2016년 8월 26일 금요일

94. 日本書紀 皇極紀の行間を読む



日本書紀   卷第二十四  皇極紀は 642年1月から 645年6月までの3年6月の記錄であるが不明瞭さを感じてスッキリしない部分が多い. なぜかすると西紀645年の乙巳の変を通じて天皇位を奪った勢力はそれを眞似て皇室轉覆を企てるきっかけになるんじゃないかと心配する. そして乙巳の変を美化 して日本書紀が書かれた.

皇室構成員の系譜や生沒情報が捏造または改竄されたから日本書紀の記事は難解で意味不明である. 日本書紀の中で最もむずかしくて解釈に苦しむ皇極紀に登場する人名はお互いにどんな繫がりがあるか分らない. 提供された情報は 獨立的破片であって他の破片との關聯は提供されていないから謎のまま 殘っている.

皇極紀のクライマックスは乙巳の変であるから皇極紀で提供される情報は多かれ少なかれ乙巳の変と關聯深い情報的破片と考えながら皇極紀の解說に入る.

皇極紀は次の文章で始まる.  

“天豊財重日足姫天皇は 渟中倉太珠敷天皇の曾孫 押坂彦人大兄皇子の孫 茅渟王の女なり.”

皇極天皇の出自を記錄したこの文章が眞實でないことはすぐ分かる.  見易すく現在, 知られている生沒年を記入して見たら作爲が明かに現れる. 570年生れの彦人大兄の孫が594年生れの皇極であることは無理である.

敏達天皇(538 – 585) - 押坂彦人大兄皇子 (570 – 599) -茅渟王 (? - ?) - 皇極天皇(594 – 661)

押坂彦人大兄(570 – 599)の孫が皇極(594 – 661)である可能性はない. 茅渟王 (? - ?)は彦人大兄の子ではないはずである. 日本書紀に書かれているから信じるというわけにはいかない. 日本書紀の意図を看破して本の歷史を考えるのが望ましい. 日本書紀は皇極と齊明のまの顔をしらせたくなかったから皇極紀の始めから噓をいう.

皇極と齊明が別人であったら皇極天皇は廢位されたことになる. 政變で政權を奪取した主謀者達ちは天皇廢位の前犯の歷史たけは隱したかっだにちがいない. 皇極と齊明を同一人と仕上れば天皇廢位の歷史はなかったように見える. これが “韓人殺鞍作臣”の韓人たちの神の一手であった.

茅渟王たけ除いて敏達天皇(538 – 585) - 押坂彦人大兄皇子 (570 – 599)  - 皇極天皇(594 – 661)の系譜は一見整合性があるように見えますが一回騙されたらもっと改竄の可能性があると見るのが當り前です. どうしても意図をもって細工された歷史でこざいます. そういうわけで文字記錄より勘で行間を読むことをお勸めします.

吉備嶋皇祖母命, 皇祖母尊, 嶋皇祖母命という呼稱も眞實を隱す手段として使う.  齊明母, 皇極, 齊明, 舒明母の四人の呼稱をでたらめに混って使うから誰のことであるか分らない. 日本書紀は皇極と齊明を同一人と見せるためならなんでもやる.

皇極紀で一番先に出てくる人物は翹岐です. “弟王子兒翹岐及其母妹女子四人”とするから百濟王の弟王子兒の名前らしく642年正月, 翹岐の母, 妹と妻そして翹岐本人の四人が追われて Boat People になったが 2月24日大和に流れてきたから阿曇山背連の家に安置らしむ.

翹岐は實名じゃなく歷史家が作った名前であろう. “翹企”が足をつまだてて待ち望む 転じて熱望することを意味するから王になれない出身であることを暗示する. 政變なんかの途じやないと翹岐は天皇になれない男である.

翹岐及其母妹女子四人 內佐平岐味 有高名之人四十余 被放於島 としたから大勢の人達が島放たれて大和に流れてきたらしい. ここでの島は九州をいう. なぜかすると百濟の都には島なんかいない.

つぎに塞上の名前が出る. “塞上恒作惡之” そして642年4月8日 蘇我大臣、畝傍の家にして、百済の翹岐等を喚ぶ。親ら對ひて語話す。仍りて良馬一匹・鐵廿铤を賜ふ。唯し塞上をのみ喚ばず。(乙未, 蘇我大臣於畝傍家喚百濟翹岐等, 親對語話.仍賜良馬一疋, 鐵二十鋌, 唯不喚塞上) の唯不喚塞上 である. 塞上は塞城又は忠勝と同一人で義慈王の弟である.

どうしてここで塞上の名前が出てくるか? 又蘇我大臣が畝傍の家にして百済の翹岐等を喚ぶ, 唯し塞上をのみ喚ばずとは なんの意味であるか? 塞上こそ翹岐の生父であるとの暗示だと思う.

大和は翹岐を丁寧に歡待するのが見える. 王になれない出身である翹岐に百濟の大佐平智積さえ最上の敬意を表す. 翹岐にすでに權力者のオーラ (aura)が見える. 日本書紀の作者は翹岐 - 中大兄 - 天智との流れを知っているから翹岐の記事にも鄭重である.

つぎの人物は大佐平智積と智積兒 - 達率闕名,恩率軍善 である. 恩率軍善は大佐平智積兒である.

642年7月22日, 百済の使人大佐平智積等に朝に饗へたまふ. 或本に云く、百済使人大佐平智積及び兒達率 名を闕せり・恩率軍善といふ.

