2020년 10월 4일 일요일

116. 木馬の上の新羅美女二人

 

速総別命の反逆(記)は日本書紀に仁徳40年2月の出來事になっているが仁徳40年がいつのことであるか分りません. 仁徳天皇の在位は20年位いですから仁徳40年とは有りえない. 記紀が傳える反逆の切っかけを見るとその位いのことで討伐されるなんてありえないとの氣がする. というのは記紀が反逆の眞相を隱しているんじゃないかとの疑問があるからです.

仁徳三十五年皇后の磐之媛命が筒城の屋敷で亡くなられた. 三十八年八田皇女を新たに皇后と定めた. そして四十年隼別皇子の反逆があった. 大鷦鷯天皇と隼別皇子の長幼の序は記紀に異なる.

速総別王(隼別皇子)の母

古事記

日本書紀

糸井比売   桜井田部連の祖である嶋垂根の娘

速総別ハヤブサワケ命  (大鷦鷯の弟)


男鋤〔ヲサヒ〕の妹の糸媛〔イトヒメ〕

隼総別〔ハヤブサワケ〕皇子   (大鷦鷯の兄)



隼別皇子は大鷦鷯命と同年輩でAD350年代生れです. すると糸媛は330年代, 嶋垂根300年代になる. 隼別皇子の母 糸媛の系譜がばれないように父と兄の名前は匿名で記錄したでしょう. 嶋垂根と男鋤は外に出ないので系譜を推理しなければならない. 


嶋垂根 300 -

男鋤の妹の糸媛 330 - 

隼別皇子 350 - 


河内国石川郡桜井の桜井田部連は屋主忍雄建猪心命之後です.  應神天皇は屋主忍雄建猪心命の娘, 糸媛を娶って隼別皇子を生んだ. それから30年後味師内宿禰の娘, 葛城之野伊呂売が應神の采女を經て仁德の妻に與られた. 彼女の名が磐之媛である.  


日本書紀雄略十三年狭穂彦の玄孫の記事がある. 


雄略十三年の春三月。狭穂彦の玄孫(孫の孫)の歯田根:ハタネ命が采女である山辺:やまのべ出身の小嶋子と関係を持った。天皇はこれを聞いて、歯田根命を物部の目大連に預け、詰問させた。歯田根命は馬八匹と刀八本を贖罪として提出し、歌を詠んだ。山辺の小嶋子のためであれば、人々がほしがっている馬八匹くらい、惜くはない。目大連から報告を受けた天皇は、歯田根命のすべての私財を餌香市:ゑかのいちの橘の木陰にさらし置き、さらに餌香:ゑかの長野邑:ながののむらを物部の目大連に与えた。――「餌香市:ゑかのいち」は大和川と石川(衛我:えが川)の合流地点付近の市場。「長野邑:ながののむら」は旧長野郷(大阪府藤井寺市)で、歯田根命の所領であろう。


狭穂彦 220

孝元天皇

彦太忍信命 260

忍男武雄心命 300

嶋垂根

味師内宿禰 330

木羅斤資

男鋤〔ヲサヒ〕

糸媛

歯田根 360

葛城襲津彦

葛城之野伊呂売

 = 磐之媛命



狭穂彦とは孝元天皇の名前ですが天皇系譜を考案するとき孝靈の次におかれて孝元の系譜はずいぶん歪曲されています. 孝元天皇は孝靈より30年くらい前代の人です. 狭穂彦の玄孫, 歯田根はAD 360年代の人でありここで石川が出てくる. 歯田根も匿名であるから歷史上の人物を考えるべきです. 歯田根というのは葛城襲津彦と同じ人のようです. 


桜井田部連は河内国石川郡桜井(現在の大阪府富田林市桜井)に置かれた桜井屯倉を耕作した田部の伴造家と傳られる.


