2021년 1월 19일 화요일

117. 記紀に書けない歷史もある.


 今まで一聯のリサーチを通じて木羅斤資の系譜を本の少し拜見しましだがここで全模を窺って見ましょう. 


113. 葛城襲津彦の正

114. 反逆の家系 - 爾林城から馬津城まで

115. 可笑しい処刑記錄 - 允恭から雄略まで

116. 木馬の上の新羅美女二人


神功六十二年(382) 新羅美女二人を迎えた沙至比跪は木滿致を産んだ. 沙至比跪の反天皇家の行跡を隱すため日本書紀はわざわざ木滿致が木羅斤資の子だと嘘を言った. 


木羅斤資  AD 330年代

沙至比AD 360年代

木滿致  AD 380年代


536年宣化元年蘇我稻目大臣が突然登場する. それまで無名の人物だったけど書紀はなにも說明しなかったので今までも出自が分らない. 蘇我満智は履中2年(420), 蘇我韓子は487年, 木刕滿致は百濟本紀475年ばらばらの情報が散見される. 百濟と倭で散見される情報をも説明するぺきです. 倭では戰爭がなく平和だったから仕事が少ない. 百濟はいつも戰爭の中であったので仕事が多い. 倭の若者達が夢を追って大勢に百濟に行って百濟の官人になる. 木羅斤資も倭の名は味師内宿禰であった. 木羅斤資から木刕滿致まではそうかも知らないでしょうね. そうしたら木刕麻那のことは?


330年代

360

380

410

440

470

500

木羅斤資

石川宿

蘇我満智

蘇我韓子

刕滿致

(蘇我高麗)

刕麻那

(麻那君=磐井)

蘇我稻目

(筑紫君葛子)


日本書紀は504年麻那君, 529年麻那甲背, 543.4城方甲背昧奴, 543.12 中佐平木刕麻那を記錄した. 麻那君が末年中佐平まで昇格したわけです. 529年麻那甲背が近江の毛野臣といっしょうに安羅會議に參席しているから日本書紀の磐井の乱なんかはフィクションでしょう. 

 

麻那君(504)

麻那甲背(529)

城方甲背昧奴(543.4)

中佐平木刕麻那(543.12)


根使主の場合, 380年代の世代の名がはっきりしない. 百濟の官人で一貫したから倭の歷史に出ないのでは?


330年代

360

380

410

440

470

500

木羅斤資

紀角宿


根使主

小根使主

近江毛野臣

毛野の若殿


磐井は麻那甲背, 近江の毛野臣は加猟直岐甲背であるので二人は同年輩で百濟の官職も同じです. 書紀の継体条で磐井が近江毛野臣に言った言辭は有りうるそうです. 


磐井> 今、お前は朝廷の使者になっているが、昔は仲間として肩や肘をすりあわせ、同じ釜の飯を食った仲だ。使者になったからといって、お前に俺を従わせることなどできるものか。そして交戦して従わず、気勢盛んであった。毛野臣は前進を阻まれ、途中で停滞してしまった。


建内宿禰の子は古事記で併せて九人, 男七女二としながら味師内宿禰の子は記錄していない. 


建内宿禰の子は古事記で併せて九人。男七。女二 

古事記

日本書紀


波多八代宿

羽田矢代宿

波多臣 林臣 波美臣 星川臣  淡海臣 長谷部君の祖

許勢小柄宿

なし

許勢臣 雀部臣 軽部臣の祖

蘇我石河宿

石川宿

蘇我臣 辺臣 田中臣 高向臣 小治田臣 桜井臣 岸田臣 等の祖

平群都久宿

平群木菟宿禰

平群臣 佐和良臣 馬御杙連 等の祖

木角宿

紀角宿

木臣 都奴臣 坂本臣の祖

久米能摩伊刀比賣

なし


怒能伊呂比賣

なし

古事記応神妃の葛城之野伊呂売

葛城長江曾都毘古

葛城襲津彦

玉手臣 的臣 生江臣 阿芸那臣 等の祖

若子宿

なし

江野間臣の祖


味師内宿禰が百濟の官人で一貫したので味師内宿禰の記錄を殘したくなかった紀記は味師内宿禰の子も建内宿禰に合せて記錄したでしょう.


味師内宿禰の母は葛城之高千那毘賣である. まず建内宿禰の子の中で葛城長江曾都毘古, 葛城之野伊呂売は味師内宿禰の子と見える. 久米能摩伊刀比賣の久米は坂本臣に絡む地名である. 木角宿禰(紀角宿禰)の木は木羅の木で木羅斤資の後裔である. すると味師内宿禰の子は次のようです. 


葛城襲津彦

葛城之野伊呂

久米能摩伊刀比賣

蘇我石河宿

木角宿


建内宿禰の子は四人殘りますか又分りません. 


波多八代宿

許勢小柄宿

平群都久宿

若子宿



木羅斤資(味師内宿禰)の後裔等

330年代

360

390

410

440

470

500

木羅斤資

味師内宿禰

男鋤〔ヲサヒ〕

葛城襲津彦 

歯田根

山部大楯連

(総別王の反逆処刑)400

木滿致

石川楯

戸田宿禰

(焼き殺し)429

伊予来目部の小楯






葛城円大臣

(安康暗殺処刑) 456

葛城 韓媛






葦田宿 390 年代

荑媛 420年代市辺押磐皇子妃

飯豊皇女

斯麻王

聖明王



玉田宿

(処刑) 435

毛媛(狭臣の妻)

(星川の乱処刑) 461

星川皇子

兄君 

(星川の乱処刑) 461




石川宿360

蘇我満智380

蘇我韓子宿 410

刕滿致

(蘇我高麗)

440

刕麻那

(麻那君=磐井) 470

蘇我稻目

(筑紫君葛子) 500


紀角宿350

白城宿

紀小弓宿

伊予来目部の小楯

(爾林の役病死)

紀生磐宿

的臣の蚊嶋

(爾林の生存処刑) 491

紀辛梶宿



坂本建日宿






小鹿火宿

爾林の生存






根使主 410

城丘前来目者

(星川の乱処刑) 461

小根使主

河內三野縣主

紀岡前来目連

那干陀甲背

(爾林の役戰死) 487

近江の毛野臣

猟直岐甲背

鷹奇岐

ようがきみ

為哥可君

爲哥岐弥有非岐

(安羅會議失敗病死) 529

阿賢移那斯(賢那)

延那斯

近江の毛野の若殿


葛城之野伊呂(磐之媛命)自害

履中天皇380

辺押磐皇子 410

飯豊皇女440

斯麻王461

聖明王

糸井比売 (櫻井田部連の祖である嶋垂根の娘) 応神妃

総別命

(処刑) 400







次の人物は紀氏家牒に出ないので記紀に拠るしかないです.


葛城円大臣 390

玉田宿 390

根使主 410

小根使主 440

小鹿火宿 440


応神天皇は394年(甲午年)亡くなられた. そのあと3年間空位の時代, 大山守皇子が討伐された. 速総別皇子の反逆は397年仁德卽位以後の出來事でしょう. 葛城襲津彦(山部大楯連)と速総別皇子は處刑された. 葛城襲津彦の妹, 葛城之野伊呂売(磐之媛命)は家門の反逆に悩んだ餘りに父(木羅斤資)の家で自害した. 


記紀に書けない歷史もあったことを覚えてください. 



おわり    

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