2018년 2월 6일 화요일

103. 世子奇生 璽書 故爲倭王 旨造


古事記の応神天皇は 丸邇の比布礼能意富美の娘、名は宮主矢河枝比売を娶って生んだ御子は宇遅能和紀郎子である. 応神天皇はある時, 近淡海国へ越え進もうとして, 宇遅野の辺りに立って葛野を眺めながら, 木幡村にやって来た時, 麗しい嬢子とその辻で出逢った. そこで天皇がその嬢子に、「あなたは誰の子か」と尋ねると、「丸邇の比布礼能意富美の娘で、名は宮主矢河枝比売です」と申し上げた。天皇はその嬢子に「私が明日帰り行く時に、あなたの家に寄ろう」と言った.

そこで、矢河枝比売は詳細をその父に語った。そこで父が、「これは天皇であろう」と答え、畏まって、「我が子よ、お仕えしなさい」と言って、その家を奇麗に整え謹んで待っていると、翌日になってやって来られた. そして、大御饗を献る時、その娘の矢河枝比売命に大御酒盞を持たせて献った。そこで天皇が、その大御酒盞を持たせながら

この蟹はどこの蟹だ。遠くから運ばれた角鹿の蟹だ。横に歩いてどこへ行く。伊知遅島や美島に着く。そこに住み着く水鳥が潜ったり息をしたりするように、起伏のある佐佐那美への道を、スンスンスーンと私が進んで、木幡の道で出逢った乙女よ。後姿は楯のようにスリムで、歯並びは椎や菱の実のように整っていて白い。櫟井の丸邇坂の土を、表面の土では肌が赤くなるし、底の土では黒くなるので、中ほどの土を取って、直火には当てずに、それで眉を描き、濃く垂らして描いている、出逢った美女よ。こうしたいと私が思った子と、ああしたいと私が思った子と、向かい合っている。寄り添っている。

このようにして結婚し生んだ御子が宇遅能和紀郎子である.

応神天皇の愛と喜びが生々しく表現された古事記の名場面である. 古事記の記錄は時間軸の上での矛盾はないそうです.

日子国意祁都命
日子坐王
比布礼能意富美
宮主矢河枝比売
宇遅能和紀郎子
AD 245
AD 275
AD 310
AD 338
AD 363

応神天皇の治世はいつのことであるかはっきりしていません. しかし彼が實存人物であるんならば時間軸の上で宮主矢河枝比売と同じ時代の人と見るべきです.

日子国意祁都命
比古由牟須美命
倭建命
応神天皇
宇遅能和紀郎子
AD 245
AD 270
AD 295
AD 320
AD 363

信じられないでしょうね. 応神天皇の出自は記紀ども改ざんされ仲哀の子になってしまった. しかし息長帯比売命は架空人物で神功紀は無視するべきです. 仲哀天皇の系圖は下のようになるから応神天皇が仲哀の子とする日本書紀の神功紀は虛構でございます. 帯中津日子命(仲哀)倭建命の次男であって稲依別王という長男がありました. 實は稲依別王が 応神天皇の元の姿でございます. 稲依別王の母は近淡海之安国造の祖である意富多牟和気の娘だっので誉田別尊(凡牟都和希王, 応神天皇)は近淡海之安国の育ちと見ていいです.

日子国意祁都命
比古由牟須美命
倭建命
仲哀天皇
AD 245
AD 270
AD 295
AD 326

古事記応神紀に百済の国王である照古王が、牡馬一頭と牝馬一頭を阿知吉師に託して献上した.  また、百済国に、「もし賢人がいれば遣すように」と命じた。そこで、命令を受けて遣した人の名は和邇吉師。そして論語十巻、千字文一巻、併せて十一巻をこの人に託して献上した”とあります.

日本書紀の方はもっと詳しい. 応神十五年の秋八月。百済の王が阿直岐を派遣して良馬二匹を献上した。それで阿直岐に軽坂の馬小屋で飼育させ、その地を厩坂と名づけた。阿直岐はまた、文献にも詳しかった。そこで太子の菟道稚郎子の師匠とした。天皇が、「あなたのような博士はほかにもいるのか」と尋ねると、阿直岐は王仁という者を推薦した。
十六年の春二月。王仁が渡来した。そこで太子の菟道稚郎子の師匠とした。諸文献を学ばせると、様々な知識をまたたく間に吸収した。

日本書紀の応神十五年がいつのことか分らない. 菟道稚郎子は363年生れというのは古事記が仲哀歿年を壬戌年(362)としたからです. 神功摂政元年も363年から數える.

