日本古代史を記錄した古事記と日本書紀は兩方とも神の時代と人の時代の二重構造になっている. 神の時代だから 時間槪念がなく現象界の因果律が適用されない話が多いのはありうる. しかし 人の時代になったから時間槪念に 基づいて古代史が記錄されたわけでもない.
古事記はなぜだか 崇神, 成務, 仲哀, 応神, 仁徳, 履中, 反正, 允恭, 雄略, 繼體, 安閑, 敏達, 用命, 崇峻, 推古の沒年の干支を殘した. 崇神天皇の場合, 戊寅年十二月に亡くなられたと記錄されているが干支とは特定の年を指稱しない問題がある. 古事記と日本書紀の時間槪念に慣れた人達は永劫の時間軸の上で日本の 古代史を見るから不必要な架空の世代が多く 揷入されている. 古事記と日本書紀はもちろん氏姓の系譜も不必要な架空の世代がならべられている.
崇神天皇の沒年, 戊寅年はいつのことであろうか? AD 138, 198, 258, 318? 又はもっと昔?
ただ一つの情報で惱むより下のように6個のクルプに分けて長い時間軸の上で歷史の流れを見たら新しい歷史理解の地平が開かれる. 全體として矛盾は認めない. 矛盾が出ると古事記と日本書紀の記錄に問題がある可能性が增える. 古事記と 日本書紀に記錄されているのは全て眞實であるとはいえない. なぜなら古事記と日本書紀を編纂したのは 大和皇室維持の イデオロギーを確保するのが狙いであったから. 皇室は日本古代史の正史を編纂する積りなんかなかった. 時間槪念のない 歷史書を, 添削と造作を繰返しながら, 急いで編纂したのは歷史じゃなく, 他の大事な目的があったとしか考えられない.
古代史の流れの大綱を鳥瞰するためには神武天皇から仁徳天皇までの長期間の歷史を特定の時点で 6グループに 區切る. そして區切りの年代を客觀的に推定し全體的に矛盾がないのを確かめる. 古事記と日本書紀の系譜は參考にするだけで, そのまま信んじてはいけない. 時間軸の上で矛盾のある部分は補整するべきである.
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神武天皇
正始六年詔賜倭難升米黄幢付郡假授
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開化天皇
孝安天皇
立卑彌呼宗女壹與年十三爲王
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孝靈天皇
崇神天皇
建波邇安王の反逆
玖賀耳之御笠討伐
四道将軍
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景行天皇
倭建命
成務天皇
仲哀天皇
東国征討
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近肖古王
貴須王
応神天皇
神功皇后
宮主矢河枝比売
七支刀
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枕流(トムル)王
大鞆和気命
宇遅能和紀郎子
応神死亡
仁徳天皇
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AD 245
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AD 256
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AD 287 丁未
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AD 318戊寅
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AD 362壬戌
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AD 384
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三國志魏志倭人傳の難升米の記事を見る.
景初二年(238年)六月 倭の女王が大夫の難升米らを派遣して帯方郡に詣で天子に詣でて朝献することを求めた.
正始四年(243年)倭王は再び大夫の伊聲耆 掖邪狗ら八人を遣使.
正始六年(245年)詔を以て倭の難升米に黄幢を賜り帯方郡に付託して仮授せしめた.
正始八年(247年)帯方郡は長城守備隊の塞曹掾史である張政らを派遣し、詔書、黄幢をもたらし、難升米に拝仮させ、檄文を為して、(戦いを止めるように)これを告諭した.
難升米が238年朝献, 243年難升米が東征中 伊聲耆 掖邪狗らを遣使して東征の名分と狀況を報告, 245年魏皇帝は倭の難升米に黄幢を賜り帯方郡に付託して仮授せしめた. 247年張政らを派遣し、詔書、黄幢をもたらし、難升米に拝仮させ、檄文を為して、(戦いを止めるように)これを告諭した. 難升米は旣に倭王であることは確かである. 245年 大和の支配者になった難升米が 247年張政から黄幢を拝仮したのは明白な史實である.
