2020년 1월 17일 금요일

110. 建波邇安王の反逆


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 崇神天皇十年の秋九月一族から選んだ四人を将軍(いわゆる四道将軍)に任命し、「もし祭祀を受け入れない者がいたら、兵を率いて討て」と命じた。これにより伯父の大彦命が北陸に、その子の武渟川別が東海に、吉備津彦が西海に、甥の丹波道主命が丹波に派遣された. (日本書紀).

古事記は崇神天皇の御世に大毘古命を高志道に遣わしその子の建沼河別命を東方十二道に遣わしてその従わない人たちを平定させた. また日子坐王を旦波国に遣わして玖賀耳之御笠を殺させたとする.

記紀はつづいて建波邇安王の反逆を述べる. すると建波邇安王の反逆は崇神天皇十年の出來事のように見えますが実は崇神十年がいつのことかまた分りません. ディテイルより大綱を調べる方が分りやすい. 倭古代史の流れを見ると建波邇安王の反逆, 玖賀耳之御笠討伐, 四道将軍派遣はAD 287年から318(崇神歿)の間である. 奈良県天理市塚古墳と京都府木津川市椿井大塚山古墳はこの時期築造された.

倭古代史の流れ (神武から仁徳まで)      
神武天皇


正始六年詔賜倭難升米黄幢付郡假授
開化天皇
孝安天皇

立卑彌呼宗女壹與年十三爲王
孝靈天皇
崇神天皇

建波邇安王の反逆
玖賀耳之御笠討伐
四道将軍
景行天皇
倭建命
成務天皇 ( -355)
仲哀天皇 ( -362)
建内宿禰
東国征討
近肖古王  
貴須王
神功皇后
応神天皇
宮主矢河枝比売
七支刀(372)
枕流(トムル)王

大鞆和気命
宇遅能和紀郎子
応神死亡 (394)
仁徳天皇
AD 245
AD 256
AD 287 丁未年
AD 318戊寅年
AD 362壬戌年
AD 384

建波邇安王の反逆というのは負けたからで若し勝ったら賦斗邇の反逆になるわけでしょう. 當代の陣營構成は次のようになっていた. 孝元天皇の皇子, 建波邇安王と大毘古命が敵陣で對峙している.

大物主神
賦斗邇軍
大倭帯日子国押人命, 意富多多泥古
大倭根子日子賦斗邇命
建波邇安王
大毘古命
倭国造 椎根津彦, 市磯長尾市
建沼河別命
葛城国造 垂見宿禰
彦国葺命 (日子坐王)

當代の人的事項を隱そうとして色んな改ざんがなされた. まず建波邇夜須毘古の母, 波邇夜須毘賣は賀茂建角身命の娘である.

古事記
眞相
波邇夜須毘賣   河内青玉の娘
建波邇夜須毘古〔タケハニヤスビコ〕命
波邇夜須毘賣   賀茂建角身命の娘
建波邇夜須毘古命

賀茂御祖神社 東殿のご祭神玉依媛命のもとの名は波邇夜須毘賣でございます.
賀茂神社
現行
眞相
賀茂別雷神社 (上賀茂神社)
祭神  賀茂別雷大神
祭神 建波邇夜須毘古命
賀茂御祖神社 (下鴨神社)
賀茂建角身命, 玉依媛命
賀茂建角身命, 波邇夜須毘賣

 記紀の系譜は誤りが多いようですが建波邇安王の父系母系は次のようになって大毘古命と異腹の兄弟です.

AD 130
AD 160
AD 190
AD 220
AD 240
AD 270
須佐之男命
大國主神
孝昭天皇
孝元天皇
大毘古命
開化天皇
建沼河別命
日子坐王
須佐之男命
宇迦之御魂神
(=天火明命)
(=笠水彦命)
賀茂建角身命
(=八咫烏)
(=笠津彦命)
波邇夜須毘賣
建波邇夜須毘古



滋賀県野洲市三上に御上神社がある. 孝霊天皇(賦斗邇)の時代, 天之御影神が三上山の山頂に降臨したと伝える. 日子坐王が近淡海之御上祝が祭祀している天之御影神の娘, 息長水依比賣を娶って生んだ子は水穂之真若王. ここで天之御影神は建波邇安王のことです. 建波邇安王が死んだあと勝戰軍の彦国葺命が建波邇安王の娘 息長水依比賣を娶って生んだ子, 水穂之真若王が御上氏の始祖になって建波邇安王を祭祀したとのことである.

記紀は建波邇安王の子女についてなにも述べていません. 40代で死んだ建波邇安王には子女があったはずです. 子女は歷史に登場しても匿名の出身になっている.

建波邇夜須毘古命の推定系譜
建波邇安王 (240年代)
意富多牟和気
布多遅比売 (290年代)
應神天皇 (320年代)
山代大國之淵
苅羽田刀弁(垂仁妃)


山代大國之淵
弟苅羽田刀弁(垂仁妃)
布多遅能伊理毘売 (290年代)
仲哀天皇 (320年代)
天之御影神
息長水依比売(日子坐王)
水之穂真若王 (300年代)


日子坐王 (彦坐王)は開化の皇子で玖賀耳之御笠を殺したと古事記にあります. また記紀に丸邇臣の祖とする日子国夫玖命 (彦国葺)日子国意祁都命の皇子で建波邇安王の反乱時, 建波邇安王を殺した. ここで日子坐王 (彦坐王)日子国夫玖命 (彦国葺)同一人と見るべきで, 日子国意祁都命と開化は夫婦だったことになります. 開化天皇は女性だった.

