2023년 1월 1일 일요일

122. 允恭天皇毒殺の黑幕

 


允恭時代を話すには彼がいつ生れ, いつ死んだかを確かにするべきです. 彼は390年代生れ454年死んだとの前提で始まる. 仁徳天皇は350年代生まれなので允恭と40年位いの差があるから仁徳の皇子らも允恭の皇子より40年位い歲をとったはずである. なので仁徳の子と允恭の子の婚姻はありえないが記紀は眞劍に嘘をつく. 


記紀の允恭記事はとても曖昧でよく見ないと總體的意味に勘付くのは難しい. 日本書紀允恭二十四年(454) 記事を見てみなさんはなにが分りますか? この記事で天皇が毒殺されたのと皇室に近親相姦があったのは讀取ります? 軽大郎姫皇女という架空人物を造って兄妹間の近親相姦と納めるのは記紀編者達の改ざんでございます. 


AD 454年允恭毒殺事件の主謀者, 木梨軽皇子を處刑した穴穂皇子が卽位して安康天皇になる. 


日本書紀; 允恭二十四年の夏六月. 御膳の温かい汁が凍ることがあった. 天皇が怪しみ、その理由を占わせると, 「内に乱れがあります. どうやら近親相姦があるようです」との結果が出た. その時ある人が, 「木梨軽太子が同母妹の軽大郎姫皇女とできているようです」と申し上げた. 調べさせると事実であった. 


古事記; 允恭天皇の御年は七十八歳 甲午年(AD 454) 正月十五日に亡くなられた. 


皇室で發生した痴情殺人事件だったので記紀編者達はいろいろ脚色して皇室の恥かしい裏面を露出しないよう工夫した. なので記紀は本當の事は分らないようになっている. 實際なにが有ったか調べても證據はありません. ただ情報の破片が 整合性を持つよう想像するばかりです. 


允恭天皇の長子, 木梨軽皇子は410年代中半, 大泊瀬天皇420年代中半生である. 允恭天皇皇子女の中, 軽大郎女 (またの名は衣通郎女)は記紀編者が架空した人物, 穴穂天皇も允恭の皇子じゃなく新良の波鎮漢紀 金武である. 


允恭天皇 妃と御子

古事記

日本書紀

忍坂之大中津比売

木梨之軽王

長田大郎女

境之黒日子王

穴穂命

軽大郎女 またの名は衣通郎女

八瓜之白日子王

大長谷命

橘大郎女

酒見郎女


忍坂大中姫命

木梨軽皇子 

名形大娘皇女

境黒彦皇子

穴穂天皇

軽大娘皇女

八釣白彦皇子

大泊瀬稚武天皇 

但馬橘大娘皇女

酒見皇女



日本書紀の安康天皇即位闘争-大草香皇子の無念の記事がありますがうそばかりなので實際有ったことを推理して行きます. 


大草香皇子の無念 この時代、弟の大泊瀬皇子(次の雄略天皇)は、伯父の反正天皇の娘たちを迎え入れようとした。名は伝えられていない(分註)。―系譜には香火姫:カヒノヒメ皇女、円:ツブラ皇女、財:タカラ皇女の三人がいた。

しかし皇女たちは、「あなた様は昔から乱暴で、突然怒り出した時などは、朝に会った者が夜には殺され、夜に会った者が朝には殺されるほどです。私たちは美人でもなく、気も利きません。もし少しでも機嫌を損ねれば、どうなるかわかったものではありません。なので申し出は承諾できません」と答えた。

元年の春二月。天皇は大泊瀬皇子の縁談相手として、大草香皇子(仁徳天皇の子)の妹の幡梭:ハタビ皇女に目をつけた。そして坂本臣の祖先の根使主を派遣し、大草香皇子に、「どうか幡梭皇女を大泊瀬皇子の妻とさせたい」と伝えさせた。大草香皇子は、「私はこの頃、病にかかり、治る見込みもないようです。これも寿命と思って諦めていますが、ただ妹の幡梭皇女が一人残されることが気がかりでした。そんな時、天皇は妹の醜を嫌わず、縁談の相手を見つけてくれました。願ってもない話です。感謝の印しとして、私が家宝とする押木珠縵を献上しましょう」と語った。

