2014년 8월 29일 금요일

88. 磐井の乱のコペルニクス的転回



日本書紀は西紀536年宣化(467 – 539)が卽位したと記錄した. 宣化は繼體天皇の第二子であり安閑天皇(466 – 536)の同母弟である. 繼體天皇(450 – 531)は16歲で安閑, 17歲で 宣化, そして59歲で欽明(509 – 571)を産んだことになるが いろいろ疑問がのこる. その年二月もとのごとし大伴金村大連を大連物部麤鹿火大連を大連, 又蘇我稻目宿禰を大臣と 任命した.

蘇我稻目(506 – 570)という人物が歷史に始めて登場する. それも舊時代の巨物政治人大伴金村と物部麤鹿火と共に 蘇我稻目という政治新人が大臣と任命された. 蘇我氏はそれから 110年間大和の政治の實權を掌握した.

蘇我稻目は 欽明天皇と同年輩で同時代を生きたから彼が大臣と電擊拔擢されたのは彼の歲30位いである. しかし彼が誰 の子で, なにをしたか, どうして無名の人がいきなり大臣になったかについて日本書紀はなにも明かにしなかった.

蘇我稻目の系譜についていろいろと假說が出ているがそれを證明する根據はない. 4世紀の武内宿禰の子の中に 蘇我石川宿禰という人物があるから武内宿禰の後孫と見る假說もあるが信じ難くい.

西紀536年蘇我稻目(506 -570)の登場以來 蘇我氏は大和の政治的實權を握って大臣として天皇に奉仕しつづけた. 蘇我馬子(551– 626), 蘇我蝦夷(586– 645), 蘇我入鹿(610 – 645)まで4代110年の間倭の國政を左之右之したが645年 中大兄皇子が政變を起こして宮中で 蘇我入鹿を殺害し政權を奪取するに至って 蘇我4代の時代は終焉を告げた.

西紀536年 宣化の登極と共にその時まで無名であった 蘇我稻目がどうして大臣になって國政を主導する權力を持つ ようになったのか. その疑問は未だ答えられていない. この解說はその疑問に答えようと書かれた.

日本書紀が記錄した歷史の破片はあるほど信憑性が認められる. しかし前後左右の相關關係を明かにしないまま天皇制のイデオロギを確保する目標で歷史を恣意的に解釋したのが 日本書紀の本質である. 蘇我稻目と言う人名自體が當代の實名でなく後代の史家たちが作くった名前である. 蘇我という氏は勿論稻目, 馬子, 蝦夷, 入鹿の名も史家たちの創作と見た方がいい.

繼體(450 – 531)時代磐井の乱が起こった. 磐井という名も前後左右の說明なしに但一回の事件に出るばかりである. そして 磐井の Identityが把握できない. 磐井も史家たちが選擇した僞名であり日本書紀が記錄した事件の脈絡は創作にすぎなく 眞實でない. その時代登場する又一人近江毛野臣も僞名で實名ではない.

日本書紀は正史の記錄でなく天皇制という宗敎の爲に書かれた經典である. 經典に登場する人物たちが 前後左右 脈絡を 失なって別別の歷史の破片として存在するから文字資料に絡まれて歷史を見ようとしたら 歷史は見えない.

歷史の斷片的破片をパズルのように合わせるためにはもっと多い破片が要る.

雄略五年(461) そして加須利君は弟の軍君:コニキシ<昆支>に、「お前は倭に行って天皇に仕えよ」と告げた。軍君は、「国王の御命令であれば、断る理由はありません。願わくば、国王の夫人の一人を私に下賜していただき、同行させたいと思います」と答えた。加須利君は妊娠していた夫人を軍君に預け、「この夫人はすでに臨月に入っている。もし道中で出産したら、船に乗せてどこからでも帰国させよ」と告げた。そして日本に派遣した。六月。加須利君の言葉通り、夫人は筑紫の各羅嶋で出産した。それでその子を嶋君と名づけた。軍君は船で母子を帰国させた。これが後の武寧王である。

日本書紀の “倭に行って天皇に仕えよとが軍君は船で母子を帰国させた”という記錄は噓である. 日本書紀は武寧王母の名前を明からかにしなかった. しかし日本書紀どこかに 武寧王母の名前を殘したろうと思われる - 想像をも超越する方式で. それが飯豊皇女である.  嶋君を産んだ後彼女は昆支の愛を受け入れなく男と關係を持ってなかったと日本書紀は 證言する. 昆支も又純愛の片思いを一生貫いたとする. 昆支の又一つの名は日本書紀に淸寧天皇となっている.

日本古代史の中で子供の時から王位の正統性が認られる人物は二人しかない. 西紀369年の菟道稚郎子(後の百濟枕流王)と 477年の 宋書の倭王武がそれである. 嶋君, 倭王武そして百濟武寧王は同一人で日本書紀の雄略紀はすべてが創作である.

