2016년 2월 16일 화요일

93. 崇峻天皇の弑



日本書紀は西紀592年崇峻天皇が弑害されたと記錄した. 弑害したのは天皇の大臣蘇我馬子である. 天皇を弑害した蘇我馬子はその後もなにもなかったように大臣として政局を主導した. 天皇家を天孫族として崇仰する日本書紀のスタイルとしては珍しい歷史の展開である. 臣下により天皇が弑害された唯一の例で死亡した当日に葬ったことと陵地陵戸がない ことは 他に例が 無い.

日本書紀巻二十一用明崇峻紀 治世5年 (592) 冬10月4日、猪を奉る者があった。天皇は猪を指さして言った。
天皇> いつの日かこの猪の頸を斬るように、自分が憎いと思う奴を斬りたいものだ。
朝廷で武器を集めることが、いつもと少し違っている事があった。
10日、蘇我馬子宿禰は天皇が言ったという言葉を聞いて、自分を嫌っていることを警戒した。一族の者を招集して、天皇を弑することを謀った。
11月3日、馬子宿禰は群臣を騙して言った。
蘇我馬子> 今日、東の国から調を奉って来る。
そして東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を使って、天皇を弑したてまつった。この日天皇を倉梯岡陵(奈良県桜井市倉橋)に葬った。

日本書紀は上のように事件の成行きをコメントしているがこれは書紀の創作にすぎない. この位いの事由で臣下が天皇を殺すなんてありえない. 蘇我馬子が崇峻天皇を弑害しなければならなかったもっと深刻な理由があったはずである. 法的責任からの免除をも包めて.

崇峻天皇はなぜ臣下により弑害されたのか?

用明治世元年(586) 穴穂部皇子が炊屋姫皇后を犯そうとし皇后が天皇の殯宮にいたところを押し入った. しかし先の天皇の寵臣であった三輪君逆(みわのきみさかう)が 兵衛を呼んで宮門をかため防いで入れなかった.

この記事から始まった政変(587)は穴穂部皇子, 宅部皇子, そして物部守屋討伐につづく.  この政変に関する日本書紀の說明は勿論造り話で炊屋姫皇后を犯そうとしたとか佛敎導入に見解差があったとかは日本書紀の論理に過ぎない.

この政変で勝った蘇我馬子,  炊屋姫らが泊瀬部尊(崇峻天皇)に勧めて即位の礼を行ったのは588年でその後大和國が本音を明かにするのは591年だった. 587年の政敵討伐は591年戦爭開始の前哨戦である。

崇峻治世4年 (591) 夏 秋8月1日、天皇は群臣に訪ね言った。
天皇> 自分は新羅によって滅ぼされた任那を再建したいと思うが、卿等はどう思うか。
群臣は相談し代表して馬子宿禰が答えて言った。
蘇我馬子> 任那の官家を復興すべきであります。みな陛下の思召しと同じです。
冬11月4日、紀男麻呂宿禰、巨勢猿臣、大伴嚙連、葛城烏奈良臣を大将軍に任じ、各氏族の臣や連を副将、隊長として二万余の軍を従えて筑紫に出兵した。

任那の官家を復興すべきとは見慣れた日本書紀の建前である. 591年11月4日筑紫に出兵, 592年11月3日崇峻弑害, そして11月5日 早馬を筑紫の将軍達のところに遣わして「国内の乱れによって 外事を怠ってはならぬ」と伝えたというのが日本書紀の內容である.

591年11月4日筑紫に出兵したのは 討伐しなければならない統治權力が當時九州に存在した證據である. 日本書紀が話したくない九州の統治權力はその年, 法興年號を宣布し國の上下が一致團結して大和の侵略軍と戦う. 1年餘りの戦爭は大和の敗北でおわった. 日本書紀が話したくない九州の統治權力が敗戦國大和に要求したのが崇峻天皇處刑, 大和に寺の建立, そして大和の制度改革であった. 蘇我馬子は九州の統治權力の要求にしたかって崇峻天皇を處刑し大和國は九州に服從 を誓って戦爭は 終った. 炊屋姫の卽位も勿論九州の承認の下での出來事である.

