2020년 3월 15일 일요일

111. 崇神時代を終わらせた比古由牟須美命



古事記 開化天皇条に その兄の比古由牟須美王の子は大筒木垂根〔オホツツキタリネ〕王. 次に讃岐垂根〔サヌキタリネ〕王. 二王. この二王の娘に五柱がいた. ここに出て來る五柱の娘は誰をさすか調べてみましょう. 五柱の娘たちはAD320 - 340年代の生れでしょう.

AD270
AD290-300
AD320-340
比古由牟須美命
大筒木垂根王
讃岐垂根王
二王の娘に五柱

古事記 景行天皇条に”併せて八十王の中で若帯日子命と倭建命また五百木之入日子命のこの三王は太子の名を負った”とした. しかし若帯日子命(成務天皇)と倭建命の事積と後裔氏族は有るものの五百木之入日子命についての記錄はない. 三人の太子としてもいつの生れで長幼の序はどうであるかはっきりしない.

古事記は応神天皇が品陀真若王の娘の三柱の女王を娶ったとする. 一人の名は高木之入日売命, 次に中日売命, 次に弟日売命. この女王たちの父の品陀真若王は、五百木之入日子 (イホキノイリヒコ) 命が尾張連の祖である建伊那陀宿禰 (タケイナダノスクネ) の娘の志理都紀斗売 (シリツキトメ) を娶って生んだ子である.

建伊那陀宿禰
尾張連の祖
志理都紀斗売





五百木之入日子
品陀真若王
高木之入日売
中日売命
弟日売命
大山守命
大雀命
AD295
AD270
AD300
AD330
AD350

倭古代史の流れ (神武から仁徳まで) を見ると倭建命の副將だった建伊那陀宿禰AD290年代の生れと考えられる. すると
五百木之入日子命が建伊那陀宿禰の娘を娶って品陀真若王を生んだとの記錄は誤りになる. 五百木之入日子は建伊那陀より一世代 前の人です.

神武天皇
正始六年詔賜倭難升米黄幢付郡假授

天押帯日子命
(神武東征中死亡)
開化天皇
孝安天皇
立卑彌呼宗女壹與年十三爲王

日子国意祁都命
孝靈天皇
崇神天皇
建波邇安王の反逆
玖賀耳之御笠討伐
四道将軍
比古由牟須美命
景行天皇
倭建命
成務天皇( -355)
仲哀天皇( -362)
建内宿禰
東国征討
近肖古王  
貴須王
神功皇后
応神天皇
宮主矢河枝比売
七支刀(372)
枕流(トムル)王

大鞆和気命
宇遅能和紀郎子
応神死亡(394)
仁徳天皇
AD 245
AD 256
AD 287 丁未年
AD 318戊寅年
AD 362壬戌年
AD 384

記紀に小碓命(倭建命)の母として記錄されている針間之伊那毘能大郎女も倭建命の母ではない. なぜかというと倭建命と若建吉備津日子は同年輩であるから. 針間之伊那毘能大郎女は景行の妃とはありうるけど倭建命の母とは不可です.

AD290

AD290
若建吉備津日子
針間之伊那毘能大郎女
大碓命(倭建命)

景行天皇の三人の太子の中で本當の景行の子は若帯日子命だけです. 景行はAD270年代, 若帯日子はAD320年代の人物. 若帯日子命の母, 八尺入日売命はAD300年代の生れと考えられる.

AD270
AD300
AD320
崇神天皇
八尺入日売命
若帯日子命

古事記 応神天皇条によって五百木之入日子命の生年は分かるけど倭建命の眞の系譜に勘付く人は少ない.


AD270
AD290
AD320
古事記
景行天皇
倭建命
稲依別王(記)
日子国意祁都
比古由牟須美命
倭建命
応神天皇

品陀真若王に絡む社跡が徳島県名西郡石井町石井石井にある. そして石井町のこの近辺には品陀真若王の三女王が祀られる. 石井町の東, 渡内川の高城(たかき)の「東王子神社」に「高岐入比賣」, そして西に300メトルほど移動した場所の「中王子神社」には「中比賣命」, さらに西の石井町浦庄地区の「西王子神社」に「弟比賣命」が鎮座している.

品陀真若王に絡む社跡が徳島県にあったらもしかすると五百木之入日子命が徳島県に留った可能性がある. 讃岐垂根王と品陀真若王が同一人だったら三柱の娘は明らかに高木之入日売, 中日売命, 弟日売命である.

AD270
AD300
AD330

五百木之入日子命
品陀真若王
= 讃岐垂根王
高木之入日売
中日売命
弟日売命
大山守命
大雀命

讃岐垂根王比古由牟須美命の子であるので五百木之入日子命と比古由牟須美命も同一人のはずです. 記紀は默っているが崇神時代を終わらせた比古由牟須美命は偉い人であったに違いない. 彼が有りのまま歷史に記錄されてはいけないわけがあったでしょう. 和邇氏が天皇家の主流に浮上るのは比古由牟須美命からである.