根使主はその押木珠縵の美しさに感動し、盗んで自分の宝にしようと考えた。そして天皇に、「大草香皇子は命令を拒むどころか、『同じ一族ではあるが、どうして私の妹を差し出さなければならないのか』と吐き捨てました」と嘘の報告をし、その縵を提出せずに自分のものとした。天皇はこの根使主の讒言を信じて激怒し、軍勢を集めて大草香皇子の家を囲み、殺害した。


さて、天皇はそれでも怒りが収まらず、大草香皇子の妻の中蒂姫:ナカシヒメ(履中天皇の娘)を奪い、自分の妃(側室)とした。また、予定通り幡梭皇女を大泊瀬皇子に嫁がせた。


二年の春正月。中蒂姫:ナカシヒメ命を皇后:きさき(正妻)と定めて、寵愛した。

ただし、中蒂姫命は先夫の大草香皇子との間に眉輪王:マヨワノキミを生んでおり、母が宮中で育てることとなった。三年の秋八月。天皇は眉輪王によって殺害された。


日本書紀の安康天皇即位闘争-大草香皇子の無念の記事の誤謬部分

1

天皇は大泊瀬皇子の縁談相手として大草香皇子(仁徳の子)の妹の幡梭皇女に目をつけた. 

2

天皇はこの根使主の讒言を信じて激怒し、軍勢を集めて大草香皇子の家を囲み、殺害した。

3

天皇はそれでも怒りが収まらず、大草香皇子の妻の中蒂姫(履中天皇の娘)を奪い、自分の妃(側室)とした

4

予定通り幡梭皇女を大泊瀬皇子に嫁がせた.

5

中蒂姫命は先夫の大草香皇子との間に眉輪王を生んでおり、母が宮中で育てることとなった。


まず仁徳の子, 大草香皇子は380年代, 幡梭皇女は390年代生れなので雄略天皇(420年代生れ)との婚談はありえない. 454年大草香皇子は旣に死んでいるし又妻の中蒂姫は60代の年寄りだったから卽位する安康天皇が自分の妃とするわけもない. 子の眉輪王は40代の男と見なければならない. すると中蒂姫は大草香皇子の妻じゃないし眉輪王も大草香皇子と中蒂姫の子でもない. 


書紀は履中天皇元年の系譜で次の妃の幡梭皇女(応神天皇の皇女)は中磯皇女を生んだとしたが390年代10代の履中が中磯皇女を産むのは無理で応神の皇女幡梭皇女は仁徳の妃だったと思われる.


中磯皇女を仁徳天皇皇女と見たら仁徳天皇の次の系譜は整合性があるそうです.


仁徳天皇350年代

幡梭皇女370年代

中磯皇女390年代

夫 意富富杼王391-432

乎非王412-455

斯王(彦主人王)

430-475


眉輪王が中蒂姫(中磯皇女)の子だったら410年代生であるので456年46歲になる. 456年眉輪王が子供だったのは確かのようです. すると眉輪王は誰の子か考えるべきでしょう. 


仁徳天皇は次の二人の皇女を若沼毛二俣王の御子意富富杼王に嫁がせたようです. 

草香幡梭皇女=八須夫人

久爾辛王母 (久爾辛王: 百濟第19代王)

中斯知命=中蒂姫=中磯皇女

乎非王母 (毗有王: 百濟第20代王)

 

安康天皇は予定通り幡梭皇女を大泊瀬皇子に嫁がせたとしますが25歲の雄略と60歲の幡梭皇女の婚姻はあり得ない. 記記は意識的に嘘をつくからいつも注目するべきです. 