AD 256年位いで神武天皇に最後の瞬間がやってくる. 63歲位いの御歲である. 神武の長子 当芸志美美命は35歲位い. 当芸志美美命が王位を繼ぐとしたが, 大和の皇后側は九州勢力の卽位を認めない. そして大和の先住勢力が當藝志美美命を殺し兩勢力は互いに誅殺しあい, 大勢の人達が殺された.
三國志魏志倭人傳西紀247年記事は”…更新して男の王を立てるが、国中が服さず、更に互いが誅殺しあい、当時は千余人を殺した。再び卑彌呼の宗女「壹與」を立てる。十三歳で王となると、国中が遂に鎮定した.”とある. 247年の記事は時期が異なる幾つの記事の破片が混じっている. この時点は張政らと繫がりのない大體256年位いの時点で卑彌呼の宗女「壹與」という13歲の少女が合意によって卽位するようになったらしい.
こんな推理が正しいためには開化天皇の性別がかえられたとの前提が必要である. 開化天皇が女性であった心證もあるがあとで話す時が來ると思います. 開化歿後孝安天皇立つ. 古事記と日本書紀の孝元天皇系譜は噓で, 復元しなければいけない. 孝元天皇も孝昭天皇の子で, 孝元と孝安は同世代の異母兄弟です. だから孝安天皇は60歲位いで卽位したが間もなく AD 287年頃の外侵に包まれ, 賦斗邇命(孝靈)に國を奪われた. 戰亂の中, 三輪山に逃走した孝安天皇(大物主神)は夜每, 密かに夜麻登登母母曽毘売 (孝安妃)を見に來たらしい.
孝昭天皇 (観松彦香殖稲天皇) 家系
母
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父
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子
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記
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勢夜陀多良比賣
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大物主神
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比賣多多良伊須気余理比賣
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紀
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三嶋溝杙姫, 玉櫛媛
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事代主神
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姫蹈鞴五十鈴姫命
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記
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奥津余曾の妹、余曾多本毘賣命
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御真津日子訶恵志泥命
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天押帯日子命 (兄宇迦斯)
大倭帯日子国押人命
(弟宇迦斯)
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紀
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瀛津世襲の妹, 世襲足媛
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観松彦香殖稲天皇 (第5代孝昭)
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天足彦国押人命
日本足彦国押人天皇
(第6代孝安)
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推定
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沙本之大闇見戸賣
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観松彦香殖稲天皇 (第5代孝昭)
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大日本根子彦国牽命
(沙本毘古, 孝元天皇)
佐波遅比賣 (沙本毘賣命)
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孝元天皇 (大日本根子彦国牽天皇) 家系
皇后:欝色謎命
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妃:伊迦賀色許賣
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妃:波邇夜須毘賣
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日子坐王家系
須佐之男命(1)
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大國主神(2)
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事代主神(3)
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大日本根子彦国牽 孝元天皇(4)
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(母)稚日本根子彦大日日(5)
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日子坐王(6)
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AD 130
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AD 160
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AD 190
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AD220
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AD 245
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AD 270
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孝靈天皇から崇神天皇までの31年間 須佐之男命の後孫達は外敵と戰うか, 降伏するかの選擇の岐路に追込まれる. 孝安天皇は逃走, 建波邇安命は抗戰, 大彦命と日子坐王らは降伏を選ぶ. そして大彦命と日子坐王らは外敵の先逢に立って, 抗戰する兄弟らを殺戮したのが建波邇安の反乱の眞相でございます.
古事記と日本書紀を編纂した天皇家が建波邇安命を反逆と規定したのは歷史の皮肉である.
京都市北区にある賀茂別雷神社 (上賀茂神社)の祭神が 建波邇安命であるから 歷史の裏で密かに建波邇安命を祭る. その上, 賀茂御祖神社 (下鴨神社)では 建波邇安命の母 波邇夜須毘賣と毘賣の父, 賀茂建角身命を祭る. しかし普通の人達は上賀茂神社と下鴨神社の祭神の歷史的事實關係を分らない. 古事記は波邇夜須毘賣が河内青玉の娘だとしたが, それは 賀茂建角身命の娘だとするべきである.
