2018년 1월 1일 월요일

102. 崇神天皇の四道将軍


 日本書紀 崇神十年 一族から選んだ四人を将軍に任命し、「もし祭祀を受け入れない者がいたら、兵を率いて討て」と命じた. これにより伯父の大彦命が北陸に、その子の武渟川別が東海に、吉備津彦が西海に、甥の丹波道主命が丹波に派遣された. ここで大彦命を伯父, 丹波道主命を甥としたので崇神天皇は大彦命と丹波道主命の間の世代であることが分る.

日本書紀 崇神代 四道将軍関係系圖と 年齡代推定
AD 190
AD 220
AD 245
AD 270
AD 295



崇神天皇

事代主神 (孝昭天皇)
孝元天皇
伯父の大彦命
武渟川別命


孝元天皇
開化天皇
日子坐王
甥の丹波道主命

孝元天皇
武埴安彦命




孝霊天皇 (AD 255)

吉備津彦命(孝霊子)

大彦命の墓の伝承地は川柳将軍塚古墳で長野市の千曲川を望む標高480mの山頂上にある. 武渟川別命会津大塚山古墳, 吉備津彦命中山茶臼山古墳, 丹波道主命は網野銚子山古墳だとしますから崇神代の四道将軍四人の墓が全て倭にいないことになる.  

四道将軍の墓の伝承地
吉備津彦命
西道
中山茶臼山古墳  3後- 4初
岡山市北区吉備津
大彦命
北陸
川柳将軍塚古墳  4世紀前半
長野県長野市篠ノ井石川
丹波道主命
丹波
網野銚子山古墳  4末-5初
京都府京丹後市網野町
武渟川別命
東海
会津大塚山古墳  4世紀末
福島県会津若松市一箕町

古事記は四道将軍という單語を使わず 崇神天皇の御世に大毘古命を高志道に遣わし, その子の建沼河別命を東方十二道に遣わして, その従わない人たちを平定させた 記錄した. 古事記には四道将軍なんか元よりなかったようだ.

さて, 時代が変わって古事記景行天皇代倭建命の東国征討”がある. 天皇は 倭建命に、「東方十二道の荒ぶる神、及び従わない者どもを説得し平定せよ」と言って、吉備臣等の祖である 名は御鋤友耳建日子 (吉備武彦)を従わせて遣わした. 

古事記はいつのことか記錄しなかった. 日本書紀は崇神十年 四道将軍, 景行四十年 日本武尊の東国征討としているが崇神十年, 景行四十年 いつのことかまた分らない. ここで目を引くのは崇神代と景行代に東方十二道が出て來ることである.

兩方共, 東方十二道に用事があったらしい.  二つの異なる事態はどう受入れるか. 太安万侶は誰か本當の眞相を見抜くように同じ東方十二道を選んだでしょう。武渟川別命の逃走路を追って倭建命が追擊していく. 倭建命(日本武尊) の東征路 は書紀のほうが詳しい.  (やまと)―伊勢―駿河―相模走水(はしりみず)―上総(かみつふさ)―陸奥(みちのく)―日高見(ひたかみ)―常陸新冶(にいばり)―筑波―甲斐―武蔵―上野(かみつけの)―碓日坂(うすいさか)―信濃―美濃―尾張―近江伊吹山―伊勢能煩野の順に並べられる.

書紀倭建命(日本武尊) の東征路の目的地を陸奥(みちのく)の蝦夷の住む地として地名を明らかにしなかった. 古事記は独り言のように地名說話を流す. “大毘古命は命令の通りに高志国に向かった. 東方に遣わされていた建沼河別と, その父の大毘古とがともに相津で行き会った. そこでその地を相津〔あひづ〕と言うのである.”目的地は會津だったでしょうね. 会津大塚山古墳があるところである(福島県会津若松市). 會津に着いて武渟川別命を捕まえて倭に押送するのが倭建命の任務だったと思われる. 日本書紀の記錄を見ましょう.


 海路で葦浦を回り、玉浦を横切って渡り、蝦夷の住む地に進んだ. すると嶋津神や国津神等を祀る集団の族長が、竹水門〔たかのみなと〕で待ち受けていた. しかし遠くから船を眺めただけで負けを悟り、王の素性を尋ねた. 王が、「大和政権の大王の子だ」と答えると、蝦夷たちは恐縮し、船を迎え入れて服従の意を示した. 王はその族長を手下にし、連れて行くことにした.