允恭時代 主要人物年齢及び系譜推定(日本書紀とわずかな違いが有る)

應神皇子仁徳天皇350

履中天皇380



大草香皇子380



草香幡梭皇女390 (意富富杼王妃)

久爾辛王411-

應神皇女幡梭皇女370年代(仁徳妃)

中磯皇女390年代 (意富富杼王妃)

乎非王 412-455


反正天皇390

弟媛(衣通郞姬)400

財皇女 420-


允恭天皇390

木梨軽皇子415-454

雄略天皇425

應神皇子若沼毛二俣王370年代

意富富杼王391-432



記紀は木梨軽皇子の歲、 妃の有無、 皇子についてなにも言わなかった. 


木梨軽皇子の歲

410年代生れ

434 20歲位い

444 30歲位い

454年 40歲位い


444年頃木梨軽皇子は妃を迎える適年で50代の允恭天皇の長子であった. 皇子妃になる可能性第一順位は反正天皇皇女三人である. 津野媛の女, 香火姫皇女, 円皇女, 弟媛の女,  財 タカラ皇女の三人がいた.


百済の直支王が新斉都媛と七人の女性を倭に送ったのは420年頃と思われる. 


日本書紀 応神天皇三十九年の春二月百済の直支王(腆支王, 在位405年-420年)がその妹の新斉都媛を派遣して仕えさせた。新斉都媛は七人の女性を連れて来た。


七人の內, 次の二人が反正天皇の皇夫人及び妃になった. そして420年代三人の皇女が生まれる. 


反正天皇 妃と御子

古事記

日本書紀

皇女

田井之中比売397-  =都怒郎女

津野媛

香火姫皇女 420

円(ツブラ)皇女 420-

藤原之琴節郎女400-

その妹の弟媛(衣通郞姬)

財(タカラ)皇女 420-


430年代後半反正天皇がなくなった. 三人の皇女は15歲位. 440年頃になると木梨軽皇子25歲, 皇女達は18歳を越す. 木梨軽皇子は440年頃財皇女を迎えて442年頃眉輪王を産んだ. 456年眉輪王は14歲になる. 


木梨軽皇子は440年頃財皇女を迎えた以來妻の母である弟姬(衣通郞姬)と家族の一圓として親しい關係になったでしょう. 允恭天皇の心をときめかせてくれる弟姬(衣通郞姬)とうまく行ったら皇太子であった木梨軽皇子は間もなく卽位したでしょう. しかし父王の寵妃でありなから妻の母でもある弟姬(衣通郞姬)と近親相姦關係になる. 父王にまでばれてしまうと454年父王を毒殺する. 安康天皇は正義の名の元に木梨軽皇子を處斷, 木梨軽皇子の妃, 財皇女を奪って自分の皇后(正妻)と定めて寵愛した. 


安康天皇が財皇女を自分の皇后(正妻)と定めた時眉輪王という子がいた. 456年木梨軽皇子の子, 眉輪王は安康天皇を殺害する. 


すると記紀はどうしてなにも關係ない大草香皇子と幡梭皇女の兄妹を允恭天皇毒殺事件と絡んで大草香皇子は殺害, 大草香皇子の妻の中蒂姫を奪い安康天皇の妃(側室)とし, 幡梭皇女を大泊瀬皇子に嫁がせ...等のうそをついたのか. 古事記に若沼毛二俣王の皇子女がいる. 若沼毛二俣王は應神天皇皇子で仁德天皇の弟です.  


若沼毛二俣王の子(古事記)

大郎子:オホイラツコ。またの名は意富富杼:オホホド王

忍坂之大中津比売命   (允恭妃)  御名代刑部

田井之中比売:御名代河部 (反正妃) (允恭妃)

田宮之中比売:

藤原之琴節郎女:書紀 弟姬, 衣通郞姬, 御名代藤原部 (反正妃) (允恭妃)

取売:トリメ王

沙禰:サネ王


ここで大郎子(意富富杼王)に注目して下さい. 釋日本紀『上宮記』逸文の文章系譜によれば、中斯知命(なかしちのみこと)を妃として乎非王(おいのおおきみ)を儲け、その孫すなわち意富富杼王の曾孫にあたるのが第26代継体天皇とされる。


應神天皇

若沼毛二俣王

意富富杼王

乎非王

斯王(彦主人王)

繼體天皇

320-394

370-?