2009年益山彌勒寺址 復原工事中 石塔の舎利奉安の事情を記した奉安記が発見された. そこで639年の銘文が 見つかり, 百濟王后,  佐平沙乇積德女種善が奉安したことが明かになった. 百済の第30代王の武王 (在位600-641) 時代 佐平 沙乇積德女の名は “種善”とした. 大佐平智積兒の名は “軍善”とするから 軍善は實名である可能性が高い.

ここで大佐平智積と智積兒 恩率軍善の名前が出るのは 沙宅軍善が 中臣鎌子 - 中臣鎌足 - 藤原鎌足の元の姿であるからでしょう. 中臣鎌子は大佐平沙宅智積兒である. 藤原鎌足は614年生れとするから642年沙宅軍善は29歲, 翹岐(中大兄) 27歲であった. 654年建立された砂宅智積碑から智積は義慈王と同年輩位いの人と見える.

日本書紀 舒明13年 (641AD)10月 舒明天皇が崩御されたとき「東宮開別皇子十六而誄」- 皇太子開別皇子 (後の 天智天皇)は16歳で 誄(しのびこと)を読まれた-とありますが, 天智 626年生れとするのは捏造である.  まずこの時天智は皇太子であるはずがない. 天智が始め皇太子になったのは乙巳の變の後である. 626年生れだったら642年17歳にすぎないが, 翹岐はすでに結婚して兒をつれて飛鳥へ現れた. 616年生れで642年 27歳のほうがもっともである.

日本書紀 斉明紀: 天豊財重日足姫天皇は、初に於橘豊日天皇の孫高向王に適して、漢皇子を生しませり. 後に息長足日広額天皇に適して、二の男・一の女を生します。二年に、立ちて皇后と爲りたまふ.

日本書紀 舒明二年の春正月の丁卯の朔戊寅(630.01.12)に、宝皇女を立てて皇后とす. 皇極と斉明が別人だったら宝皇女とは皇極の名前である.  

斉明紀で斉明は漢皇子を生んだ後舒明との間で二男一女を生んだ. 舒明との間で葛城皇子, 間人皇女, 大海皇子を生んだとする. すると葛城皇子大海皇子は天皇の子であるから天皇になれる出身である. 翹岐と似た出身は漢皇子一人である. ここで, 漢皇子 -翹岐 - 中大兄 - 天智は同一人に見える. 中大兄と間人皇女は異父兄妹であったから通情云云されるのです. 中大兄が乙巳の變の後から667年まで卽位を遅らせたのも出身のハンデキャップの爲でしょう.

敏達天皇 即位7年(578) 菟道皇女(うじのひめみこ=敏達天皇の娘で菟道磯津貝皇女)を伊勢の祀(まつり)に仕えさせた。すぐに池辺皇子に侵された. 事件が明らかになって解任になったとあります. 敏達と推古の長女 菟道皇女が 7歲 位いの時, 伊勢神宮に侍らせた. 591年頃, 池辺皇子が聖處女 菟道皇女をレイプした. この事件が明らかになって菟道皇女は  解任されて池辺皇子の妃になった. 池辺皇子とは聖德太子(574 – 622)のことである.

斉明も婚前,  塞上にレイプされた後, 舒明の妻になったと推測される. 結婚後すぐ漢皇子が生れてレイプのことがばれて しまう. たから漢皇子は天皇の子でない. 橘豊日天皇の孫高向王に適して漢皇子を生しませり, 後に息長足日広額天皇に適してというのはありえない.  舒明天皇は倂の天皇であるまい. 隋書倭國傳の多利思比孤が舒明である.

敍明の弟の名は中津王である. 多利思比孤も九州 中津出れで, あそこで皇后皇極, 妃法提郎媛, 妃齊明を納る. 西紀613年頃皇極と法提郎媛, 616年頃斉明が多利思比孤に適したとおもわれる. 614年法提郎媛が古人大兄皇子を生んだ. 616年斉明は漢皇子を生んだ. あとで舒明と斉明の間で二男一女が産れた.

629年多利思比孤は大和を合倂して天皇に卽位する. その時, 皇極と法提郎媛は天皇といっしょうに大和に移したが斉明は九州に殘された. 舒明二年(630.01.12)皇后になったのは宝皇女卽ち皇極であって斉明じゃない. 

舒明三年(631) 三月の庚申の朔(03.01)に、百済の王義慈 王子豊章を入りて質とす. これは面白い記錄である. 日本書紀がこんな間違いをするなんて信じられない. 三國史記百濟本紀は 641年3月武王薨, 日本書紀は641年10月舒明崩とした. 百済の義慈王は641年卽位したはずであるのに “舒明三年(631) 三月に百済の王義慈、王子豊章を入りて質とす”とは間違いである. これは舒明三年(631) 三月, 九州で産れた豊章を大和の父の膝下に連れて來たということである. 王子豊章の父は舒明でもあるし又義慈でもあるから日本書紀編者も混同したでしょう. 豊章を百濟義慈の王子として扱かってきたから631年,  質と誤魔化す時, 百濟は武王治世だったのに氣付かなかったらしい.

それから豊章は皇極の手で大和で育ってられる. そういうわけで大人になった後, 豊章は生母齊明より, 皇極を母と思うようになった. 皇極紀 643年, 百済の太子余豊、蜜蜂の房四枚を以て、三輪山に放ち養ふ. 豊章はまだ13歲の子供で三輪山で遊んでいた. 迫る危險から母を護る力をもっていなかったとの意味であろうか?

すると舒明と斉明の間での二男とは誰であるか? 豊章と善光を覺えますか? 大海皇子とか大海人皇子は日本書紀で豊章といっしょうには出て來ない豊章の影でございます.