日子坐王 (彦坐王)
開化の皇子
玖賀耳之御笠を殺す
日子国夫玖命 (彦国葺)
日子国意祁都命の皇子
建波邇安王の反乱鎮圧

玖賀耳之御笠討伐時, 共に弟苅羽田刀弁(垂仁妃)は戰死 (丹後風土記の匹女)したが苅羽田刀弁 (垂仁妃) 討伐, 日子坐王 (彦坐王)が娶って山代之荏名津比売という名で又3人の子を生んだ.

賀茂建角身命
玉依媛命
=波邇夜須毘賣
賀茂別雷大神
=建波邇安
河内青玉(=賀茂建角身命)
波邇夜須毘賣
孝元天皇
建波邇夜須毘古命
天之御影神 (=建波邇安)
息長水依比賣
日子坐王
美知能宇斯王
水穂之真若王
神大根王
山代大國之淵(=建波邇安)
苅幡戸弁 (カリハタトベ)
垂仁妃
落別〔オチワケ〕王
五十日帯日子〔イカタラシヒコ〕王
伊登志別〔イトシワケ〕王
山代大國之淵(=建波邇安)
苅幡戸弁 (荏名津比賣)
日子坐王
大俣王
小俣王
志夫美宿禰王
山代大國之淵(=建波邇安)
)弟苅羽田刀弁 (匹女)
)綺戸辺〔カニハタトベ〕
垂仁妃
石衝別王
布多遅能伊理毘賣命

賀茂建角身命は記紀に名前が出ない.  AD240年神武東征で八咫烏という神の名が出るばかりである.  しかし東征の中で 死んだ五瀬命は彼の兄, 倭国造になった椎根津彦(珍彦)彼の子だったので神武の論功行償で賀茂建角身命が 貰った葛野主殿県主というのは葛野, 近淡海, 山代の廣い領域を統治する役目だったと推定される. その領域は布多遅比売, 布多遅能伊理毘売を娶った倭建命を通じて應神天皇が引き繼ぐ. 應神天皇は倭建命の長子, 稲依別王(記)であることに勘付く人は少ない. 神功紀は虛構の歷史であるから捨てるべきでございます.

京都府木津川市山城町に椿井大塚山古墳がある. 3世紀末築造されたこの古墳の被葬者が建波邇安王である可能性は99%
以上である. 古墳の北側に山城町 綺田(かばた)という地名がある. 垂仁妃  ()綺戸辺〔カニハタトベ〕の綺(カニハタ)綺田(かばた)に因むようで山代大國之淵とは建波邇安王のことと見るべきです.

椿井大塚山古墳で31面の三角縁神獣鏡出土された. その中7号と8号が同一鏡, 9と10号同一, 13-14-15号の3面が同じ
鏡だった. 古代の倭では葬儀に参列する弔問客が哀悼の意でお供えの銅鏡を捧げる風習がはやっていたと思われる. お供えの銅鏡は被葬者といっしょうに埋葬される.
椿井大塚山古墳の19号鏡の同范鏡が福岡県の3個所, 大分県1個所で出土された. この鏡の配布者は九州の人である可能性が多い.

椿井大塚山古墳出土鏡M19 (天王日月.獣紋帯三神三獣鏡) 出土地

築造
mm


椿井大塚山古墳
3世紀後半
230
京都府木津川市山城町
苅田石塚山古墳
3世紀後半
225
福岡県京都郡苅田町
赤塚古墳
3世紀後半
222
大分県宇佐市大字高森字赤塚
原口古墳

226
福岡県筑紫野市武蔵原口
蒲田天神森古墳

226
福岡県福岡市東区蒲田字天神森

椿井大塚山古墳より 5 - 6年前築造された黒塚古墳(奈良県天理市柳本町)で33面の三角縁神獣鏡出土された. 被葬者は
日子国意祁都命で建波邇安王と同年輩.

AD 190
AD 220
AD 240
AD 270
孝昭天皇
天押帯日子命
日子国意祁都
比古由牟須美命
孝昭天皇
孝元天皇
建波邇安王


椿井-黒塚古墳出土鏡は9面の同范關係がある. 京都の椿井, 奈良の黒塚, 岡山の備前車塚, 福岡の石塚山古墳の同范關係は 次のようです. 三角縁神獣鏡目錄番号 35吾作四神四獣鏡は京都, 奈良, 岡山, そして福岡の全地域で流通されたことが分る.

古墳出土の鏡は權威からの下賜品じゃなく弔問客のお供え物である. 當時の銅鏡は高値で上流層で流通されたでしょう.

椿井-黒塚古墳出土鏡の同范關係
三角縁神獣鏡
目錄#
京都椿井大塚山
AD 3末築造
奈良黒塚
AD 3末築造
岡山備前車塚
福岡石塚山
天王日月唐草四神四
44
M3
M24


張氏作銘四神四獣鏡
34
M4
M21


吾作徐州四神四
37
M5
M22


吾作四神四獣鏡
35
M7-8
M4
J-?
徑200
天王日月獣文帯四神四獣鏡
43
M12
M28


張是作四神四獣鏡
53
M17
M13-26


張氏作三神五
21
M21
M16-18


天王日月.獣紋帯四神四
68
M34
M9
J-37180

波文帶盤龍鏡
3
M35
M17








画紋帯五神四獣鏡
56
M11

J-37181

陳是作四神獣鏡
16
M6

J-37175

天王日月獣文帯三神三獣鏡
105
M19


徑225






新作徐州洛陽鏡四神四獣鏡
18

M3
J-37178

天王.日月.獣紋帯四神四獣鏡
70

M29-30

徑220
天王.日月.獣紋帯四神四獣鏡
74

M2-27-33

徑235



- おわり -