391-432

412-455

430-475

450-531


中斯知命とは履中天皇とその妃, 幡梭皇女(應神皇女)との間に生まれた書紀の中磯皇女のことで叔父大草香皇子と結婚して眉輪王を生んだとしたのは噓である. 安康紀 雄略即位前紀には中蒂姫になっている中斯知命は意富富杼王に嫁いて乎非王を生んだ. この乎非王こそ百濟20代毗有王のことです. ここで繼體天皇は百濟盖鹵王の庶子であったので507年大伴金村大連によって天皇になったことをご存じですか. 百濟武寧王(斯麻王)が盖鹵王子だったので盖鹵王の庶子を天皇に選んだわけです.  


意富富杼王(直支王)

中斯知命

乎非王(毗有王)


斯王(彦主人王)

(盖鹵王)

繼體天皇

=乎富等大公王


意富富杼王自身の詳しい事績は伝わらないが意富富杼王は記紀がその史跡を書けない人柄である. 日本書紀の安康天皇即位闘争-大草香皇子の無念の記事に出る二人の皇女, 仁徳の娘幡梭皇女と履中の娘とした中斯知命は意富富杼王の妃だったので記紀は眞實を語れなかったことになる. 


意富富杼王とは直支王のことです. 396年高句麗の廣開土王は軍を率いて百済を撃ち空前の成果をあげた. その時奴客になると誓がった百濟の阿莘王が廣開土王に捧げた百濟の4歲の公主があってこの公主が允恭天皇后, 忍坂大中姫命である. 百濟阿莘王の長女は高句麗で育ち王子高珍の妃になった. 阿莘王の四女(弟姬), 藤原之琴節郎女(衣通郞姬)は420年頃反正天皇妃になる. 反正天皇が死ぬと後で允恭天皇妃になった. 


廣開土大王陵碑には “將殘主弟幷大臣十人 旋師還都”としているがその中に百濟の4歲の公主も含まれていた.


以六年丙申(396) 王躬率水軍討伐殘國.....而殘主困逼 獻出男女生口一千人細布千匹 王自誓. "從今以後永爲奴客." 太王 恩赦先迷之愆 錄其後順之誠. 於是得五十八城村七百 將殘主弟幷大臣十人 旋師還都.


 高珍の名が登場するのは438年宋書夷蛮伝である. 讃とは反正天皇の名でしょう.  

“倭王讃没し、弟珍立つ. この年、宋に朝献し、自ら「使持節都督 倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める. 宋文帝、珍を「安東将軍倭国王」とする。珍はまた、倭隋ら13人を平西征虜冠軍輔国将軍にされんことを求め、許される。(『宋書)夷蛮伝)”


意富富杼王=大郎子=直支王

AD391

直支王 生れ

397

直支王 質(?) 6歲

400

 速総別王の反逆, 葛城之曾都毘古(山部大楯連)處刑

405

直支王 歸國 14歲, 解忠爲達率, 庶弟餘信爲內臣佐平, 解須爲內法佐平, 解丘爲兵官佐平

411

八須夫人(草香幡梭皇女)生久爾辛

412

中斯知命(=中蒂姫=中磯皇女)生乎非王(毗有王)  412, 427卽位 455死亡 

420

久爾辛王 卽位, 直支王 29歲

427

乎非王(毗有王) 卽位

429

木滿致 (石川楯, 曾都毘古の子), 池津媛(八須夫人)處刑

432

允恭天皇倭掌握, 意富富杼王死亡



- おわり-