古事記の雄略紀に出る子供天皇の逸話と萬葉集卷一の一番先に登場する御製歌(おほみうた)は飯豊皇女の子嶋君の逸話で ある. 嶋君16歲の頃と思われる. その頃本物の雄略は生きていたならば59歲で飯事(ままごと)遊びする年ではない.


日本書紀武烈四年(502) 百済の末多王が横暴な振る舞いをし人民を苦しめた。国人はついに王を廃し嶋王を擁立し武寧王(在位502 - 523)とした。

西紀479年嶋君は叔父昆支と共に日本を離れた. 國を母飯豊皇女に任せて. 古事記雄略紀の赤猪子(あかいこ)はその時懷妊中であったと思われる. 嶋君がそれから502年まで何處でなにをしてたが分からない.

西紀504年(武烈6年)百済国が麻那君(マナキシ)を派遣して貢納した。天皇は百済国がしばらく貢納しなかったことに不審を覚え、使者を留めて帰さなかった。

西紀505年(武烈7年)百済の王が斯我君(シガキシ)を派遣して貢納した。特別な書状を添え、「以前に派遣した麻那君は百済国の王族ではありません。そこで、新たに斯我君を派遣し、謹んでお仕えさせます」と申し開きをした。その後、この者に子が生まれた。法師君といい、倭君(やまとのきみ)の祖先である。

日本書紀が無邪氣に504年, 505年記事を殘したとは思われない. この記錄たけではなんの意味もない記事である. 麻那君を留めて帰さなかったというのは彼が日本で一生を過したと讀める. 百濟の武寧王は麻那君と斯我君を派遣して列島奪還を始めた. 列島は彼が生まれた地である. 百濟軍は九州へ上陸し漸進的に影響力を擴大して行った. 九州全體を百濟軍が掌握するのに20年位かかったと思われる. と言うのは百濟は當時大軍を遣わす程に國力の餘力がなかった. 武寧王の念願は子聖明代に成就された. こんな巨大なる歷史の變轉を日本書紀は磐井の亂という小題目の中に隱してしまった.

大和は西紀485年頃から大伴金村が掌握しており繼體天皇は彼の傀儡に過ぎなかった. 法師君は百済の太子淳陀と同一人で後の欽明天皇をさす. 聖明と欽明の諡號の中の明は偶然の産物ではない. 斯我君は繼體から大和を接受した安閑天皇で旣存權力層の財産沒收を斷行, 全國的規模の屯倉を設置した.

523年百済の武寧王が薨じた. 524年百済の太子明が即位し聖明王となった. 武寧王歿後大和は急ぎ始める. 526年繼體天皇は都を遷して大和の磐余の玉穗に置いた. そして事態收拾のイニシアティブを握る. やがて九州征伐の戰爭の幕が開く.

527年6月近江の毛野臣(けなのおみ)が、兵六万を率いて任那に行き、新羅に破られた南加羅、喙己呑を奪還し、再び任那と併合しようとした。このとき筑紫国造磐井が、ひそかに反逆を企ていたが、ぐずぐずと年を過ごし、事の困難さを恐れて隙を窺っていた。新羅がこれを知ってこっそり磐井に賄賂を送り、毛野臣の軍を妨害するよう勧めた。これに乗った磐井は、肥前、肥後、豊前、豊後などをおさえ、職務を果たせぬようにし、外は海路を遮断し、高麗、百済、新羅、任那などの国が貢物を運ぶ船を欺き奪い、内は任那の遣わされた毛野臣の軍を遮り毛野臣に揚言した。

磐井> 今、お前は朝廷の使者になっているが、昔は仲間として肩や肘をすりあわせ、同じ釜の飯を食った仲だ。使者になったからといって、お前に俺を従わせることなどできるものか。

そして交戦して従わず、気勢盛んであった。毛野臣は前進を阻まれ、途中で停滞してしまった.

西紀527年 近江の毛野臣が兵六万を率いて任那に行き新羅に破られた南加羅と喙己呑を奪還し再び任那と併合しようとしたというのは建前で, 本音は九州征伐である. 527年の第一次九州征伐は百濟軍の勝利で終わった. この戰爭は527年6月から528年夏まで少くとも一年の間續いた. 新羅が磐井に賄賂を送ったとは日本書紀の創作である.

そして528年物部大連麁鹿火が二次九州征伐軍を引率し九州を攻擊する. 勝ったら筑紫より西は麁鹿火にやるとの繼體天皇の約束と共に.

