政変を通じて皇位を奪おうとして乙巳の変を起こした中大兄皇子とはどのような人物なのか。政權を奪うためには皇極天皇, 皇太子古人大兄, 蘇我蝦夷大臣, 蘇我入鹿臣を除去しなければならない. 血緣的正統性が疑われる皇子が權力の頂点に至るためには正統性のあるものを殺すのは當り前でしょう. 殺戮を伴わない政変はあるまい. どうせ命賭けての鬪いである.
皇極天皇治世 645年6月12日, 天皇大極殿に御す. 古人大兄侍り. 中大兄皇子は政界の実力者蘇我入鹿を天皇の目の前で殺害し旣存權力層を除去して權力を簒奪した. 皇極天皇は廢位, 幽閉, 殺されたでしょう, (94. 日本書紀 皇極紀の行間を読む. 107. 皇極天皇にまつわる伝説 參照) 皇太子古人大兄皇子殺害も避られない手順である.
中大兄皇子は天皇家の先祖みたいな存在になったので彼に関する歷史はいろいろ美化されている. なにも惡いことしないで大化の改新等の行政改革をするため政変を起こしたように記錄されている. なので日本書紀の內容をそのまま信じるのは世間しらずの態度であります.
書紀の中で入り交じる登場人物はなん回も名を変えて出入りします. 翹企と書くと足を爪立てて待ち望むとの意味です. 書紀編者達ちは皇太子になれない漢皇子のことをを翹岐と名付けたらしい.
翹岐の年齡(616-671)を調べるため翹岐が絡む重要事件を順次的にならべると下のようです. 舒明条終りに添えている「641年冬10月9日 天皇は百済宮で崩御しました... この時 東宮開別皇子は年齢16歳で誄をしました」との記錄は偽りでございます. 中大兄皇子は616年九州で生れたが舒明天皇の皇子ではない.
漢皇子24歲 | 漢皇子26歲 | 翹岐27歲 | 中大兄30歲 | 中大兄33歲 | 天智56歲 |
阿雅皇女生れ639. | 舒明崩御641.10.9 | 嶋放たれ642.1 | 乙巳の変 645.6.12 | 大友皇子生れ 648. | 崩御 671.12.3 |
天智天皇系譜の采女宅子娘は弘文天皇(648-672)の母であるが「伊賀国名所記」によると日本書紀に見えない阿閇皇子と阿雅皇女も書かれている.
采女:宅子娘(やかこのいらつめ)620-672
| 伊賀国造某女?
|
皇極条に「弟王子兒翹岐が兒死去ぬ(642.05.22)」と出るのは阿閇皇子のことだと考えられる. 大友皇子は三つ目の子だった. 采女宅子娘は620年位いの生れで638年頃の初娶りだったでしょう. というのは638年頃中大兄皇子の身分は卑しかったとのことです. 九州で漢皇子は宅子娘をめとって阿雅皇女と阿閇皇子を産んだ.
輕皇子(孝德天皇)は阿倍内麻呂の女小足媛をめとって640年有間皇子を産んだ. 輕皇子は九州で育てて九州で結婚して九州で長子を産んだのは乙巳の変5年前である.
阿倍内麻呂590 -649 | 小足媛 620 - | 有間皇子640-658 |
政変の謀議が進む中で蘇我倉山田石川麻呂が仲間になって蘇我遠智娘は中大兄の夫人になった. 中大兄が豪族の女を娶ったのは乙巳の変の陰謀が始まった以來のことである. 采女宅子娘たけは九州で嶋に放たれる前娶ったわけです.「 642..2.24 翹岐を召して、阿曇山背連の家に安置らしむ」時に翹岐, 母齊明, 妹間人皇女, 翹岐妻宅子娘, 阿雅皇女の女子四人そして阿閇皇子が一緖に明日香についたとのことです.
翹岐及び其の母妹の女子四人
母齊明 | 妹間人皇女 | 翹岐妻宅子娘 | 阿雅皇女 |
その際まで翹岐は齊明の私生兒 漢皇子だったでしょう. 宅子娘は始め采女じゃなく普通の皇子妃として嫁入りしたが漢皇子が天皇になると采女に格下げされた. 乙巳の変の後, 中大兄は始めて皇太子になって天皇の位に近づく. 眩しい狀況変化である.
