2020년 7월 3일 금요일

112. 高良玉垂命の正體


高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)は 福岡県久留米市の高良山(こうらさん)に鎮座する筑後国一宮の高良大社の主祭神 である. 朝廷から正一位を授かった神なのに正体が不明で記紀にも書かれていない神樣である. 社伝によると高良玉垂命は仁徳天皇時代鎮座, 高良大社は履中元年創建と伝えられる

 

高良山(福岡県久留米市御井町)には古代山城跡がある. 誰がいつ何のために造ったのか判らない.山城の南半分の約1.6km にわたり約1300個の列石が山腹で確認される. 北半部では列石線は確認されていないが北側にも列石があったと推定さ

れる. 列石は約0.7 x 0.7 x 1 meter規格に加工され列石の最高所は標高251メートル(高良大社社殿付近) 最低所は北谷の 標高 65メートルで標高差は180 メートル もある.

 

城壁は基本的に一列に並べ置いた列石の上に版築土塁を巡らすことによって構築され谷部2ヶ所では石塁の水門とする. 全周約3 kmの城内面積は36ヘクタール位いである.

 

高良山の列石遺構について霊域を示すものと解釈して「神籠石」の名称で学会に最初に紹介されたのは1898年であるが

1900年山城説が提唱され, 発掘調査結果 神籠石論争は最終的に山城説で決着した. 敵の攻擊等の非常事態があったら軍民 が城内に籠って敵と對峙するように造られた山城だったと考えられる.

 

高良山神籠石が学会に発表された以來九州地方から瀬戸内にかけて列石遺跡が報告された.

 

神籠石(こうごいし) または神籠石式山城

 

名称

所在地

1

高良山神籠石    こうらさん

福岡県久留米市御井町高良山

2

女山神籠石       ぞやま

福岡県みやま市瀬高町大草字女山

3

雷山神籠石       らいざん

福岡県糸島市雷山

4

鹿毛馬神籠石    かけのうま

福岡県飯塚市鹿毛馬

5

御所ヶ谷神籠石 ごしょがたに

福岡県行橋市津積みやこ町勝山大久保犀川木山

6

杷木神籠石       はき

福岡県朝倉市林田穂坂

7

唐原山城           とうばる(たうばる)

福岡県築上郡上毛町下唐原土佐井

8

阿志岐城 (旧名:宮地岳古代山城)          あしき

福岡県筑紫野市阿志岐  

 

 

 

9

おつぼ山神籠石

佐賀県武雄市橘町小野原

10

帯隈山神籠石    おぶくまやま

佐賀県佐賀市久保泉町川久保町

 

 

 

11

石城山神籠石    いわきさん

山口県光市石城

 

 

 

12

鬼城山城(鬼ノ城)      おにのき(きのじょう)

岡山県総社市奥坂黒尾

13

大迴小迴山城    おおめぐりこめぐりやまじょう

岡山県岡山市草ヶ部

 

 

 

14

永納山城           えいのうさんじょう

愛媛県西条市河原津

15

讃岐城山城       さぬききやまのき

香川県坂出市西庄町府中町川津町、飯山町

16

播磨城山城       はりまきやまのき

兵庫県たつの市新宮町馬立揖西町中垣内

 

高良玉垂命は倭古代史の誰で, 高良山古代山城跡とはどんな繫がりがあったのか調べて見ましょう. 高良大社社伝に よって高良玉垂命は仁徳時代鎮座というのを受入れる. まず時代區分を明確にするため仁徳から斯痲王までの系譜を參考 にして下さい. 記紀は飯豊皇女が斯麻王母であるとの證言はしなかったので飯豊皇女が斯麻王母であることに氣付く人は少ない.

 

仁徳天皇  350 年代生れ

履中  380 年代

市辺押磐皇子 410年代

飯豊皇女 440年代

斯麻王 461- 523

 

仁徳条に高麗〔こま〕との外交記事が目を引く. 日本書紀の編年は恣意的であるからあんまり賴りにならない. たとえば応神28年記事が允恭14年記事より先行するとの根據はありません.

 

仁徳12年

 

秋七月高麗国(こまのくに)が鉄の盾と鉄の的を披露しに来た。八月高麗(こま)の使者を歓待した。この日、豪族たちや家来たちを集め、高麗の献上した鉄の盾と鉄の的を射させた。多くの人が射通すことができず、ただ的臣の祖先となる盾人宿禰:タテヒトノスクネだけが鉄の的を射通した。高麗の使者はこれに驚愕した。翌日になり、盾人宿禰を誉めて的戸田宿禰:イクハノトダノスクネという名を与えた。また、小泊瀬造の祖先の宿禰臣(スクネノオミ)に賢遺臣(さかのこりのおみ)という名を与えた。

 

仁徳12年記事は大体AD 415年頃の出來事と見る. 小泊瀬(武烈天皇)仁賢天皇の子とした記紀の記錄は誤りで實は顕宗天皇と難波小野王(460年代)の子である. 小泊瀬稚鷦鷯天皇から遡ると允恭天皇にたどり着く. 允恭天皇の名前は雄朝津間稚子宿禰であるので宿禰臣とは允恭をさす. 玉垂命が仁徳天皇を訪れ高麗の尖端武器を誇示しながら降服を勸める.