釈日本紀が引用した古書「伊予風土記」逸文の”法興6年(596)10月 我が法王大王が慧慈法師及び葛城臣とともに…”での法王大王こそ當時豊国の大王で慧慈法師は彼の佛法興隆を支援する任務をしていた. 大和に法興寺が建られる前に九州には幾つかの寺刹が建られていた. 當時九州はすでに佛敎を受容していたと思われる.

隋書倭國傳は開皇二十年(600年)倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使を王宮に詣でさせるとした.

日本書紀は話したくない歷史は躊躇(ためら)わなく歪曲または隱す. 九州の歷史を隱すから隋書倭國傳に出る多利思比孤という名の九州王 が日本書紀に出て來ない. もし記錄する必要がある場合多利思比孤という名は使わない. ばれないように変名を使う. だから日本書紀の歷史は謎に包まれている. 多利思比孤は息長足日広額天皇 (敍明天皇)の名の中の足日広に當るか? と推測するのが 精一杯であるからだ.

するとどうして九州に大和より上位の統治權力があったのか?

日本書紀が話したくないこの疑問に答えるためには安閑宣化時代に戾らなければならない.

532年卽位した安閑天皇は関東から九州まで屯倉を全國的規模に設置, 難波の大隈と 媛嶋松原に牛を大量放牧すると同時に櫻井田部連, 縣犬養連, 難波吉士等に屯倉の税を司(つかさど)らせた.

536年卽位した宣化天皇は 元年(536) 夏5月1日 詔して言った.

“食は天下の根幹である。黄金が万貫あっても 飢えを癒すことはできない。真珠が千箱あっても寒冷から人を救うことができない. そもそも筑紫の国は遠近の国々が朝貢してくる所で行き来の関門となっている. 海外の国は海の様子や天候の状況をうかがってこの地に到来する. そのため応神天皇の時代から私の代まで稲穀を収蔵してきた. 凶作に備え賓客を接待する際に用いてきた。国の安泰のためにこれ以上のものは ありえないだろう.

よって朕は阿蘇仍君を派遣して 加えて河内国の茨田郡の屯倉の殻を運ばせよう。蘇我大臣稲目宿禰は尾張連を派遣して尾張国の屯倉の殻を運ばせよう。物部大連麁鹿火は新家連を派遣して新家屯倉の殻を運ばせよう。阿倍臣は伊賀臣を派遣して、伊賀国の屯倉の殻を運ばせよう。官家を那津之口(ナノツノホトリ)に作り立てろ。また 筑紫, 肥, 豐の三つの国の屯倉は散り散りになって遠く隔絶したところにある。運輸するには遥かに隔たっている。もし必要となって用いようとするならばすぐには備えるのは難しいだろう。諸々の郡に課して分けて移して那津之口に集めて立てて非常時に備えて長く民の命とするべきだ。早く郡県に下して朕の心を知らしめよ”

日本書紀巻第十八安閑宣化紀に注目する學者は稀であるが短い記事の中に深刻な事實が含まれている. 安閑66歲卽位(532) つづいて宣化70歲卽位(536), 二人共 短い4年在位の間ずっと追われたように急ぎ續ける. 安閑は全國的な屯倉の大量設置, 難波の大隈と 媛嶋松原に牛の放牧, そして屯倉の徵税を督勵する. 宣化は全國的な物流システムを整備, 全國の屯倉からの殻を 筑紫の那津之口に集める.

凶作に備え賓客を接待する際に用いてきたと詔は言っているが大和でもない難波でもない那津之口とは可笑しい.

日本書紀巻十七継体紀 治世23年 (529) 春3月 百済王は下哆唎国守穂積押山臣に語って言った。
百済王> 日本への朝貢の使者がいつも海中の岬を離れるとき風波に苦しみ船荷を濡らしひどく損壊します. そこで加羅の多沙津を我が国の朝貢の航路として頂きたく思います.
押山臣はこれを伝え奏上した. この月物部伊勢連父根 吉沙老らを遣わして多沙津を百済王に賜った.