大海皇子は登場しなく, 豊章と一緖に移動していた大田皇女と鸕野讃良皇女(持統)は百濟救援の遠征中, 子を生む. 大田皇女と鸕野皇女の亭主はだれであろう.

斉明七年の春正月の丁酉の朔壬寅(661.01.06)に御船西に征きて始めて海路に就く. 甲辰(01.08)に、御船、大伯海に到る.時に、大田皇女、女を産む. 仍りて是の女を名けて、大伯皇女と曰ふ. 鸕野讃良皇女(持統) 662年 筑紫の那の大津で草壁皇子を産む。663年(天智2年)九州の那大津で大田皇女 大津皇子産む.

皇極元年の春正月の丁巳の朔辛未(642.01.15)に、皇后即天皇位す. 乙酉(01.29)に、百済の使人大仁阿曇連比羅夫、筑紫国より、駅馬に乗り来て言さく、「…. 百済国、然も其の国は、今大きに乱れたり (然其国者今大乱矣)」とまうす. 百済国とは九州のことである.

皇極紀642年記事は つづく. “今年の正月に、国の主の母薨せぬ. 又弟王子兒翹岐及び其の母妹の女子四人、内佐平岐味、高き名有る人四十余、嶋に放たれぬ” とした. 642年 正月, 国の主の母薨というのは 斉明の母,  吉備嶋皇祖母命薨のようだ. その喪中, 九州でなんが深刻な事態があったにちがいない. 大乱の中,  翹岐, 母斉明, 間人皇女 そして翹岐の妻の四人が島放たれて2月24日大和に流れてきたということである. それをきっかけに大和で乙巳の變が發芽する.

643年9月11日吉備嶋皇祖母命の記事が又出てくる. これは642年記事の重復と思われる. 日本書紀は斉明が九州にあった, 吉備嶋皇祖母命が九州で死んだ, 斉明が九州で, 皇祖母命の臥病したまひしより、喪を発すに至る及に、床の側を避りたまはずして、視養たてまつりたまふこと倦ること無かっだのを, 丸で大和での出來事のように見せるため歷史を誤魔化した. 皇極と斉明を同一人に仕上げる作業である. 

日本書紀は大和を正統として書れたから九州のことを全く触れていないが, 安閑天皇以來, 九州に九州王, 大和に大和王が 別別にあったのを認めなくて, 日本書紀の理解は不可能である. 崇峻 推古時代, 大和は九州倂呑の爲, 征伐軍を遣わしたが, かえって戰爭に負けて九州に倂呑されたのを日本書紀は曖昧に記錄したから普通の人は氣付かない. 崇峻4年 (591), 推古10年(602),  推古11年(603)九州征伐で大和は負けて九州の屬邦になってしまったことに氣付く人は別にないようだ.(88. 磐井の乱のコペルニクス的 転回, 93. 崇峻天皇の弑 參照)

645年6月12日中大兄の主導で鞍作臣を殺す. 鞍作死ぬ前, 皇極天皇に問う “当に嗣位に居すべきは天子なり. 臣罪を知らず. 乞ふ、垂審察(あきらめたま)へ」. 天皇大きに驚きて中大兄に詔して曰はく「知らず、作る所、何事有りつるや」.  

古人大兄、見て私の宮に走り入りて、人に謂ひて曰く、「韓人、鞍作臣を殺しつ. 吾が心痛し」といふ。

古人大兄の絶叫から當時 大和人は九州人を自分とは異なる, 百濟人又は韓半島から來た人と受入れたことがわかる. 中大兄, 中臣鎌子は大和人じゃなく, 九州又は百濟からきた韓人である. 乙巳の変は韓人である翹企(翹岐 - 中大兄)の仕業だと日本書紀は古人大兄の叫びを借りてはっきりとした. 明瞭な宣言である.

皇極天皇は乙巳の變の擧事計劃を知らなかったようだ. なぜなら皇極は中大兄の母じゃないから. 擧事の後, 除去されるのが彼女の運命だった. 皇室を美化するためならなんでもする日本書紀は彼女の存在自體を消してしまった.           

                                                                                    – おわり –

2016년 2월 16일 화요일

93. 崇峻天皇の弑



日本書紀は西紀592年崇峻天皇が弑害されたと記錄した. 弑害したのは天皇の大臣蘇我馬子である. 天皇を弑害した蘇我馬子はその後もなにもなかったように大臣として政局を主導した. 天皇家を天孫族として崇仰する日本書紀のスタイルとしては珍しい歷史の展開である. 臣下により天皇が弑害された唯一の例で死亡した当日に葬ったことと陵地陵戸がない ことは 他に例が 無い.

日本書紀巻二十一用明崇峻紀 治世5年 (592) 冬10月4日、猪を奉る者があった。天皇は猪を指さして言った。
天皇> いつの日かこの猪の頸を斬るように、自分が憎いと思う奴を斬りたいものだ。
朝廷で武器を集めることが、いつもと少し違っている事があった。
10日、蘇我馬子宿禰は天皇が言ったという言葉を聞いて、自分を嫌っていることを警戒した。一族の者を招集して、天皇を弑することを謀った。
11月3日、馬子宿禰は群臣を騙して言った。
蘇我馬子> 今日、東の国から調を奉って来る。
そして東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を使って、天皇を弑したてまつった。この日天皇を倉梯岡陵(奈良県桜井市倉橋)に葬った。

日本書紀は上のように事件の成行きをコメントしているがこれは書紀の創作にすぎない. この位いの事由で臣下が天皇を殺すなんてありえない. 蘇我馬子が崇峻天皇を弑害しなければならなかったもっと深刻な理由があったはずである. 法的責任からの免除をも包めて.