 

紀 允恭十四年

秋九月天皇は淡路嶋で狩りを行った。大きな鹿や猿, 猪があちこちの山谷に溢れていたが、炎のように見え隠れしては蝿のようにすばしっこく逃げ、一匹の獣も獲れなかった。狩りをやめて占うと、嶋の神の祟であることがわかり、「赤石の海底に真珠がある。その珠を供え物とすれば、獣を与えよう」との神託を得た。そこであちこちの海人を集めて赤石の海に潜らせたが、海が深くて誰も底にたどり着けなかった。すると、阿波国(徳島県)の長邑(那賀郡)に住む男狭磯(ヲサシ)という海人が、腰に縄をつけて海に潜り、しばらくしてから出てきて、「海底に大きなアワビがあり、なにやら光っていた」と報告した。男狭磯はふたたび潜り、大きなアワビを抱えて出てきたが、すでに息絶えており、プカプカと波に浮かんでいた。縄を外して深さを測ると、六十尋のふかさであった。そのアワビを切り裂くと、腹の中に桃の実のような大きな真珠があった。それを神に奉げて狩りを行うと、多くの獣が獲れた。

ただし、男狭磯が死んだことを悲しみ、墓を作って手厚く埋葬した。その墓は今もあると伝わる。

 

仁徳天皇は玉垂命の提案を拒否したのでAD 418年頃淡路嶋で倭と高良軍の大合戰となった. 大鷦鷯(オホサザキ, 男狭磯)は戰死した. 大阪府堺市堺区大仙町に男狭磯の墓は今もあると伝わる. (伝仁徳天皇陵)

 

紀 允恭三年

春正月使者を新羅(しらき)に派遣して医者を求めた。秋八月。新羅から医者が訪れ天皇を診察した。すぐに病気が治り、天皇は喜んで、医者を厚くもてなして帰国させた。

記 允恭天皇

天皇が初め、天津日継:あまつひつぎを継承しようとした時――天皇は辞して、「私には一つの長年の病があり、皇位を継承することはできない」と言った。しかし、大后をはじめとして官人たちが強く説得したため、天下を治めることとなった。

この時 新良(しらぎ)の国主が、八十一艘の船で貢物を献上した。この貢物の大使の名を金波鎮漢紀武と言う。この人は薬の処方を深く知っていたため、帝皇の病を治療して差し上げた。

 

大鷦鷯(男狭磯)は戰死したものの高良玉垂命も重傷を受け高良軍はいそいで九州に退却する. 玉垂命の傷處は治らず危い狀態が何年も続く. 倭の逆襲を恐れた高良軍は九州地方から瀬戸内にかけて防禦用山城を築造する. 辽宁省五女山山城 (辽宁省本溪市桓仁满族自治县) とよく似た簡易山城である. 神籠石式山城は高句麗山城だった.


https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1qSICAbRc8UYN5n_HANnhUtl78xnCfba5&usp=sharing


高良軍が九州と瀬戸内の戰略的要衝地に山城を築造する間, 倭は夢中になって仁徳の墓を造ったようだ. AD 425年頃 新良の波鎮漢紀金武が招聘した医者が玉垂命の傷處を治す. 玉垂命はふたたび履中天皇に降服を勸めるが拒否される.

 

紀 応神28年

高麗〔こま〕(高句麗〔こうくり〕)が使者を派遣して朝貢した。その上表文に、「高麗の王、日本国に教える」とあった。太子の菟道稚郎子は激怒し、高麗の使者を責め、その上表文を破り捨てた。

 

AD 427年頃玉垂命は難波を攻擊する.

 

記 履中

墨江中王の反逆, 初め、難波宮におられた時――大嘗において豊明を催したところ、大御酒でほろ酔いとなってお眠りになった。するとその弟の墨江中王が、天皇を討ち取ろうと思い、火を御殿に放った。そこで倭漢直の祖である阿知直が密かに連れ出して、御馬に乗せて倭へと進ませた。そして、多遅比野に着いたところで目覚め、「ここはどこか」と言ったので、阿知直は、「墨江中王が御殿に火を放ちました。それで倭に連れて逃げているのです」と申し上げた。

記 履中

天皇の御年は六十四歳。壬申年 (AD 432) 正月三日に亡くなられた。

 

AD 428 年頃 難波之高津宮が陷落され履中天皇は少ない近臣とともにに磐余の稚桜宮に逃げる. 皇后黒媛は戰死した. 墨江中王の反逆とは虛構の物語である.  AD 432年頃履中天皇も死に玉垂命は倭の第19代天皇に即位する. 雄朝津間稚子宿禰天皇である.

