日本書紀雄略九年三月記事があるが顕宗三年(AD 487)のと同じ事件である. 大伴談連は
當代倭の最高實權者だったのにどうして現忠淸北道の爾林まで進軍してあそこで戰死
したのか. 高句麗が南下し忠州を掌握している頃である.
當代倭の最高實權者だったのにどうして現忠淸北道の爾林まで進軍してあそこで戰死
したのか. 高句麗が南下し忠州を掌握している頃である.
日本書紀顕宗三年(AD 487) の記事がある. 日本書紀は知らんぶりをしているが大伴の談連
とは任那の左魯と同じ人です. 大伴の談はAD 430年代生れで487年忠淸北道の爾林で死んだ.
紀岡前久目連は那奇他甲背をいうようだ.
とは任那の左魯と同じ人です. 大伴の談はAD 430年代生れで487年忠淸北道の爾林で死んだ.
紀岡前久目連は那奇他甲背をいうようだ.
大伴談連は佐魯, 大伴狭手彦は佐魯麻都と同じ人です. 大伴家は允恭から欽明まで反百濟親
高句麗路線を辿る.
高句麗路線を辿る.
大伴家系
百濟の木滿致は母の國, 新羅に忠誠を盡す人柄で彼の家門は頑固に反百濟親新羅路線を取る.
百濟王室に深い恨みを抱いたような頑固さが感じられる. (參照 113. 葛城襲津彦の正体). 大伴
家は襲津彦家門と協力するようになったと推測される. 襲津彦家門は百濟の甲背という官職
を持っていたからいろいろ役にだったでしょう.
百濟王室に深い恨みを抱いたような頑固さが感じられる. (參照 113. 葛城襲津彦の正体). 大伴
家は襲津彦家門と協力するようになったと推測される. 襲津彦家門は百濟の甲背という官職
を持っていたからいろいろ役にだったでしょう.
大伴家は安羅に反百濟親高句麗-新羅路線を追求する私的組職を設けて襲津彦家門といっし
ょうに運營した. 私的組職というのは倭の天皇とは關係ないとの意味です. 顯宗から繼體天
皇までの46年間大伴家が倭を支配した. 日本書紀編者らがこの私的組職を任那日本府と名付
けたから, まるで國の組職であったように見える.
ょうに運營した. 私的組職というのは倭の天皇とは關係ないとの意味です. 顯宗から繼體天
皇までの46年間大伴家が倭を支配した. 日本書紀編者らがこの私的組職を任那日本府と名付
けたから, まるで國の組職であったように見える.
安羅は廣開土王南征以來高句麗との特殊な地位を樂んできたようだ. 大伴家が私的組職を安
羅に設置したのは安羅の早岐も大伴家と内通する仲間だったからでしょう. 欽明治世, 的臣,
河内直と阿賢移那斯は襲津彦家門, 佐魯麻都は大伴家門である.
羅に設置したのは安羅の早岐も大伴家と内通する仲間だったからでしょう. 欽明治世, 的臣,
河内直と阿賢移那斯は襲津彦家門, 佐魯麻都は大伴家門である.
欽明治世 日本府の執事
河内直の先祖
AD 527年継体治世近江の毛野臣が登場する. 爾林城の役から40年後の出來事です. 毛野臣は
まだ謎の人であるがここで左魯, 那奇他甲背と近江の毛野臣らの正體を調べる.
まだ謎の人であるがここで左魯, 那奇他甲背と近江の毛野臣らの正體を調べる.
近江の毛野の若殿とは近江毛野臣の子を指す. 毛野は愷那(けな)と訓む. 毛野 = 愷那(けな) =
賢那 = 阿賢移那斯になるわけです. 毛野の若殿の名前は阿賢移那斯, 近江の毛野臣は爲哥岐
弥の有非岐でございます.
新羅が南加羅ととく己呑を併合して今卓淳を攻めろうとしている. 卓淳のあとは安羅になる
わけです. 安羅に組職を持っている大伴家が襲津彦家の加猟直岐甲背を送って安羅を救おう
としたのが本音である.
賢那 = 阿賢移那斯になるわけです. 毛野の若殿の名前は阿賢移那斯, 近江の毛野臣は爲哥岐
弥の有非岐でございます.
新羅が南加羅ととく己呑を併合して今卓淳を攻めろうとしている. 卓淳のあとは安羅になる
わけです. 安羅に組職を持っている大伴家が襲津彦家の加猟直岐甲背を送って安羅を救おう
としたのが本音である.
襲津彦家系
AD 548年 馬津城の役はこの年の1月に高句麗が攻め込んで百濟の馬津城を囲んだ戦いである.
葛城襲津彦の家系はAD 410年代生の世代の情報が少なすぎる. そして那干陀甲背の父が
誰で紀小弓宿禰 は誰の子であったのかはっきりしない. ここまで調べてきていきなり一
つの疑問が浮かぶ. AD 475年の盖鹵王, AD 554年の聖明王事件の後ろにも反逆の家系が
絡んでいるのでは?
誰で紀小弓宿禰 は誰の子であったのかはっきりしない. ここまで調べてきていきなり一
つの疑問が浮かぶ. AD 475年の盖鹵王, AD 554年の聖明王事件の後ろにも反逆の家系が
絡んでいるのでは?
- おわり -
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