日子国意祁都
比古由牟須美命
倭建命
応神天皇

古事記 垂仁天皇 后妃と御子に大筒木垂根王の娘がある. 迦具夜比賣命は AD320年代の生れ, 袁邪弁王は340年代位. しかし垂仁天皇はAD300年代初死亡したので迦具夜比賣命を垂仁妃とするのは不合理です. 迦具夜比賣の亭主はほかの人でなければならない.

迦具夜比賣〔カグヤヒメ〕命  
袁邪弁〔ヲザベ〕王 
大筒木垂根〔オホツツキタリネ〕王の娘

AD270
AD290
AD320
AD340
比古由牟須美命
大筒木垂根王
迦具夜比賣命
袁邪弁〔ヲザベ〕王

応神天皇の后妃に姉妹の宮主矢河枝比売と袁那弁郎女がある. 丸邇の比布礼能意富美の娘であるが母については分らない.

宮主矢河枝比売    丸邇の比布礼能意富美の娘
宇遅能和紀郎子
八田若郎女
女鳥メドリ王
宮主宅媛〔ミヤヌシヤカヒメ〕妃  日触使主の娘
菟道稚郎子〔ウヂノワキイラツコ〕皇子
矢田〔ヤタ〕皇女
雌鳥〔メトリ〕皇女
袁那弁郎女   矢河枝比売の妹
宇遅之若郎女
宅媛〔ヤカヒメ〕の妹の小瓶媛〔ヲナベヒメ〕
菟道稚郎姫〔ウヂノワキイラツメ〕皇女

もし比布礼能意富美が迦具夜比賣命の亭主だったら次のようになって五柱の娘が応神天皇の后妃であったのに気付く.

AD290
AD310
AD320
AD340


大筒木垂根王
比布礼能意富美(父)


迦具夜比賣命()
宮主矢河枝比売
袁那弁郎女
袁邪弁王

応神天皇はどうして高木之入日売,中日売命,弟日売命の3姉妹, 宮主矢河枝比売, 袁那弁郎女の姉妹を娶ったのか. 大筒木垂根王は倭建命の異名と見るべきです. 名前を單順化すると比古由牟須美命家門の五柱の娘たちの世話をするのが応神天皇の義務だったことになります.

比古由牟須美命
倭建命
応神天皇



迦具夜比賣命
宮主矢河枝比売
袁那弁郎女

品陀真若王

高木之入日売
中日売命
弟日売命

記紀が沈默している比古由牟須美命の事績を搜すのはできません. しかし彼が生きた時代を描くことはできます.

AD270年代

比古由牟須美命 出生
AD280年代
建波邇安王の反逆
10代
AD300年代
玖賀耳之御笠討伐
30代
AD320年代
四道将軍派遣
40- 50

垂仁天皇 后妃と御子に阿邪美都比賣命があって稲瀬毘古王に嫁いだ. 稲瀬毘古王についてはなにも伝えられていない. 比古由牟須美命の正體がばれないよぅに匿名を使ったと思われる. 倭建命は阿邪美都比賣命の子であるから倭比賣命は母系の姨(をば)になる.

氷羽州比賣命
倭比賣命
日葉酢媛
倭姫〔ヤマトヒメ〕命
阿邪美能伊理毘賣〔アザミノイリビメ〕命
阿邪美都比賣〔アザミツヒメ〕命 稲瀬毘古王に嫁いだ
四女 薊瓊入媛〔アザミニイリビメ〕
稚浅津姫〔ワカアサツヒメ〕命


AD250
AD270
AD290
阿邪美能伊理毘賣 (垂仁妃)
阿邪美都比賣 (稲瀬毘古王に嫁いだ)
倭建命

AD300年代, 日子坐王 (彦坐王)が玖賀耳之御笠を討伐する時, 比古由牟須美命は官軍に抗爭する所謂レジスタンスになって四國で朝廷と對峙した. AD320年代の四道将軍派遣は比古由牟須美命の勝利の物語である. 四道将軍とは崇神側敗殘兵だった (參照; 102. 崇神天皇の四道将軍). 鴨氏-和邇氏系譜をまとめたので參考にしてくたさい.

鴨氏-和邇氏系譜 (數字は世代番號)

AD 130
AD 160
AD 190
AD 220
AD 245
須佐之男命(1)
大國主神(2)
事代主神(3)
(孝昭天皇)
天押帯日子命(4)
(神武東征中死亡)
日子国意祁都命(5)

AD 270
AD 300
AD 330
AD 360
AD 390
比古由牟須美命(6)
(五百木之入日子)
建豊波豆羅和
日子坐王
(彦国葺)

倭建命(7)
品陀真若王
丹波道主命
水穂之真若王
神大根王
比布禮能意富美(難波根子建振熊命)
大筒木真若王
應神天皇(8)
高木之入日売
中日売命
弟日売命
宮主矢河枝比売
袁那弁
息長真若中比

大山守命(9)
大雀命
宇遅能和紀郎子
(大鞆和気命)
若沼毛二俣王
意富富杼王(10)
忍坂之大中津比売命
田井之中比売
田宮之中比売
藤原之琴節郎女


- おわり -

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