河内国餌香の河原

河内国石川郡

 歯田根360

河内国餌香の河原  587年

桜井田部連 

物部守屋の部下胆渟討伐

河内国石川郡桜井

桜井田部連の祖

 嶋垂根300 -男鋤, 糸媛 330

石河股合(石川)   429年


石川楯 (382 - 429)

速総別王殺害命令を天皇から受けた人は記紀に異なる. ここで玉釧とが宝石のことはつくり話で山部大楯連と吉備の品遅部の雄鮒, 播磨の佐伯直の阿俄能胡が犯罪を起して処刑されたのがポイントです. 吉備品遅君の祖は息長日子王(340?-)で息長帶比賣命の弟です. すると神功皇后の娘, 雌鳥皇女と吉備の品遅部の雄鮒は従兄弟だから速総別命の反逆(400年頃)を共謀する可能性はありそうです. 


日触使主の子達

息長帶比賣命(宮主宅媛) 340?-389

菟道稚郎子(361-422)

矢田皇女(仁德皇后)

雌鳥皇女; 総別命の反逆400年頃

虚空津比売命(瓶媛)

菟道稚郎姫

息長日子王 (吉備品遅君, 針間阿宗君の祖) 340?-

吉備の品遅部の雄鮒370?-

速総別王の反逆

古事記

日本書紀

その将軍の山部大楯連は、その女鳥王が手に巻いていた玉釧を奪って自分の妻に与えた。

そして大楯連の妻は、その王の玉釧を自分の手に巻いて参列した。そして大后の石之日売命は、自ら大御酒柏を取り、それぞれの氏族の女たちに与えた。すると大后はその玉釧を見知っており、御酒柏を与えずに退席させ、その夫の大楯連を呼び出し、「その王たちは無礼であったから退けたのだ。これに他の意味はなかったはずだ。おまえという奴は、自分の主君が手に巻いていた玉釧を、肌が温かいうちに剥ぎ取って来て自分の妻に与えたのか」と言って、死刑に処したのである。

仁徳40年天皇は吉備の品遅部の雄鮒:ヲフナと播磨の佐伯直の阿俄能胡:アガノコを派遣し、「追いついたらただちに殺せ」と命じた。その時、近江の山君:やまのきみの稚守山:ワカモリヤマの妻と、采女の磐坂媛の二人が、腕に見事な宝石を巻いていた。「佐伯直:さへきのあたひの阿俄能胡の妻からいただきました」と答えた。それで阿俄能胡を詰問すると、あっさりと白状したが、「死罪だけは赦してほしい」と嘆願したので、死罪のかわりに領地を没収した。


仁賢天皇はAD487年爾林の役の責任のある顯宗天皇と紀生磐宿裲を處刑した. 


仁賢四年(491) 的臣の蚊嶋〔カシマ〕と穂瓮君〔ホヘノキミ〕が罪を犯して獄死した. 


吉備上道臣が管理していた山部を没収したのは星川皇子の乱が落着いた462年頃でしよう.


雄略二十三年同月。吉備上道臣等が内乱を聞き、稚媛が生んだ星川皇子に加勢しようとして四十隻の船団で出発したが、平定されたことを聞いて引き返した。皇太子は使者を派遣して上道臣等を責め、それらが管理していた山部〔やまべ〕を没収した。(462)


前播磨国司の来目部小楯は二王子を探し出した功で山部連になったのは485年.


顯宗治世元年(485)  天皇> 人君が、人民を勧め励ます方法は受官であり、国をおこす方法は功賞を行うことだ。前播磨国司の来目部小楯は、私を探し出して立ててくれた。その功は大きい。願いがあれば遠慮なく申してみよ。小楯> 山官の役を賜りたく存じます。その役を賜って、姓を改め山部連となった。そして吉備臣を副官とし、山守部を部民(べのたみ)とした。功を褒めて名誉を顕わし、恩に報い厚遇した。寵愛を受け、その富は並ぶ者がないほどであった。


485年山部連になった伊予来目部の小楯に繫がる暗示を手探りすれば次のような關係になる. 


将軍の山部大楯連 360

石川楯 382 - 429

伊予来目部の小楯 410 - 

的臣の蚊嶋 440 - 491


山部大楯連卽ち葛城襲津彦は速総別王の反逆の責任を負って390年代末死刑に処したのである. 歯田根命が采女である小嶋子と関係を持ったとはありえない. 歯田根命のすべての私財を餌香市:ゑかのいちの橘の木陰にさらし置き、さらに餌香:ゑかの長野邑:ながののむらを物部の目大連に与えたとあるから大和川と石川(衛我:えが川)の合流地点付近に歯田根命の所領があったとのことが重要である. 歯田根命と山部大楯連の記事は速総別王の反逆での處刑の重複揭載でしよう. 