崇峻天皇はなぜ臣下により弑害されたのか?

用明治世元年(586) 穴穂部皇子が炊屋姫皇后を犯そうとし皇后が天皇の殯宮にいたところを押し入った. しかし先の天皇の寵臣であった三輪君逆(みわのきみさかう)が 兵衛を呼んで宮門をかため防いで入れなかった.

この記事から始まった政変(587)は穴穂部皇子, 宅部皇子, そして物部守屋討伐につづく.  この政変に関する日本書紀の說明は勿論造り話で炊屋姫皇后を犯そうとしたとか佛敎導入に見解差があったとかは日本書紀の論理に過ぎない.

この政変で勝った蘇我馬子,  炊屋姫らが泊瀬部尊(崇峻天皇)に勧めて即位の礼を行ったのは588年でその後大和國が本音を明かにするのは591年だった. 587年の政敵討伐は591年戦爭開始の前哨戦である。

崇峻治世4年 (591) 夏 秋8月1日、天皇は群臣に訪ね言った。
天皇> 自分は新羅によって滅ぼされた任那を再建したいと思うが、卿等はどう思うか。
群臣は相談し代表して馬子宿禰が答えて言った。
蘇我馬子> 任那の官家を復興すべきであります。みな陛下の思召しと同じです。
冬11月4日、紀男麻呂宿禰、巨勢猿臣、大伴嚙連、葛城烏奈良臣を大将軍に任じ、各氏族の臣や連を副将、隊長として二万余の軍を従えて筑紫に出兵した。

任那の官家を復興すべきとは見慣れた日本書紀の建前である. 591年11月4日筑紫に出兵, 592年11月3日崇峻弑害, そして11月5日 早馬を筑紫の将軍達のところに遣わして「国内の乱れによって 外事を怠ってはならぬ」と伝えたというのが日本書紀の內容である.

591年11月4日筑紫に出兵したのは 討伐しなければならない統治權力が當時九州に存在した證據である. 日本書紀が話したくない九州の統治權力はその年, 法興年號を宣布し國の上下が一致團結して大和の侵略軍と戦う. 1年餘りの戦爭は大和の敗北でおわった. 日本書紀が話したくない九州の統治權力が敗戦國大和に要求したのが崇峻天皇處刑, 大和に寺の建立, そして大和の制度改革であった. 蘇我馬子は九州の統治權力の要求にしたかって崇峻天皇を處刑し大和國は九州に服從 を誓って戦爭は 終った. 炊屋姫の卽位も勿論九州の承認の下での出來事である.

釈日本紀が引用した古書「伊予風土記」逸文の”法興6年(596)10月 我が法王大王が慧慈法師及び葛城臣とともに…”での法王大王こそ當時豊国の大王で慧慈法師は彼の佛法興隆を支援する任務をしていた. 大和に法興寺が建られる前に九州には幾つかの寺刹が建られていた. 當時九州はすでに佛敎を受容していたと思われる.

隋書倭國傳は開皇二十年(600年)倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使を王宮に詣でさせるとした.

日本書紀は話したくない歷史は躊躇(ためら)わなく歪曲または隱す. 九州の歷史を隱すから隋書倭國傳に出る多利思比孤という名の九州王 が日本書紀に出て來ない. もし記錄する必要がある場合多利思比孤という名は使わない. ばれないように変名を使う. だから日本書紀の歷史は謎に包まれている. 多利思比孤は息長足日広額天皇 (敍明天皇)の名の中の足日広に當るか? と推測するのが 精一杯であるからだ.

するとどうして九州に大和より上位の統治權力があったのか?

日本書紀が話したくないこの疑問に答えるためには安閑宣化時代に戾らなければならない.

532年卽位した安閑天皇は関東から九州まで屯倉を全國的規模に設置, 難波の大隈と 媛嶋松原に牛を大量放牧すると同時に櫻井田部連, 縣犬養連, 難波吉士等に屯倉の税を司(つかさど)らせた.

536年卽位した宣化天皇は 元年(536) 夏5月1日 詔して言った.

“食は天下の根幹である。黄金が万貫あっても 飢えを癒すことはできない。真珠が千箱あっても寒冷から人を救うことができない. そもそも筑紫の国は遠近の国々が朝貢してくる所で行き来の関門となっている. 海外の国は海の様子や天候の状況をうかがってこの地に到来する. そのため応神天皇の時代から私の代まで稲穀を収蔵してきた. 凶作に備え賓客を接待する際に用いてきた。国の安泰のためにこれ以上のものは ありえないだろう.

よって朕は阿蘇仍君を派遣して 加えて河内国の茨田郡の屯倉の殻を運ばせよう。蘇我大臣稲目宿禰は尾張連を派遣して尾張国の屯倉の殻を運ばせよう。物部大連麁鹿火は新家連を派遣して新家屯倉の殻を運ばせよう。阿倍臣は伊賀臣を派遣して、伊賀国の屯倉の殻を運ばせよう。官家を那津之口(ナノツノホトリ)に作り立てろ。また 筑紫, 肥, 豐の三つの国の屯倉は散り散りになって遠く隔絶したところにある。運輸するには遥かに隔たっている。もし必要となって用いようとするならばすぐには備えるのは難しいだろう。諸々の郡に課して分けて移して那津之口に集めて立てて非常時に備えて長く民の命とするべきだ。早く郡県に下して朕の心を知らしめよ”

日本書紀巻第十八安閑宣化紀に注目する學者は稀であるが短い記事の中に深刻な事實が含まれている. 安閑66歲卽位(532) つづいて宣化70歲卽位(536), 二人共 短い4年在位の間ずっと追われたように急ぎ續ける. 安閑は全國的な屯倉の大量設置, 難波の大隈と 媛嶋松原に牛の放牧, そして屯倉の徵税を督勵する. 宣化は全國的な物流システムを整備, 全國の屯倉からの殻を 筑紫の那津之口に集める.