天皇は大伴大連金村、物部大連麁鹿火、許勢大臣男人らに詔して言った。

天皇> 筑紫の磐井が反乱して、西の国を我が物としている。誰か将軍の適任者はあるか。
大伴金村> 正直で勇に富み、兵事に精通しているのは、いま麁鹿火の右に出る者はありません。
天皇> それが良い。
秋8月1日、詔して言った。
天皇> 物部麁鹿火よ。磐井が叛いている。お前が行って討てまいれ。
物部麁鹿火> 磐井は西の果ての狡賢な奴です。山河の険阻なのを頼りに、恭順を忘れ乱を起こしたものです。道徳に背き、驕慢で自惚れています。私の家系は先祖から今日まで、帝のために戦いました。人民を苦しみから救うことは、昔も今も変わりません。ただ天の助けを得ることは、私が常に重んずるところです。よく慎んで討ちましょう。
天皇> 良将は出陣にあたっては将士をめぐみ、思いやりをかける。そして、攻める勢いは怒濤や疾風のようである。大将は兵士の死命を制し、国家の存亡を支配する。つつしんで天誅を加えよ。
そして天皇は将軍の印綬を麁鹿火に授け、最後に詔して言った。
天皇> 長門より東は私が治めよう。筑紫より西はお前が統治し、賞罰も思いのままに行え。一々報告せずともよい。

528年冬11月11日、大将軍物部麁鹿火は、敵の首領磐井と、筑紫の三井群(みいのこおり)で交戦した。両軍の旗や鼓が相対し、軍勢のあげる塵埃は入り乱れ、互いに勝機をつかもうと必死に戦って譲らなかった。そしてついに麁鹿火は磐井を斬り、反乱を完全に鎮圧した.

12月、筑紫君葛子は、父である磐井の罪に連座して誅せられることを恐れて、糟屋の屯倉を献上して死罪を免れることを請うた。

戰爭は終ったが 物部麁鹿火が九州を取った證據はない. 磐井は戰死したと思われる. しかし磐井の子筑紫君葛子は生き殘ったと日本書紀は記錄した. 戰爭の後大和では天皇および皇太子、皇子皆死んでしまったとの百済本記を引用する.

日本書紀はこの時期の歷史を有りのまま記錄しなかった. 物部麁鹿火の勝利としながら大和の天皇は殺害され新しい王朝が出現する. 日本書紀は安閑(466 – 536)が繼體(450 – 531)の子と宣言したがそれはうそである.

二次九州征伐軍は當時大和が動員できる最大の兵力であろう. しかし 斯我君の百濟軍は二分して一部が空になっていた大和を攻擊, 手早く繼體天皇と大伴金村を逮捕して九州戰況を逆轉させたのではないだろうか. 磐井(百濟の麻那君)の百濟軍は物部麁鹿火の二次九州征伐軍を九州へ足止め, 斯我君の大和攻擊の轉機を生み出した. その中で 百濟の麻那君が戰死した.

西紀532年斯我君(安閑)が大和の王となった. 西紀536年宣化(467 – 539)が王となった. そして蘇我稻目が大臣と登場した.日本書紀は磐井の子筑紫君葛子が生き殘こったとした. 西紀504年九州に入った磐井が筑紫君葛子を産んたのは506年頃と見て差しつがえない. 日本書紀は 筑紫君葛子を蘇我稻目という僞名で記錄した. たから系圖なんか確かめるために日本書紀を見るのは無駄である. 蘇我稻目は磐井の子であり開國功臣として大和の實權を掌握した.

福岡県筑後市, 八女郡広川町, 八女市にまたがる東西約10数kmにわたる八女丘陵上に分布する八女古墳群がある. 八女古墳群を代表する岩戸山古墳は福岡県八女市にある九州地方北部では最大の 前方後円墳で6世紀前半に造られた 筑紫君磐井の墓と推定される. 文献から被葬者と築造時期を推定できる日本で数少ない古墳の1つである.

古墳は東西を主軸にして後円部が東に向けられている。2段造成で北東隅に「別区(べっく)」と呼ばれる一辺43メートルの方形状区画を有するという特徴を持つ.

敵の首領磐井の墓は九州地方北部では最大の前方後円墳で別区を持つ特異な構造である. 隅には石人石馬が堵列している. どうしても敵の首領の墓とは見えない. 大和朝廷の大臣を輩出しつづけた開國功臣に相應しい墓である. 蘇我氏隆盛期には大和朝廷から每年大勢の權力者たちが參拜したに違いない. 別区とはそんな時使う空間たったと 思われる.

平安時代の天台宗の僧皇円(? - 1169)によって書かれた歴史書『扶桑略記』によれば、法興寺の刹柱を建てた日に蘇我馬子ら百余人は百済の服を着用して参列したという. 推古天皇元年(592)の 出来事である。

「元年正月蘇我大臣馬子宿禰依合戦願 飛鳥地建法興寺 立刹柱日 島大臣並百余人 皆著百済服 観者悉悦 以佛舎利籠置刹柱礎中。」

推古元年正月に蘇我大臣馬子宿祢が合戦願いにより飛鳥の地に法興寺を建てた。 刹柱を立てる日に嶋大臣(馬子)並びに 百余人は、皆「百済服 」を着て現れ 、 それを見た人々は 悉く悦んだ .

蘇我馬子は百済の麻那君の孫である. 嶋大臣(馬子)並びに百余人は皆「百済服 」を着て現れそれを見た人々は 悉く悦ん だ . 信じたくないが當代大和は百済の他國でない. 百濟人が百済服を着てたのはなにも驚くことない. そんな歷史の 否定の上で成立したのが日本國である. 眞實を捨てて天皇制という幻を夢見て.

                                                                   – 終り-