山部大楯連 360 - 400

葛城襲津彦

歯田根

石川楯 382 - 429

木滿致


伊予来目部の小楯

=紀小弓宿禰 410 - 487


的臣の蚊嶋

=紀生磐宿裲(440 - 491)


487年爾林の役からの歸路で病死した紀小弓宿禰の葬儀の後大海が大連に献上した吉備上道の蚊嶋田邑の家人部は紀生磐宿裲に與られたようです. そして彼の名は的臣の蚊嶋になった. 


雄略九年吉備上道の采女の大海は手厚い葬儀に感激し、韓奴である室、兄麻呂、弟麻呂、御倉、小倉、針の六人を大連に献上した。これが吉備上道の蚊嶋田邑の家人部である。

雄略二年石川楯が登場する. 雄略二年とはうそで百済新撰が明らかに429年(己巳年)とする. 記紀編年はいい

加減になっているのであんまり役に立たない. この記事を理解するためには応神廿五年(AD 420年)木羅斤資

關聯記事が要ります. 池津媛とは百済の久爾辛王母をさす.


雄略二年百済が天皇のために池津媛という女性を送り届けたが、嫌がって石川楯と通じてしまった。<古記録では石河股合連:いしかはのこむらのおびとの祖先の楯:タテという>。天皇は激怒し、大伴の室屋大連に命じて久目部を出動させ、その夫婦を木に磔:はりつけにして焼き殺させた。

これは『百済新撰』に見える記事のことであろうか。<己巳年、蓋鹵が即位した。天皇は阿礼奴跪を派遣して女子を求めた。百済は慕尼夫人の娘の適稽女郎を着飾らせて提出した>。

427年百濟の久爾辛王は退位された. 429年百濟は久爾辛王母を倭にある夫に送った. しかし王母は夫を

背いて木滿致と再び相婬してしまったので焼き殺されたとのことです. <己巳年蓋鹵が即位した.>のも

うそである.


応神廿五年

百濟直支王薨、卽子久爾辛立爲王。王年幼、木滿致執国政、與王母相婬、多行無禮。天皇聞而召之。百濟記云「木滿致者、是木羅斤資討新羅時、娶其国婦而所生也。以其父功、專於任那、來入我国。往還貴国、承制天朝、執我国政、權重當世, 然天朝聞其暴召之」


382年沙至比跪は新羅が捧げた美女2人を迎えて木滿致を生んだ. 応神廿五年木滿致者、是木羅斤資

討新羅時、娶其国婦而所生也とあるのは誤りです. 新羅美女から生まれた後裔は親新羅反百濟-反倭

路線をたどる. 


木羅斤資  AD 330年代

沙至比跪AD 360年代

木滿致  AD 380年代



神功62年

新羅からの朝貢がなかったので、襲津彦が新羅討伐に派遣された。続いて『百済記』を引用. 『百済記』逸文 壬午年(382年に貴国(倭国は沙至比跪を遣わして新羅を討たせようとしたが、新羅は美女2人に迎えさせて沙至比跪を騙し、惑わされた沙至比跪はかえって加羅を討ってしまった. 百済に逃げた加羅王家 は天皇に直訴し、怒った天皇は木羅斤資を遣わして沙至比跪を攻めさせたという.


葛城襲津彦の後裔は処刑又は戰死した者ばかりで强固な反百濟, 反天皇家の性向を見せる. 日本書紀は襲津彦

家門の反天皇家性向が現れないように關聯記錄を管理したので歷史の實相に勘付く人は殆とんどないようです. 