凶作に備え賓客を接待する際に用いてきたと詔は言っているが大和でもない難波でもない那津之口とは可笑しい.

日本書紀巻十七継体紀 治世23年 (529) 春3月 百済王は下哆唎国守穂積押山臣に語って言った。
百済王> 日本への朝貢の使者がいつも海中の岬を離れるとき風波に苦しみ船荷を濡らしひどく損壊します. そこで加羅の多沙津を我が国の朝貢の航路として頂きたく思います.
押山臣はこれを伝え奏上した. この月物部伊勢連父根 吉沙老らを遣わして多沙津を百済王に賜った.

那津之口の向うは百済の加羅の多沙津である. 継体紀529年の記事と安閑宣化紀の記事は密かに繫がる. 百濟は聖明王16年(538)熊津から泗沘(所夫里)に遷都した. 百濟の泗沘(所夫里)遷都と安閑宣化時代の全國的な屯倉設置は同時に推進 された百濟の緊急な懸案である. 百濟は日本列島の殻を筑紫の那津に集めて船荷を加羅の多沙津まで送る責任者を九州に常駐させた. 日本書紀, 古事記が言及したことのないこの官職をここで便宜上, 百済の九州王と呼ぶ. 九州王は 百濟の財政をバクアプする重要なポジシヨンであったにちがいない. 大和の抵抗にも拘らず安閑から皇極まで凡そ 100年の間九州王は全國の屯倉からの殻を筑紫の那津之口に集めて加羅の多沙津に送ったはずである.

百濟は九州王歷任者を大和王に轉任するようにしたと思われる. 宣化, 欽明, 敏達, 用明もそうだった. だから587年穴穂部皇子は自分が用明以後大和王に卽位するのは當前と考えていたにちがいない. 物部守屋は元の如し九州の決定に從う べきと考えただけである. 穴穂部皇子が炊屋姫皇后を犯そうとしたとはあるまい. 穴穂部皇子, 宅部皇子, 物部守屋を討伐した大和の蘇我馬子,  炊屋姫, 泊瀬部尊(崇峻天皇)らは百濟に反逆したことになる.

なぜ大和を長く管理して來た百濟王家の後裔たちは母國百濟と九州に背いたのか?

日本書紀は大陸の影響なしで倭の天皇家が存續してきたと宣布しているが大和國はガラパゴス諸島(Galápagos Islands) のような孤島ではない. 今まで崇峻天皇の弑の本質がクリアに理解できなかったのは當時の歷史をガラパゴス島內の政変として見たからである.

1620年メイフラワー号(Mayflower) に乘った102名の乗客がイギリス南西部プリマスから アメリカの マサチューセッツ 州 プリマスに渡って來た. そこで定着した移民者たちは1世代の人間は自分をイギリス人と思う. しかしあそこで生れた 世代はアメリカ人のアイデンティティを持つようになる. 人間だれでも自分が慣ているところを國と思うのは自然である.

蘇我馬子(551– 626)は百濟人3世で大和國生れである(88. 磐井の乱のコペルニクス的転回 參照).  587年物部守屋討伐に動員された 泊瀬部皇子(29歲), 竹田皇子(15)、厩戸皇子(14)、難波皇子(19)、春日皇子(17)らは2世で大和國生れである.

磐井の乱から60年位い立つと大和國の空氣も大きく変わる. 大和國は 532年以來全國的な屯倉の殻を九州に奪われて自分たちの暮しが辛くなったとの不滿が廣がっていた. そして自ら大和王を選んで母國百濟と九州からの独立を追求した. しかし九州征討戦爭で九州に負けたのが崇峻天皇の弑の顚末である.

これが信じられなかったら推古時代の歷史を見るがいい. 九州に本の少しの隙さえ見えたら推古時代の大和國は九州征討 に出る. 日本書紀はその度任那の官家を復興すべきという見慣れた建前を流す. かわいそうに大和國の試圖は每度挫折 され大和は終に九州に合倂されてしまう. 629年九州王自ら征服君主として大和王に卽位したのが敍明天皇である.

推古時代現れる大和國の寺の建立と制度改革は九州の要求を受容した結果である. 大和國を正統として書れた日本書紀は九州に繫がる歷史を徹底に排除し大和國をガラパゴス島の國のように作り上げた. いつか調べ考える勇氣ある者が現われ明らかにするだろう.                                              
                                                                                                   - 終 –
 

2016년 1월 1일 금요일

92. 벽골제(碧骨堤)는 어떤 모습이었나?


김제시 벽골제농경문화박물관의 학예연구사 정윤숙이 쓴 “김제 벽골제의 문화적 생산력과 규모” 가 2009년 11월 한국농업사학회가 발행하는 “농업사연구”에 실렸다. 정윤숙은 서기 1415년 중수된 벽골제는 저수시설이며 부량면 신용리에서 월승리까지의 약 3 km의 제방이 원평천과 두월천 유역을 수몰시켜 거대한 저수지를 형성한다고 보았다. 