天智天皇(616-672) 初期皇子女
出生年 | 皇子女出生順 | 母 |
639 | 阿雅皇女 639?-709 | 采女:宅子娘 |
641 | 阿閇皇子 641?-642 | 采女:宅子娘 |
643 | 大田皇女 643-668 | 夫人: 蘇我遠智娘 625?-? |
645 | 鸕野讃良皇女 645-703 | 夫人: 蘇我遠智娘 |
645.6.12 乙巳の変 | ||
648 | 大友皇子 648-672 | 采女:宅子娘 |
651 | 建皇子 651- 658 | 夫人: 蘇我遠智娘 |
弟王子兒翹岐についての記述の中で目を引くのは「642.02.02塞上恒作惡之」と「(642.04.08)唯不喚塞上」のところです. 弟王子= 塞上になるわけですがここでどうして塞上という名前がでてくる? 書紀は塞上と翹岐が特別な関係であるのを暗示する. 齊明は漢皇子を身籠もったまま舒明に嫁入りした. 事故がばれて齊明が白狀したのが塞上だっでしょう. 恒に作悪す塞上の又の名は中津王(舒明の弟)である.
弟王子兒翹岐
642.1 | 「国の主の母薨せぬ. 又弟王子兒翹岐及び其の母妹の女子四人、内佐平岐味、高き名有る人四十余、嶋に放たれぬ」 |
642.02.02 | 「百済国の主、臣に謂りて言ひしく、『塞上恒に作悪す(塞上恒作惡之)。還使に付けたまはむと請すとも、天朝許したまはず』といひき」 |
642.02.24 | 翹岐を召して、阿曇山背連の家に安置らしむ |
642.04.08 | 大使翹岐、其の従者を將て朝に拜す. 蘇我大臣、畝傍の家にして、百済の翹岐等を喚ぶ。親ら對ひて語話す。仍りて良馬一匹鐵廿铤を賜ふ。唯し塞上をのみ喚ばず。(唯不喚塞上) |
642.05.22 | 翹岐が兒死去ぬ。 |
皇極条の翹岐は643年までで644年からは中大兄皇子と呼ばれます. 翹岐も中大兄皇子も実在したことのない歷史家の作名だったでしょう.
齊明天皇は、初に於橘豊日天皇の孫高向王に適して、漢皇子を生しませり。後に息長足日広額天皇に適して、二の男・一の女を生します.日本書紀 斉明紀に依ると斉明は4人の子を産んだ.
初適於高向王= 弟王子 (塞上) | 漢皇子= 弟王子児 翹岐= 中大兄皇子 (616 – 671) |
後適於舒明天皇 而生二男一女 | 間人皇女 (629? – 665) 大海皇子 (631? – 686), 余豊璋と同一人 百済王善光 (635? – 693), 善光王, 禅広王ともいう |
舒明天皇の系譜は無理やりに改ざんされ皇極と齊明の重祚說も作られた. 皇極は613, 齊明は615年頃九州の多利思比孤に嫁入りしたでしょう. 息長足日広額天皇の足日= 足彦とは多利思比孤の婉曲な表現ではないでしょうか.
591.11.4 倭は九州征伐軍を遣わしたが負けて九州の命令に從かって崇峻天皇を战犯として處刑します. 591年九州は法興という獨自的年號を制定した. 『伊予国風土記』逸文の「法興六年(596)十月、歳在丙辰、我法王大王与恵慈法師」は法王大王という実存人物を記錄しています. この人が當時九州の統治者だったでしょう.
崇峻4年(591)8月1日任那を再建するべきの詔 | 11月4日。紀男麻呂宿禰・巨勢猿臣・大伴囓連・葛城烏奈良臣を遣わして大将軍としました。氏氏の臣連を率いて裨将(=副将)・部隊(=部隊長)として2万の軍を率いて筑紫に出て行きました. |
それから11年後(602年)倭は又九州征伐軍を遣わしたが将軍来目皇子が筑紫で战死, 倭の負けになった. 603年倭は又も九州を攻擊したがかえって九州に征伐されてしまう. そんなわけで舒明天皇が登場するので日本書紀の記錄はあんまり役にたたないです. 舒明天皇は倭の征服者として天皇位についたので
舒明天皇卽位前記は虛構である. 629年倭の天皇に卽位した舒明は九州の人です.