360

390

410

440

葛城襲津彦 360 - 400

歯田根

山部大楯連

(速総別王の反逆処刑)

葛城円大臣390-456

(安康暗殺処刑)

根使主 410-461

城丘前来目者

(星川の乱処刑)


小根使主 440-487

河內三野縣主

那干陀甲背

(爾林の役戰死)



木滿致382-429

石川楯

的戸田宿禰

(焼き殺し)

紀小弓宿禰410-487

伊予来目部の小楯

(爾林の役病死)

紀生磐宿裲440-491

的臣の蚊嶋

(爾林の生存処刑)


葦田宿禰 390 年代

荑媛 420年代

(市辺押磐皇子妃)



玉田宿禰

(処刑)

毛媛(田狭臣の妻)

(星川の乱処刑)




440

470

500


小根使主 440

河內三野縣主

那干陀甲背

(爾林の役戰死)

近江の毛野臣470

加猟直岐甲背

鷹奇岐弥ようがきみ

為哥可君

爲哥岐弥 有非岐

(安羅會議失敗病死)

阿賢移那斯(賢那)

延那斯

近江の毛野の若殿


紀生磐宿裲

的臣の蚊嶋

(爾林の役生存処刑)





「116. 木馬の上の新羅美女二人」は次の書と絡らんでいる完結篇でありますのでぜひ通讀するようお勧めいたします. 


113. 葛城襲津彦の正体

114. 反逆の家系 - 爾林城から馬津城まで

115. 可笑しい処刑記錄 - 允恭から雄略まで

116. 木馬の上の新羅美女二人



- おわり -


2020년 8월 2일 일요일

115. 可笑しい処刑記錄 - 允恭から雄略まで


吉備上道臣の田狭が任那の国司に任じたのは AD 440年頃で田狭臣は稚媛を妻として兄君と弟君を生んでいた. 田狭を任地に遣わした權力者は稚媛を奪って磐城と星川皇子を生んだ. 日本書紀は雄略天皇の仕業としているが雄略はAD 440年頃10代にすぎないので雄略である可能性はない.

AD 453年允恭毒殺, 456年安康暗殺, 雄略登場そして退場, 460年吉備臣の謀叛までの乱世が続く.  461年軍君はその混乱を片付けるために倭にやって來た. 

吉備臣の謀叛 -- 半島亡命
同年。吉備上道臣の田狭:タサが宮の御殿で近侍している時、友人に稚媛のことを自慢し、「天下に美人はたくさんいるが、俺の妻にはかなわない。顔は整い、笑顔は輝き、化粧の必要もない。まさに絶世の美女だ」と語った。天皇は聞き耳を立て、内心でニヤリと笑うと、どうにかしてその稚媛を手に入れようと考えた。そして田狭を任那の国司に任じた。しばらくして、天皇は稚媛を招き入れた。

田狭は任地に到着した後になって、天皇が自分の妻を奪ったことを聞き、新羅を味方につけて対処しようと考えた。田狭臣は稚媛を妻として兄君と弟君を生んでいた。<別の本では、田狭臣の妻の名は毛媛といい、葛城襲津彦の子の玉田宿禰の娘であるという。 

吉備上道臣の田狭(410); 任那の国司 
吉備上道臣の娘とも
吉備窪屋臣の娘
田狭 410
稚媛 420

兄君440
弟君
磐城皇子
星川稚宮皇子 440
星川皇子の乱
別の本  玉田宿禰の娘
毛媛420

AD 461

AD 460年頃雄略天皇は失脚して囹圄の身であった. その天皇空白期に星川皇子が即位を狙って吉備と河内の軍を動いた. 日本書紀の雄略条は殆ど架空の記錄で古事記の粗末な記錄がかえって事実に近い. 雄略の治世はせいぜい 1-2年位いで終わったでしょう. 記紀はたくさんの虛構を含んでいることには肯く人さえ記紀と異なる主張には目を背ける傾向があるので心細い.

雄略七年の八月...吉備下道臣の前津屋:サキツヤは虚空:オホゾラを留め、しばらくの間、都に戻らせなかった。<ある本では、国造である吉備臣の山:ヤマであるという>...天皇はその報告を聞くと、物部の兵士三十人を派遣し、前津屋とその同族七十人を討伐させた. 