그리고 벽골제를 포함한 광역단위의 항공사진과 표고점, 등고선, 수계 등의 지리정보와 1975년 벽골제 발굴조사에서 드러난 실측 제방고 등의 자료를 지리정보시스템(Geographic Information System) 으로 분석하여 제방의 수심에 따른 수몰지역을 모니터링하고 저수지의 총둘레와 총면적을 추정하였다. 

1975년 발굴시 장생거(長生渠)의 제방고는 4.3m로 실측되었다. 제방의 지면은 대략 해발 4 m 정도이며 제내(堤內)의 최대수심을 3m (해발 7m) 로 볼 때 저수지의 수몰 총둘레는 68.6 km, 총면적 34.5 km2 로 결론지었다. 이 정도라면 저수량이 약 1억톤이다.

정윤숙이 내린 결론은 역사서에 씌여져 있다고 일반인들이 믿고 있는 내용과 일치한다. 그러나 많은 사람이 믿는다고 그것이 사실이 되는 것은 아니다. 역사서의 기록 또는 해석에는 오류가 있을 수 있으며 벽골제를 방조제로 보는 시각도 존재한다. 믿고 싶은대로 역사를 우상화하기보다 과거와 현재의 사실관계을 밝히려는 노력이 바람직하다.    

벽골제의 실제 모습을 탐구하려면 지난 날 사람들이 겪어온 자연환경을 정직하게 바라보고 당시의 인력과 기술로 무엇을 할 수 있었을지 궁리해야 된다. 이를 위하여 몇 가지 의문에 대하여 검토한다. 

첫째 벽골제가 처음 삼국사기에 등장하는 4세기 벽골제 부근은 육지였나, 바다였나? 바다였다면 김제평야는 만조시 어디까지 해수에 잠겼나?

두째 저수량 1억톤의 물을 필요로 하는 농경지가 그 시대 김제, 만경, 정읍, 부안 지역에 있었나?  

셋째 옛 사람들이 간척한 농경지에 설치한 배수 및 방조(防潮)시설은 어떤 모습일까?

삼국지 위지동이전은3세기 이곳에 벽비리국(辟卑離國)이라는 나라가 있었다고 기록했다. 백제 때 벽골군(碧骨郡)이 되었고 삼국사기는 서기 330년 벽골제를 축조했다고 하였다. 벽골제는 그후 신라, 고려, 조선대에 걸쳐 몇 차례의 중수를 하였으나 서기 1420년 제방이 붕괴되었다는 기록이 남아있다. 

서기 663년 백강(白江)의 전투의 현장, 현 동진강 하구는 조석간만의 차가 최대 7.4m, 최소 4.0m이다. 조선말1872년 발행된 김제군 지도는 동진강 하구 남안이 만조시 수심1장(3m), 간조시 연륙(連陸) 된다고 기록했다. 부안 쪽으로 가면 만조시 수심 3장(9m), 간조시 연륙된다. 신평천 하구 북안은 만조시 1장, 간조시 연륙, 만경강 하구 북안 만조시 3장, 간조시 연륙된다. 연륙(連陸) 된다는 말은 간조시 갯벌이 드러난다는 뜻이다. 지금은 김제만경평야의 일부를 이루는 동진강 하구, 원평천 하구, 신평천 하구 , 만경강 하구가 1872년까지도 바다였다.

이 지역의 동진강, 고부천, 원평천, 두월천, 신평천은 감조하천(感潮河川)이다. 1920년대 이후 강의 하구에 제수문(制水門)이 설치되어 해수의 유입을 차단할 수 있게 되었다. 제수문이 설치되기 전까지 동진강의 해수는 태인까지, 원평천은 봉남면 신응리 - 종덕리까지, 신평천은 백산면 석교리까지 들어왔으므로 강물을 농업용수로 쓸 수 없었다. 

이 말은 3 - 4 세기 김제평야의 대부분이 간석지(干潟地) 즉 갯벌이었다는 뜻이다. 동진강, 원평천, 신평천은 강이 아니라 바다의 갯골(갯고랑) 이었다. 이 갯골의 상류까지 만조시 바닷물이 들어 왔다고 상상하면 된다. 자연 속의 김제는 온통 바다의 뻘벌(辟卑離)이었고 표고 4 – 5미터에 불과한 뻘벌(갯벌)은 만조시 물에 잠기고 간조시 드러났다. 








1872년 지도에 동진강 하구 남안이 만조시 1장이라 하였으므로 하구 북안 즉 벽골제 측 갯벌도 만조시 수심 3m의 바다였다.  그러면 정윤숙 학예연구사가 예측한 벽골제 제내수위 3m의 수몰지는 정확히 만조시 수몰지역과 일치한다. 제내수위 3m시 수몰되었다고 전해 온다면서 인용된 지명(김제시 봉남면 대송리, 김제시 황산면 강정마을, 정읍시 감곡면 오주리) 은 만조시 해수로 수몰된 지역의 와전이다. 

전북 부안군 부안읍은 백제의 개화현(皆火縣)이다. 개화(皆火)란 갯벌이란 우리말의 한자표기이다. 계화도(界火島)의 계화(界火)도 같은 말이다. 벽골군(碧骨郡)의 벽골이란 뻘골(뻘고랑)에서, 벽비리국(辟卑離國)의 벽(辟)은 뻘(펄)에서 온 말이 아닐까 ? 왜냐하면 김제 만경 부안 고부 태인지역은 온통 갯벌(뻘,펄) 투성이의 지형이었으니까. 일본서기의 헤치우(辟中, 김제) 란 “뻘 가운데” 라는 의미가 아닌가?