推古10年 (602) 2月1日 | 来目皇子を新羅を撃つ将軍としました。諸々の神部と国造・伴造たち、合わせて軍衆2万5千人を授けました。 夏4月1日。将軍、来目皇子は筑紫に到着し, すぐに進んで嶋郡(筑前国志摩郡=現在の福岡県糸島郡北半)に駐屯して、船舶を集めて、軍の粮を運びました。 6月3日 来目皇子は病気に臥していて、征討できませんでした。11年(603)2月4日。来目皇子は筑紫で亡くなりました。 |
推古11年(603)4月1日 | さらに来目皇子の兄の当麻皇子を新羅を征伐する将軍としました。 7月3日。当麻皇子は難波から船で出発しました。 6日。当麻皇子は播磨に到着しました。その時、付き従っていた妻の舎人姫王が赤石で亡くなりました。それで 赤石の檜笠岡の上に葬りました。すぐに当麻皇子は帰りました。ついに征伐はしませんでした |
推古天皇は602年どうして又九州征伐軍を遣わしたでしょう. 九州が倭より優れた軍を持っていたのはすでに證明されていたのになぜ九州征伐に出たのか? ここにヒントがあります.
推古5年(597)4月1日 | 百済の王は王子の阿佐を派遣して朝貢 |
推古7年 (599)4月27日 | 地動、舍屋悉破。則令四方俾祭地震神 |
597年九州の統治者になった阿佐が倭での法隆寺と斑鳩宮を建て始まる. 地震さえなかったら厩戸皇子とは繫らないプロジェクトだったでしょう. 厩戸皇子より 一つ年上の竹田皇子は阿佐の最側近だったと思われる. 阿佐は二つの顔を持つ人で押坂彦人大兄皇子と同一人です. 599年4月27日地震で法隆寺辺りで竹田皇子と一緖に犧牲され藤ノ木古墳に合葬された. 598年12月百濟の威德王崩御とほぼ同じ時期に起きた事件であったらしい. 九州は統治者を失った.
虎視眈々機を狙っていた倭は軍を動し九州を攻擊する.しかし602年, 603年倭の試圖は空しく終り隋書倭國傳の多利思比孤が登場する. 倭は九州に降服し國の自主權を奪われて九州の制度を受入れる. 603年12月冠位十二階 604年4月十七条の憲法 605年仏像, 元興寺, 金剛寺, 曇徵等の記事が續づく. 押坂彦人大兄皇子と竹田皇子歿後政治に關與した厩戸皇子は對九州戰爭の戰犯だったが仏事に專念するとして戰犯の罪を免れたと考られます.
書紀は地理情報を欠いて歷史を記錄したので眞相を分かり難くい. 乙巳の変に関聯された人達ちの出身地は次のようで九州人の政變と見ていいです. 古人大兄は入鹿臣が殺害されるのを見て私の宮に走り入りて人に謂ひて曰く、「韓人、鞍作臣を殺しつ. 吾が心痛し」(韓人殺鞍作臣 吾心痛矣) といふ. 古人大兄は九州人と百濟人を韓人, 自分は倭人という意識があったようです.
九州人(韓人) | 百濟人(韓人) | 倭人 |
多利思比孤(舒明天皇) | 沙宅智積(武王代大佐平, 義慈王代失脚と考えられる) | 皇極天皇 |
漢皇子= 翹岐= 中大兄皇子 | 沙宅軍善(恩率) =中臣鎌子 | 古人大兄皇子(皇太子) |
齊明天皇, 孝德天皇 | 蘇我蝦夷(大臣) | |
阿倍 内麻呂(左大臣) | 蘇我入鹿(臣) | |
蘇我倉山田石川麻呂(右大臣) |
多利思比孤は押坂彦人大兄皇子の子で後日の舒明天皇である. 多利思比孤と中大兄皇子は九州産れで九州で育った. 齊明は九州の多利思比孤に嫁入りして16歲位いで漢皇子を産んだ(616年). 大海皇子(余豊璋, 631 – 686) は 631年生れなので中大兄より15年下である.