照古王が、牡馬一頭と牝馬一頭を阿知吉師に託して贈ったのは孫の菟道稚郎子が10歲だった372年のほうが合理的に見える. その頃, 皇太子の敎育が始ったわけです. すると阿知吉師は七枝刀といっしょうにやって來たことになる. 七枝刀の世子奇生とは菟道稚郎子を指す. 宮主矢河枝比売は35歲で摂政10年の時である. 応神十五年阿知吉師と神功五十二年の七枝刀の記事は共に372年の出來事である.

神功五十二年の秋九月。久低たちが千熊長彦とともにやって来た。そして七枝刀、七子鏡等様々な宝物を献上し、「我が国の西に流れる川は、七日以上も遡ったところに水源があります。この水を飲み、この水源である谷那の鉄山の鉄を採掘して、永続して献上しましょう」との言葉を伝えた。そしてまた、王は孫の枕流〔トムル〕王に、「私が交流を続けている東方の日本国は、我が国の勢力拡大に協力してくれ、それによって地盤を安定させることができた。おまえも友好を重視し、貢物を絶やさないようにすれば、私の死後も安泰だろう」と語った。これより後、毎年朝貢があった。

 “世子奇生 璽書  故爲倭王” とは “世子菟道稚郎子 璽書 故爲倭王”  になるわけです. 菟道稚郎子こそ大鞆和気命であり世子奇生であり孫の枕流〔トムル〕王でもある. 七枝刀の()()の銘文を御覽下さい.

() 泰和四年十一月十六日丙午正陽造百錬鐵七支刀出辟百兵宜供供候王暢德興福祖
() 先世以來未有此刀 百濟王  世子奇生 璽書 故爲倭王 旨造 傳示後世

故爲倭王 旨造 傳示後世は ことさら倭王になるよう造ったので後世に傳えて示せよになるわけです七枝刀は369年制作され倭に持って來たのは372年だったらしい. 肖古王と枕流〔トムル〕王, そして七枝刀が登場する神功五十二年は 372年と見て差支えない. 菟道稚郎子は363年百濟の世子, 369年 7歲の時, 倭王に任命された. (表)の最後の字 “祖”とは家門の孫達ちに祖父としての知らせであり, (裏)は百濟王としての命令である. 肖古王の璽書, 卽ち, 七枝刀はその命令に反對する菟道稚郎子の兄達ち(百兵)を制圧する積りで造られたでしょう.

応神天皇は362年から394年まで在位したのにも拘らず, 倭で摂政の話しが出るのは事情があります. 彼はその間, 倭國にいなかったからこの時代は謎の4世紀の欠けらになってしまいました. 宮主矢河枝比売は362年から372年まで少くとも 3回以上百済の慰禮城を訪門したでしょう. 神功紀に登場する南加羅, 卓淳, 古奚津, 南蠻の忱弥多禮, 比利, 辟中,布弥支,  半古, 意流村, 州流須祗, 辟支山, 古沙山等は矢河枝比売が辿った旅程だったと思われる. 大鞆和気命が生れたときから腕の肉が鞆〔とも〕(弓を射るための装身具)のような形に盛り上がっていたという記事もあるから矢河枝比売は馬に乘って陸路で移動したとしても可笑しくはない. 成務治世の武將だった丸邇臣の祖である難波根子建振熊は娘が幼いときから武人としての素養を習わせたでしょう. 成務歿後, 官職から身を引いた彼は丸邇の比布礼能意富美と記錄されたと思われる.

 神功紀に百済關聯の記事は續く.

五十五年。百済の肖古〔セウコ〕王(第13代在位346~375年)が亡くなった。
五十六年。百済の王子の貴須(第14代近仇首王:在位375~384年)が即位した。
六十四年。百済の貴須王が亡くなった。王子の枕流〔トムル〕王(第15代:在位384~385年)が即位した。                
六十五年。百済の枕流〔トムル〕王が亡くなった。

肖古〔セウコ〕王
貴須王
枕流〔トムル〕王
在位346~375年
在位375~384年
在位384~385年


- 終わり



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