지금까지의 추리를 뒷바침할 수 있는 국가기록원의 사진이 있다. 1964년의 제2방조제공사 중인 동진강의 모습은 간석지의 갯골이다. 옛 원평천과 벽골제 주변의 모습도 이와 비슷했다고 보면 된다. 벽골제가 축조된 330년에서 1600여년이 지난 1964년까지도 동진강 하류는 자연 그대로의 모습이었다. 

1960년대 동진강 종합개발 수리간척사업이 시행되었다. 전북 임실군 섬진강 상류에 다목적댐을 건설하고 산를 관통하는 도수터널을 통하여 옥정호의 물을 김제, 만경, 정읍, 부안으로 끌어오는 대공사였다. 더불어 부안에 4000 ha의 계화도 간척지를 만들고 동진강제방이 건설되었다. 

간척지를 대량으로 확보할 수 있는 여건을 가지고 있으면서도 농업용수 부족으로 목마른 김제, 만경, 정읍, 부안지역의 용수문제는 1960년대 동진강유역 종합개발사업을 통하여 비로소 해결될 수 있었다. 옥정호의 저수용량은 4억 3천만톤이다.

벽골제가 마지막으로 중수된 서기 1415년대 저수량 1억톤의 물을 필요로 하는 농경지가 김제, 만경, 정읍, 부안 지역에 있었을까? 위에서 언급한대로 지금 벼를 심는 김제평야, 만경평야, 고부평야, 정읍평야가 모두 바다였다면 이 지역에 1억톤의 물을 필요로 하는 농경지가 있었을 리 없다. 더우기 물이 흘러갈 수로가 필요한데 지금 거미줄처럼 설치된 수로는 모두 20세기의 작품이며 김제만경평야가 지평선를 볼 수 있는 유일한 곳이라는 말도 20세기에야 가능한 말이다. 김제만경평야의 대단원을 장식한 방조제가 완성된 싯점은 다음과 같다.


방조제 이름위치방조제 길이 km개발면적 ha완공연도
광활방조제김제시광활면9.519651924
진봉방조제김제시진봉면7.610761927
화포방조제김제시만경읍5.73921927
대창방조제김제시죽산면3.74101927
서포방조제김제시죽산면5.37461929
도선장방조제부안군동진면6.55031932
계화도방조제부안군계화면12.839681979




세종실록 지리지에 의하면 1450년 대 김제군의 인구 2,065명, 간전(墾田)이 7,281결이었다. 지금 지평선이 보인다는 만경현은 그 때 인구 727명, 전답 3,508결(結)이었다.  1750년 경의 해동지도는 김제군 인구 24,679명, 전답 10,473결, 만경현 인구 14,217명, 전답 4,143결이라고 하였다. 김제군의 전답이 300년 동안에 3,192결 증가하였음에 주목한다. 

결(結)은 면적의 단위가 아니라 소출을 기준으로 하는 면적 (100짐을 생산하는 토지가 1결) 이므로 토지의 등급에 따라 시대에 따라 결(結)에 해당하는 면적은 가변적이다.  대충 결(結),  ha (100m x 100m),  정보(町步 = 3,000평) 가 비슷한 면적이라고 보면 이해가 빠르다. 

벽골제가 저수지였다면 면적이 약 3,450 ha 이다. 현 여의도 면적의 12배이다. 이 곳을 간척하여 농사짓는 것이 시급한 삼국 – 고려 – 조선시대 사람들이 사용할 곳도 없는1 억톤의 저수지를 먼저 만든다는 것은 모순이다. 지금 바라보이는 김제만경평야가 그 시대에도 존재했다고 상상하는 것은 거대한 착각이다.  

벽골제 바깥 쪽은 바다, 안 쪽은 저수지라면 원평천을 물막이하고 김제시 신덕동 수월마을까지 제방으로 연결해야 된다. 이때 벽골제 제방 3.3km는 김제에서 태인으로 가는 유일한 도로가 된다. 그러면 원평천을 건너 다니는 갯다리(浦橋)가 필요없게 되지만 조선시대 발행된 모든 지도에 갯다리가 표기되어 있다는 것은 원평천을 물막이 한 제방은 없었다는 뜻이다. 1억톤의 물을 필요로 하는 농경지도 없었고 원평천을 가로막은 제방도 없었다. 

저수지의 제방도 홍수시 방류할 수문이 필요하다. 이 수문은 범람을 막기 위한 비상용이기 때문에 단시간에 엄청난 양의 물을 방류해야 된다. 존재가 기록된 폭 4미터의 수문 5개로는 1억톤 용량 저수지의 범람을 단시간에 처리할 수 없다. 이 수문 5개는 관개용 용수로의 수문이라고 한다면 저수지의 범람에 대비한 거대한 방류시설의 흔적이 어딘가에 있아야 되는데 그런 것이 발견되지 않았다는 것은 저수지가 없었다는 또 하나의 증거이다. 

1892년 만들어진 정읍시의 만석보(萬石洑)의 예를 보면 하천의 물막이 공사가 얼마나 힘든 일인지 알 수 있다. 고부군수 조병갑이 동진강과 정읍천이 합류하는 곳에 만석보를 쌓고 농민들에게 농업용수의 세금을 부과하였다. 19세기 말 경이 되어서야 인력과 기술수준이 정읍시 이평면(梨坪面)에서 동진강 최상류의 물막이 공사를 할 만큼 되었다는 것을 알 수 있다. 이보다 477년 전인 1415년 중수된 벽골제가 원평천을 막아 물막이 공사를 했을 가능성은 없다. 