那津之口の向うは百済の加羅の多沙津である. 継体紀529年の記事と安閑宣化紀の記事は密かに繫がる. 百濟は聖明王16年(538)熊津から泗沘(所夫里)に遷都した. 百濟の泗沘(所夫里)遷都と安閑宣化時代の全國的な屯倉設置は同時に推進 された百濟の緊急な懸案である. 百濟は日本列島の殻を筑紫の那津に集めて船荷を加羅の多沙津まで送る責任者を九州に常駐させた. 日本書紀, 古事記が言及したことのないこの官職をここで便宜上, 百済の九州王と呼ぶ. 九州王は 百濟の財政をバクアプする重要なポジシヨンであったにちがいない. 大和の抵抗にも拘らず安閑から皇極まで凡そ 100年の間九州王は全國の屯倉からの殻を筑紫の那津之口に集めて加羅の多沙津に送ったはずである.

百濟は九州王歷任者を大和王に轉任するようにしたと思われる. 宣化, 欽明, 敏達, 用明もそうだった. だから587年穴穂部皇子は自分が用明以後大和王に卽位するのは當前と考えていたにちがいない. 物部守屋は元の如し九州の決定に從う べきと考えただけである. 穴穂部皇子が炊屋姫皇后を犯そうとしたとはあるまい. 穴穂部皇子, 宅部皇子, 物部守屋を討伐した大和の蘇我馬子,  炊屋姫, 泊瀬部尊(崇峻天皇)らは百濟に反逆したことになる.

なぜ大和を長く管理して來た百濟王家の後裔たちは母國百濟と九州に背いたのか?

日本書紀は大陸の影響なしで倭の天皇家が存續してきたと宣布しているが大和國はガラパゴス諸島(Galápagos Islands) のような孤島ではない. 今まで崇峻天皇の弑の本質がクリアに理解できなかったのは當時の歷史をガラパゴス島內の政変として見たからである.

1620年メイフラワー号(Mayflower) に乘った102名の乗客がイギリス南西部プリマスから アメリカの マサチューセッツ 州 プリマスに渡って來た. そこで定着した移民者たちは1世代の人間は自分をイギリス人と思う. しかしあそこで生れた 世代はアメリカ人のアイデンティティを持つようになる. 人間だれでも自分が慣ているところを國と思うのは自然である.

蘇我馬子(551– 626)は百濟人3世で大和國生れである(88. 磐井の乱のコペルニクス的転回 參照).  587年物部守屋討伐に動員された 泊瀬部皇子(29歲), 竹田皇子(15)、厩戸皇子(14)、難波皇子(19)、春日皇子(17)らは2世で大和國生れである.

磐井の乱から60年位い立つと大和國の空氣も大きく変わる. 大和國は 532年以來全國的な屯倉の殻を九州に奪われて自分たちの暮しが辛くなったとの不滿が廣がっていた. そして自ら大和王を選んで母國百濟と九州からの独立を追求した. しかし九州征討戦爭で九州に負けたのが崇峻天皇の弑の顚末である.

これが信じられなかったら推古時代の歷史を見るがいい. 九州に本の少しの隙さえ見えたら推古時代の大和國は九州征討 に出る. 日本書紀はその度任那の官家を復興すべきという見慣れた建前を流す. かわいそうに大和國の試圖は每度挫折 され大和は終に九州に合倂されてしまう. 629年九州王自ら征服君主として大和王に卽位したのが敍明天皇である.

推古時代現れる大和國の寺の建立と制度改革は九州の要求を受容した結果である. 大和國を正統として書れた日本書紀は九州に繫がる歷史を徹底に排除し大和國をガラパゴス島の國のように作り上げた. いつか調べ考える勇氣ある者が現われ明らかにするだろう.                                              
                                                                                                   - 終 –