五年に合せて記錄するべきです. 後人が眞相を勘付かれないように考案されたのが架空の物語, 神功紀でございます.

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372
神功五十二年
久低たちが千熊長彦とともにやって来た。そして七枝刀、七子鏡等様々な宝物を献上し、「我が国の西に流れる川は、七日以上も遡ったところに水源があります。この水を飲み、この水源である谷那の鉄山の鉄を採掘して、永続して献上しましょう」との言葉を伝えた。そしてまた、王は孫の枕流〔トムル〕王に、「私が交流を続けている東方の日本国は、我が国の勢力拡大に協力してくれ、それによって地盤を安定させることができた。おまえも友好を重視し、貢物を絶やさないようにすれば、私の死後も安泰だろう」と語った。これより後、毎年朝貢があった。


372
応神十五年
百済の王が阿直岐を派遣して良馬二匹を献上した。それで阿直岐に軽坂の馬小屋で飼育させ、その地を厩坂と名づけた。阿直岐はまた、文献にも詳しかった。そこで太子の菟道稚郎子の師匠とした。

応神四十年後継ぎの決定に抵抗する菟道稚郎子の兄達の反對を制圧するため七枝刀が制作され後世の目の前に傳示された372年, 阿直岐も百濟の世子の師匠として一緖に良馬二匹をつれてやって來た. 百濟世子でありながら369倭王に命じら れた菟道稚郎子に對する百濟王の配慮は限りない.

応神(誉田)天皇 皇子 (出生順)
額田大中日子命 345 -
大山守命 347 -
伊奢之真若命 350 -
大雀命  352 -
宇遅能和紀郎子  362 -

古事記応神条には矢河枝比売と向かい合った天皇の喜ぴがよく描かれている.

この蟹はどこの蟹だ。遠くから運ばれた角鹿の蟹だ。横に歩いてどこへ行く。伊知遅島や美島に着く。そこに住み着く水鳥が潜ったり息をしたりするように、起伏のある佐佐那美への道を、スンスンスーンと私が進んで、木幡の道で出逢った乙女よ。後姿は楯のようにスリムで、歯並びは椎や菱の実のように整っていて白い。櫟井の丸邇坂の土を、表面の土では肌が赤くなるし、底の土では黒くなるので、中ほどの土を取って、直火には当てずに、それで眉:まゆを描き、濃く垂らして描いている、出逢った美女よ。こうしたいと私が思った子と、ああしたいと私が思った子と、向かい合っている。寄り添っている. このようにして結婚し生んだ御子が宇遅能和紀郎子である。

365年(4歲)百濟の皇太子(世子), 369年(8) 倭王になった宇遅能和紀郎子の後ろには応神が一目で惚れ込んだ矢河枝比売がいた. 矢河枝比売の系譜は次のようです.

天押帯日子命
日子国意祁都命
比古由牟須美命
倭建命
品陀和気命
AD 220
AD 245
AD 270
AD 295
AD 320

天押帯日子命
日子国意祁都命
日子坐王
比布礼能意富美
矢河枝比売
AD 220
AD 245
AD 275
AD 310
AD 338

- おわり -