出生年 | 死亡年 | 寿命(歲) | |
漢皇子=中大兄皇子 | 616 | 671 | 56 |
大海皇子=豊璋 | 631 | 686 | 56 |
百済王善光 | 635 | 693 | 59 |
阿倍内麻呂(左大臣), 蘇我倉山田石川麻呂(右大臣)も九州人で多利思比孤の近臣だったでしょう. 漢皇子とは九州からのお馴染みだったにちがいありません.
648年政変の仲間同志から葛藤が表出する. 「古き冠を罷む。左右大臣、猶古き冠を著る」という記錄の意味をご存じですか. 左右大臣は皇極天皇に忠を盡すのに命をかける. 左右大臣は豊璋に皇極天皇の幽閉地を知せ豊璋と皇極天皇が高知県土佐郡朝倉村の幽閉先を脱出, 愛媛県越智郡朝倉村に着いたのは648年8月19 日のようだ.
左右大臣は皇極天皇と主君の間に挟んで腦んだあまり自ら経きて死せぬ途を選んだ.
大化四年(648.04.01)古き冠を罷む。左右大臣、猶古き冠を著る。 |
大化五年(649.03.17)阿倍左大臣薨せぬ。 |
大化五年(649.3.25)蘇我倉山田右大臣自ら経きて死せぬ. 妻子の死ぬるに殉ふ者八. |
紀は皇極天皇出自で“天豊財重日足姫天皇は 渟中倉太珠敷天皇の曾孫 押坂彦人大兄皇子の孫 茅渟王の女り.”としていますが下で見るように矛盾でございます. 茅渟王は押坂彦人大兄皇子の子ではなく, 倭の歷史に書けない不思議な作中人物です.
敏達天皇 | 押坂彦人大兄皇子 | 茅渟王(+吉備姬王) | 皇極天皇(斉明,宝皇女) |
538-585 | 570-599 | 架空の世代(矛盾) | 594 - 661 |
皇極天皇は舒明天皇の母系家門出身, 斉明天皇は法王大王の孫と見えます. 661.6 伊勢王薨, 661.7.24皇極天皇崩于朝倉宮(宝皇女), 668.6伊勢王与其弟王接日而薨の背後に乙巳の変の名残りが漂う. なにも惡い事しなかったら歷史を造作する必要もないはずなのに...
皇極天皇出自
伊勢大鹿首小熊の娘 菟名子夫人 550年代生れ | 宝王(田村皇女) 舒明母 570 年代生れ | 661.7.24皇極天皇崩于朝倉宮(宝皇女) 661.6 伊勢王薨 | 668.6伊勢王与其弟王、接日而薨 |
孝德天皇の諱は輕皇子である. しかし齊明天皇の諱は知らない. 書紀は皇極天皇と齊明天皇が同一人であるから諱は宝皇女だとするが宝皇女は皇極天皇の諱で齊明天皇の諱は知られていない.
斉明天皇出自
法王大王 550?-600? | 茅渟王(+吉備姬王) | 斉明天皇 600-664 | 漢皇子616-671 |
多利思比孤の時代を窺うためには唐の魏徴(580-643)撰隋書俀国伝を見るがいい. 600年(推古八年)日本書紀に遣隋使の記録はないが隋書俀国伝には俀王多利思比孤の遣使の記錄がある. 書紀は多利思比孤のことはなにも觸れていない. 歷史の實相が欲しがったら書紀に書けない歷史もあったことを受け入れる勇氣がいります. 中国側の記録はウソをつく理由がないので隋書を信じるべきであろう.
書紀は607年-608年遣使を扱っているが文林郎裴清が倭の推古天皇と會ったようにウソをつく.591-602-603年九州との戰爭で慘敗した倭は九州の支配下におかれたので自主權を失った. 倭が認めたくない歷史である. 遣隋使と630年の遣唐使はみんな多利思比孤の作品でございます.
第一回 | 600年 | 「開皇二十年(600) 俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕. 王妻號雞彌. 名太子為利歌彌多弗利」 |
第二回 | 607年-608年 | 大業三年(607)、其王多利思北孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。帝覽之不悅、謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」 |
第三回 | 608年 | 明年(608)、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。 倭王遣小德阿輩臺、從數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。後十日、又遣大禮哥多毗、從二百餘騎郊勞 |
第4回 | 610年-? | 遣隋使を派遣する。(『隋書』煬帝紀) |
618年 | 隋滅ぶ |
- おわり -
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