日本書紀 清寧天皇 即位闘争 - 星川皇子
雄略二十三年の八月。雄略天皇が亡くなられた. この時、吉備出身の稚媛は幼い星川皇子に、「即位を狙うなら、まず大蔵を手に入れなさい」と告げた... これを見た大伴の室屋大連は東漢〔やまとのや〕の掬直〔ツカノアタヒ〕と、軍勢を集めて大蔵を囲むと、火を放って焼き殺した。この時、吉備の稚媛と、前夫との間の子である兄君、城丘前来目の者<名は欠落>も星川皇子とともに焼き殺された。

また、河内の三野県主の小根〔ヲネ〕はびびって逃げ出し、攻撃側の草香部吉士の漢彦〔アヤヒコ〕の脚にしがみついて、「私が星川皇子の家来だったのは事実です。ですが皇太子に背くつもりはありませんでした。どうか命だけは」と嘆願した。漢彦は大伴の室屋大連に詳しい事情を伝え、それで処刑者から外すこととなった。小根は漢彦を介して大連に感謝を述べ、難波の来目邑〔くめのむら〕の大井戸〔おほゐへ〕の多くの田地を大連を献上し、また漢彦にも田地を献上した。

星川皇子の乱はAD 461年倭に來た軍君が收拾しなければならない任務であった. 処刑されたのは;

吉備の稚媛
前夫との子の兄君
河内の城丘前来目の者
星川皇子

その時, 河内の三野県主の小根〔ヲネ〕は逃げ出し難波の来目邑〔くめのむら〕の大井戸〔おほゐへ〕の多くの田地を大連を献上し命を嘆願した. 難波の来目邑の大井戸は和泉国日根郡にあった地名で現大阪府大阪市住吉区遠里小野町. 當時和泉国日根郡にあった来目邑に因んで城丘前来目の者とよばれる. AD 487年爾林〔にりむ〕で戦死した紀岡前久目連は城丘前来目の者の子の世代である. 

小根の父は根で普通, 父を根使主, 子を小根使主とよぶ. 城丘前来目の者とは根使主で父子が稚媛と協力したことになる.  根使主の処刑についての前後記事は虛構と見ていいですがただ一つの事実がある. 

根使主は逃亡し、日根:ひね(旧日根郡)に稲城を造ったが、軍勢によって討伐された

AD 461年星川皇子の乱の時, 城丘前来目の者卽ち根使主と小根は逃げ出し自分の根據地であった日根まで來て抵抗したが根使主は死亡, 小根は命を嘆願して生き殘った. あちこち羅列された事件の破片の編年はいい加減に付いているので眞じめに受取る必要はありません. 安康元年と雄略十四年根使主記事は 461年星川皇子の乱に參與したから城丘前来目の者を処刑したとの記事の重復に過ぎない.   

安康天皇条 根使主
元年の春二月。天皇は大泊瀬皇子の縁談相手として、大草香皇子の妹の幡梭:ハタビ皇女に目をつけた。そして坂本臣の祖先の根使主を派遣し、大草香皇子に、「どうか幡梭皇女を大泊瀬皇子の妻とさせたい」と伝えさせた。大草香皇子は、「願ってもない話です。感謝の印しとして、私が家宝とする押木珠縵:おしきのたまかづらを献上しましょう」と語った。

根使主の処刑
雄略十四年夏四月。天皇は呉の客人を歓待するに際し、群臣たちは根使主を食事の接客係に  推挙した......根使主は、「おっしゃる通りです。すべては私の罪です」と白状した... 根使主は逃亡し、日根:ひね(旧日根郡)に稲城を造ったが、軍勢によって討伐された. 根使主の子孫は後に坂本臣となった。

AD 461年軍君が星川皇子の乱を收拾する過程で現れた河内の根使主の家系は次のようです. 一人にいくつの名前を付けたので記紀は難しい. (參照  114. 反逆の家系 - 爾林城から馬津城まで)

根臣 410 - 461
城丘前来目の者 
坂本臣の祖先
小根使主 440 - 487
紀岡前久目連 
那干陀甲背
近江の毛野臣470 - 530
加猟直岐甲背
鷹奇岐弥ようがきみ
為哥可君
爲哥岐弥 有非岐
阿賢移那斯500 - ?
近江の毛野の若殿


こうなると根臣は誰の子でしょうか. 記紀は根臣の祖先について沈默した. 雄略条即位闘争のところで円大臣 (都夫良意富美)がでる. AD 456年大臣と黒彦皇子, 眉輪王の三人は焼死したとのことである. 