族長というのは武渟川別命のことである. 武渟川別命の軍は會津で武裝解除され, 武渟川別命は倭に押送, 處刑されたでしょう. 二人の血緣関係は下のようで會津で出会った時, 倭建命25歲, 武渟川別命45歲ほど で西紀320年頃の出來事と思われる. すると武渟川別命の墓は倭にあるはずです. 崇神治世での将軍であったけど新しい王朝に變って武渟川別命は不名譽な死を迎えたでしょう.
武渟川別命と倭建命の系圖の內容は書紀と一致しませんので留意してください. 倭建命は実は比古由牟須美命の子である. あとの誉田別命も実は倭建命の子であり, この系圖皇子らが百濟と倭皇室を主導する. 申し訳ない混沌たる歷史でございます.

AD 190
AD 220
AD 245
AD 270
AD 295
孝昭天皇
天押帯日子命
日子国意祁都
比古由牟須美命
倭建命
孝昭天皇
孝元天皇
大彦命
武渟川別命


ここで倭古代史の流れ (神武から仁徳まで)大綱を鳥瞰する必要がある. AD 287 - 318年の間, 倭で建波邇安王の反逆, 玖賀耳之御笠討伐, 四道将軍派遣のような战乱があったようだ. 建波邇安王の反逆はAD 287年頃, 玖賀耳之御笠討伐 300年頃, 四道将軍派遣 320年頃と推測される. 四道将軍派遣を 320年頃と見るのは古事記で崇神天皇歿年を 318年としたからである. 崇神天皇は岐阜県あたりで景行軍との战爭中战死したと思われる. 战爭に負けた崇神の主力軍は武渟川別命の領導で倭を脫出, 東方十二道を辿って陸奥(みちのく)の蝦夷の住む地, 會津まで逃げた. 丹波道主命と吉備津彦命はゆかりの里に逃げていった. 結局, 崇神天皇の四道将軍というのは崇神側敗殘兵だったことになる.

倭古代史の流れ (神武から仁徳まで)      

神武天皇
正始六年詔賜倭難升米黄幢付郡假授

天押帯日子命
(神武東征中死亡)
開化天皇
孝安天皇
立卑彌呼宗女壹與年十三爲王

日子国意祁都命
孝靈天皇
崇神天皇
建波邇安王の反逆
玖賀耳之御笠討伐
四道将軍
比古由牟須美命
景行天皇
倭建命
成務天皇( -355)
仲哀天皇( -362)
建内宿禰
東国征討
近肖古王  
貴須王
神功皇后
応神天皇
宮主矢河枝比売
七支刀(372)
枕流(トムル)王

大鞆和気命
宇遅能和紀郎子
応神死亡(394)
仁徳天皇
AD 245
AD 256
AD 287 丁未年
AD 318戊寅年
AD 362壬戌年
AD 384

崇神天皇の四道将軍たけじゃなく孝霊天皇と崇神天皇皇子らの終りはどうであったか調べる必要があります.

吉備津彦命
孝靈皇子
四道将軍
中山茶臼山古墳
稚武彦
孝靈皇子
吉備臣等の始祖
倭建命の副將
豊木入日子命
崇神皇子
上毛野君や下毛野君の祖
墓の所在不明
八坂之入日子命
崇神皇子
大萱古墳
岐阜県可児市久々利大萱
彦坐王
開化皇子
玖賀耳之御笠を殺す
岐阜県岐阜市岩田
彦国葺命
日子国意祁都命皇子
武埴安彦命の反乱鎮圧


日本書紀では吉備津彦命の後裔氏族に関する記載はなく, 弟の稚武彦命を吉備臣祖とする. 吉備津彦命の後裔の記錄がないのは早死にして彼の家門がなくなったからだ. しかし稚武彦命は倭建命の副將になって家門を保全したと思われる.

日本書紀景行 五十五年 東山道十五国の支配を彦狭嶋王に任せることにした. これは関東北部(毛野国)の集団と婚姻を結んだ豊城命の孫である. 彦狭嶋王は呼ばれて春日(奈良市)の穴咋邑までやって来たが、そこで病死してしまった. この訃報を聞いた東国の人民は悲しみ、彦狭嶋王の屍を運び、上野国(群馬県)に埋葬した.

AD 270
AD 300
AD 325
AD 350
AD 375
崇神天皇
豊木入日子命
子 闕名
彦狭嶋王
御諸別王

豊城入彦命は倭を脫出, 東国に逃げて上毛野君や下毛野君の始祖になった. 豊木入日子命の孫, 彦狭嶋王を懷柔して春日の穴咋邑までやって来たがそこで病死してしまった? これは景行治世じゃなくずっと後の AD400年頃の出來事で彦狭嶋王は騙されて倭來たでしょうね.  

岐阜県可児市(かにし)久々利大萱(おおがや)にある 大萱古墳は八坂入彦命の陵墓として管理されてい. 倭から遠い岐阜県の山麓にあるいい加減な墓である.