그러면 역사에 기록된 벽골제는 실제 어떤 모습이었을까?

삼국지 위지동이전의 벽비리국(辟卑離國), 삼국사기의 백제 벽골군(碧骨郡), 일본서기의 헤치우(辟中)는 전국에서 가장 넓은 간석지(干潟地)가 펼쳐진 곳이다. 갯벌은 넓고 경사는 완만하여 옛부터 간척사업이 많았을 것이다. 서기 851년 신라의 문성왕은 청해진을 폐지하고 그 곳의 주민들을 벽골군으로 강제이주시켰다.  

간척초기에는 소수의 인력으로 표고가 높고 제방축조가 용이한 곳을 골라 소규모의 제방을 만든다. 원평천이나 두월천의 상류에서는 제방을 2m 정도만 쌓더라도 바닷물을 막을 수 있는 곳이 있을 것이다. 인구가 증가함에 따라 점점 수심이 깊은 곳으로 간척범위가 넓어진다. 현 김제시 봉남면에서 원평천의 북안을 제방으로 막을 수 있는 시점이 되면 약 1,200 ha의 간척지를 확보할 수 있게 된다. 

자연은 강을 만들고 인간은 뚝(제방)을 만든다. 벽골제 주변을 간척하려면 신털미산에서 엄지산까지 제방을 쌓고 원평천의 뚝을 만들면 된다. 원평천을 물막이하는 것은 불가능하므로 현 벽골제의 약 3km를 제방으로 막고 원평천의 남안을 따라 뚝을 만들어 김제시 봉남면에 이르면 약 15 km2 (1,500 ha) 의 간척지가 확보된다. 이것이 서기 1415년 중수했다는 벽골제의 모습일 것이다. 

김제평야에 제방이 벽골제 하나 뿐이었다면 1420년 중수한 벽골제 제방이 붕괴되었을 때 원평천과 두월천 주변 경작지 전체가 해수로 수몰되었을 것이다. 그러나 우리의 추리가 맞다면 원평천과 두월천 주변의 간척지는 상류로부터 시차를 두고 축조되었으므로 독립적인 제방으로 분리되어 있었다. 따라서 1415년 축조한 제방이 붕괴되더라도 제방 내의 토지만  피해를 입었을 것이다. 


1420년 전라도 관찰사는 큰 풍우로 벽골제가 터져서 둑 아래에 있는 전답 2,098결이 피해를 입었다고 조정에 보고하였다. 피해을 입은 전답 2,098결은 벽골제 북단에서 원평천 남안을 따라 봉남면까지 쌓은 제방의 제내면적인 듯 하다 

엄지산(嚴之山)에서 벽골제가 시작된 것은 제방길이를 최소로 하기 위한 선택이다. 벽골제 부근에서는 제방을 쌓을 돌을 구할 수 없으므로 흙으로 제방을 쌓을 수 밖에 없다. 소요되는 흙은 현장에서 조달된다. 벽골제의 제방이 하면 20m, 상면 10m, 높이 4m라면 (20+10)/2 x 4 x 3000 = 180,000m3의 흙을 제방 안쪽에서 파내게 되고 제방 안쪽에 18만톤의 저수지가  생긴다. 

원평천 남안의 뚝을 같은 규모로 쌓고 봉남면까지 길이를 10km로 가정하면 (20+10)/2 x 4 x 10,000 = 600,000m3 의 저수지가 제방 안쪽에 생긴다. 원평천 제방 안쪽에 60만톤 규모의 저수기가 생긴 셈이다.

조선시대 지도에 벽골제와 더불어 용보, 용추, 용연 (龍洑, 龍湫, 龍淵) 등으로 표기된 것이 이렇게 생긴 제내 저수지이다. 

 


간척지의 농경지도 배수시설이 필수적이다. 홍수시의 범람을 막기 위하여 또 가을철 농사가 끝나면 물을 빼내야 되기 때문이다. 벽골제 내부 농경지의 배수는 원평천으로 할 수 밖에 없다. 원평천에는 해수가 드나들기 때문에 수문이 필요하다. 수문은 해수의 유입을 막기 위해 항상 닫혀 있다. 배수가 필요할 경우 간조시에만 개방할 수 있다. 지금까지 알려진 5개의 수문이 바로 이 방조배수문이며 언젠가 다른 장소로 옮겨졌을 것이다.

배수시설은 제내에 배수용저류지를 필요로 한다.  만조시 수문을 누설해 들어오는 해수가 있으므로 해수가 농업용수와 섞이지 않도록 관리하기 위해서다. 

참고로 일본에서 서기 1710년 설치했다는 농업용수용 수문을 보면 벽골제 수문의 모습과 흡사하다. 쿠마모토(熊本)현 쿠마(球磨)군 타라기(多良木)마을의 햐쿠타로우(百太郎) 용수로 수문으로 최근까지 사용되었으며 지금은 관광용으로 전시되고 있다.  

역사를 정직하게 보자면 서기 330년의 벽골제 축조, 790년의 중수, 1143년의 중수, 1415년 중수했다고 나오는 기록은 반드시 동일한 장소를 의미하지 않는다. 서기330년 원평천의 상류에서 간척사업을 시작하였고 세월이 흐르면서 점차 하류로 확대해 나갔다고 보는 것이 합리적인 추리이다.  현 벽골제지(碧骨堤址)는 1415년 중수했다는 벽골제를 말하지만 그 이전의 벽골제는 상류의 간척사업일 가능성이 크다.  

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