黒彦皇子は疑いが向けられていることを恐れ、ひそかに眉輪王を連れ出し、円大臣の屋敷に逃げ込んだ。大泊瀬皇子が使者を出して引き渡しを求めると、大臣は使者に、「坂合黒彦皇子と眉輪王は、私ごときを頼り、家来の屋敷を訪れました。どうして引き渡すことができるでしょう」と返答した。

そこで大泊瀬皇子はさらに軍勢を集めて屋敷を囲んだ。大臣は庭に出て、袴をしばる紐を探した。...
大臣は身なりを整え終えると、大泊瀬皇子の前に進み出て平伏し、「私はたとえ討伐されようと、御命令には従いません。ただ一つだけ、お願いがあります。私の娘の韓媛と葛城にある七つの所領を贖罪として献上しますので、皇子たちはお助けください」と懇願した。しかし大泊瀬皇子は申し出を認めず、火を放って屋敷を焼いた。大臣と黒彦皇子、眉輪王の三人は焼死した。

履中天皇二年(AD 420年頃)重臣として国政を行った人達ちを見ると末席の円大使主は390年代の人であるのでは?

木菟宿禰(350 - )
蘇賀満智宿禰 (380 - )
物部伊呂弗大連
円大使主 (390  - 456)

葛城円大臣を玉田宿禰の子とすると矛盾がある. 葛城曾都毘古の後裔を時代的整合性を持つように整えると葛城襲津彦の子は葦田 - 玉田 - 円の三人になる. 玉田宿禰は古事記にはない. 

葛城曾都毘古 360 年代
葦田宿禰 390 年代
蟻臣の妹荑媛 420年代
(市辺押磐皇子妃)
飯豊皇女 440 年代
(斯痲王母)

玉田宿禰 390
毛媛 420
磐城皇子 440
星川皇子 440

葛城円大臣 390
葛城韓媛 430


黒比売 (履中妃) 390
市辺押磐皇子410-456

葛城磐之媛 360(仁德妃)
履中天皇 380



玉田宿禰と円大臣の処刑は同じ事件である. 惡い役を二人に分散し中性的系譜では葦田と表記しただけで
襲津彦の子は葦田宿禰ひとりである. すると葦田宿禰はいつ処刑されたのか. 

葦田宿禰
記紀の系譜記錄に登場. 蟻臣の父, 娘の黒媛が履中天皇の妃. 記は襲津彦の子とする.
玉田宿禰
記になし. 紀允恭条捕えて殺させた. 紀毛媛は玉田宿禰の娘. (処刑)
円大臣
記雄略条自腹,    紀雄略条焼き殺される. (処刑)

AD 456年眉輪王(目弱王)が熟睡中の安康天皇を刺殺したあと円大臣の宅に逃げ込んだが、大泊瀬皇子(後の雄略天皇)の兵に攻められ、大臣の助命嘆願も空しく、焼き殺されたという。記はその時眉輪王7歳としているが実は30代半ばであった. 円大臣はこの事件に絡まれていたでしょう.  

仁徳天皇  350 年代
大草香皇子 390 年代
眉輪(まよわ)王 420 年代

葛城襲津彦の後裔はAD 456年安康天皇暗殺を主導し461年星川皇子の乱にも參與する. 仁徳妃, 履中妃, 市辺押磐皇子妃を輩出しながら子子孫孫可笑しい徑を辿る. (參照 113. 葛城襲津彦の正体)

360年代
葛城襲津彦
456年
安康暗殺
461 
星川の乱
487
爾林の役
530
安羅會議失敗
554
百濟聖王戰死

円大臣処刑
根使主処刑
城丘前来目者
紀岡前久目連 小根使主戰死
近江の毛野臣
阿賢移那斯?
毛野の若殿


- おわり -