古事記 崇神天皇の御世に日子坐王を旦波国に遣わして玖賀耳之御笠を殺させたとありますが日子坐王の陵墓参考地は岐阜県岐阜市岩田にある. 清水山の山麓に日子坐王を祭神とする伊波乃西神社もある. 玖賀耳之御笠を殺した日子坐王はどうして倭から遠い岐阜県の山麓に粗末な墓を残したのだろうか.



崇神代四道将軍全ての墓が倭にいない. 孝霊皇子 吉備津彦の早死に, 崇神皇子 豊木入日子命の逃走, 八坂之入日子命の客死, 日子坐王 (彦坐王)客死はなんかおかしいじゃないですか?
武埴安彦命の反乱の時, 活躍した日子国夫玖命 (彦国葺)墓はとこにあるか御存じですか? 岐阜県岐阜市岩田の日子坐王の陵墓参考地でございます. なぜかというと彦坐王と彦国葺は同一人で日子国意祁都命と開化は夫婦だったことになります.

日子坐王 (彦坐王)
開化の皇子
玖賀耳之御笠を殺す (AD302)
日子国夫玖命 (彦国葺)
日子国意祁都命の皇子
武埴安彦命の反乱鎮圧 (AD287)

崇神代四道将軍の一人の大彦命は AD 320年頃将軍として活躍するのは無理だったと思います. 彼は AD 240年代生れだから 300年代すでに60代です. 彼は崇神天皇治世の310年頃死亡して相應しい墓を倭に残したじゃないでしょうか.  4世紀初築造された前方後圓墳でしょうね. 大彦命の後裔の一派が身を隱し高志道辿って埼玉県の方に逃げたらしく埼玉県行田市埼玉稲荷山古墳で出土した鉄劍銘文で大彦命の後裔の一派のが分かった. 鉄劍は 471年製作された.

AD 318 (戊寅)を境にして孝靈 - 崇神時代は幕を下ろす. 孝靈 - 崇神時代の皇子と將軍達は沒落し, 景行治世になる. 景行軍の战死者もあったでしょう. この大戰で崇神時代は終り, 新しい王朝に切換える. 萬世一系の天皇家を主唱しながら編撰された歷史書時間軸と對照しながら読み直すべきでございます. 天の下 時間軸を超越する歷史はいません.

景行軍の战死者
大碓命
景行皇子
大碓命の墓
愛知県豊田市猿投町鷲取
五十狭城入彦命
景行皇子
和志山古墳
愛知県岡崎市西本郷町

景行天皇皇子で、ヤマトタケル(日本武尊/倭建命, 小碓命)とは双子とされる大碓命の墓は宮内庁により愛知県豊田市猿投町鷲取の猿投神社内にある大碓命墓に治定されている. 墓は猿投山の山中、猿投神社の西宮後方に所在する. 景行天皇52年に猿投山に登る中途で蛇毒のため42歳で亡くなったという.

景行天皇子 五十狭城入彦皇子(書紀) の墓は、宮内庁により愛知県岡崎市西本郷町和志山にある五十狭城入彦皇子墓に治定されている (考古学名は和志山古墳).

古事記景行天皇の御子たちは記されているものは二十一王, 記されていないものは五十九王, 併せて八十王があったとした. 皆様の目にはこんな御子たちが景行一人の子と見えますか? 崇神朝を征るため大規模の軍が外部からやって來たとは見えませんか? 崇神- 景行時代は百濟比流王 (11在位304-344) の治世であり, 崇神朝征討以來, 鴨氏-丸邇氏の次の 一派が倭皇室の主流として浮き上がる. 記紀は 比古由牟須美命 - 倭建命 - 應神天皇の系圖を滅茶に誤魔化した. 天皇家の 萬世一系の永続性を確保する積りで嘘を言うと謎多き古代史なります. そして謎の4世紀はまだ解明されていない. 崇神 - 垂仁 - 景行は赤の他人である. ここで垂仁架空の天皇であることは御存じですか? 申し訳ない歷史でございます.

AD 130
AD 160
AD 190
AD 220
AD 245
須佐之男命(1)
大國主神(2)
事代主神(3)
(孝昭天皇)
天押帯日子命(4)
(神武東征中死亡)
日子国意祁都命(5)

AD 270
AD 300
AD 330
AD360
AD 390
比古由牟須美命(6)

倭建命(7)
應神天皇(8)
(誉田別命)
大山守命(9)
大雀命
宇遅能和紀郎子
(大鞆和気命)
若沼毛二俣王
意富富杼王(10)
(腆支王)


- おわり


-->