 

『宋書)夷蛮伝にAD 438 倭王珍遣使貢獻の記事がある.

 

西暦年

中国王朝

中国元号

倭王

 

438

元嘉15

倭王讃没し、弟珍立つ。この年、宋に朝献し、自ら「使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める。(『宋書)夷蛮伝)4月、宋文帝、珍を「安東将軍倭国王」とする。(『宋書)文帝紀)珍はまた、倭隋ら13人を平西征虜冠軍輔国将軍にされんことを求め、許される。(『宋書)夷蛮伝)

【日本書紀 卷第一 第五段 一書第一 原文】 一書曰 伊奘諾尊曰 吾欲生御之珍子珍此云于圖. (いざなぎのみことが天下 を統治すべき尊貴な子を生もうと思う珍は于圖と訓む)

 

上の日本書紀記錄に基づいて倭王珍を于圖と訓んだら謎なんかなかったはずなのに于圖の代りわざわざ玉垂と表記,  玉垂を再び訓讀みしてたまたれにしたので玉垂命はだれも知らない正体不明の神樣になってしまっ.

 

天皇家の萬世一系をもとに書かれた記紀は5世紀初玉垂命が築造した高句麗山城が九州地方から瀬戸内にかけて存在するのを認めると都合惡いから豫め書かない方がましだと決めたでしよう. 玉垂命と高句麗山城は古えも今も変わらぬ歷史的禁忌である. 

 

高良山はこうらさんとよむ. 高牟礼山もこうむれさんと讀むべきです. なぜかというと高良とが高牟礼は高麗〔こま〕に因むからです.  高良山と基山に挾まれた福岡県小郡(おごおり) 市のあたりは山隈(やまくま), 篠隈(しのくま), 今隈(いまくま) , 乙隈, 横隈等, (くま)の 地名が集中している. 小郡(おごおり)も隈(くま)高麗(こま)から來た地名であろう.

 

高良玉垂命の系譜

廣開土王

370年代 生れ

高良玉垂命(390年代- 453)

宿禰臣(賢遺臣)

雄略天皇 420年代

石木王(磐城皇子) 440年代

難波小野王(460年代)

顕宗

 

高良玉垂命の生涯

AD 390年代

玉垂命出生

AD 412

広開土王歿

AD 415

玉垂命 高牟礼山鎮座

 

仁徳12年高麗国が鉄の盾と鉄の的を披露しに来た. 宿禰臣に賢遺臣 (さかのこりのおみ)という名を与えた。宿禰臣 = 男浅津間若子宿禰 = 賢遺臣

AD 418

仁德天皇(男狭磯) 戰死, 玉垂命も重傷

 

倭の九州攻擊に備えて九州から瀬戸内にかけて神籠石式山城築造

AD 425

(書紀)允恭三年使者を新羅に派遣して医者を求めた. 秋八月新羅から医者が訪れ天皇を診察した. すぐに病気が治り天皇は喜んで医者を厚くもてなして帰国させた.

(古事記)新良の国主が貢物を献上した. この貢物の大使の名を波鎮漢紀 金武と言う. この人は薬の処方を深く知っていたため帝皇の病を治療して差し上げた.

AD 425

応神28年高麗の王, 日本国に教える.

AD 428

玉垂命の難波之高津宮陷落, 履中遷都

AD 432

壬申年(432) 履中歿, 反正逃走, 陷落

AD 438

宋元嘉15, 讚死弟珍立遣使貢獻,自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍 倭國王, 表求除正詔除安東將軍倭國王珍又求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔國將軍號詔並聽

AD 453

玉垂命死亡

 

『新撰姓氏録』に難波連は出自高麗国好太王也との記錄がある. 顕宗元年(AD 485) 難波小野王を皇后とし, その罪を赦した. 仁賢2年(AD 489) 顕宗難波小野王は自殺した. 仁賢六年(493)秋9月(難波)日鷹吉士を使者として高麗〔こま〕に派遣した. 今回, 麁寸(あらき)は日鷹吉士に従って高麗に発った. 麁寸(あらき) は小泊瀬稚鷦鷯尊と同一人であろう. 高麗の文咨明王を10歲位いの麁寸 (あらき) が 拜謁する爲に高麗に行ったとのことである. 仁賢7年(494)春1月, 小泊瀬稚鷦鷯尊を立てて皇太子とした. 高良玉垂命の後裔たちは頑強に高麗との接触を企てて反百濟親高麗路線を取る. 大伴が勝手に安羅に 設けた任那日本府は欽明時代まで暗躍した.   

 

- おわり -

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