この時代, 玖賀耳之御笠討伐がある. AD 265年代, 天日槍は但馬国の出嶋(いづし, 出石神社)を據点として, 270年代 建田背命, 建諸隅命の家門を統合する. 建諸隅命の妹,日葉酢媛命が天日槍の妃になる. 290年代天日槍は山代の國に進出(珠城神社 久世郡久御山町), 山代大國之淵の娘, 苅羽田刀弁と弟苅羽田刀弁を妃にする. 山代大國之淵とは建波邇安王のことのようだ.天日槍と建波邇安王家門が聯合したらしく, 天日槍の名はこの時から玖賀耳之御笠に變わる. AD 300年代玖賀耳之御笠討伐が開始され日子坐王が先逢に立つ. この討伐の結果日子坐王と丹波道主命がAD 318年 まで丹後, 丹波を支配するように なる.
垂仁天皇と皇后 系譜
垂仁天皇 (240 – 302)
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AD 265
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AD 270
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AD 290
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佐波遅比賣命 (狭穂姫命)
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稲城放火 狭穂姫死亡
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伊都都比古
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天之日矛(天日槍)
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但馬国出石神社
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都怒我 阿羅斯等
于斯岐 阿利叱智 干岐
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日葉酢媛命
沼羽田之入毘賣
阿邪美能伊理毘賣
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玖賀耳之御笠
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苅羽田刀弁
弟苅羽田刀弁
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AD 318から362年まで景行天皇, 倭建命, 成務天皇, 仲哀天皇の時代である. 古事記が崇神天皇沒年を戊寅年としたのを受容して AD 318年と決める. 孝靈天皇から崇神天皇までの外勢が掃蕩され, その追從勢力, 卽ち大彦命と日子坐王らが沒落する.
倭建命の熊襲征討, 出雲征討, 東国征討は神話じゃなく討伐戰の激さを物語る. 但し成務と仲哀は同年輩のライバルで血緣の繫がりもない. 成務は近淡海 (志賀高穴穂宮), 仲哀は大和を分離統治するようになったらしい. 古事記に成務天皇は近淡海之志賀高穴穂宮において天下を治めたとするのは景行以來, 倭建命とその後裔が大和を支配するようになったのを意味する.
倭建命の後裔の墓は河內に集まっている. というのは倭建命と景行天皇は血緣關係なんかなかった. ここで神功皇后が創作された架空人物であるんならば應神天皇は誰の子であろうか? 考えて見るべきでございます.
AD 355年頃成務と仲哀間紛爭勃發, 初戰で仲哀敗走, 穴門之國(現在の山口県西部) まで逃走し穴門之豊浦宮で避亂. 成務の追擊は以後5年余り續いて內亂狀態になる.
神功皇后が登場するこの時代, 歷史の添削は甚だしいから誤摩化さないように目を醒ますべきです. 神功皇后は 応神天皇妃, 宮主矢河枝比売をモデルに創作された架空人物である.
AD 360年頃, 応神が現われ, その內戰を終らせる. その間, 宮主矢河枝比売は応神に見付かる. 宇遅能和紀郎子が生れたのはAD 363年とします. 宇遅能和紀郎子, 大鞆和気命, 百濟の枕流(トムル)王は同一人である.
古事記で仲哀天皇が息長帯比売命を娶って生んだ御子は品夜和気命, 次に大鞆和気命, またの名は品陀和気命としたのはうその決定版でこざいます. まず仲哀は息長帯比売の夫でもないし, 息長帯比売が品陀和気命を生んだこともない. 息長帯比売は山代出身で山代は成務の近淡海國の領域であった.
応神天皇は建内宿禰と同時代の人物であるが建内よりも年上である. 建内宿禰は成務天皇と同日生とした. AD 363年大鞆和気命を生んだ息長帯比売は AD 338年頃の生れであると見ていい. 応神天皇はすくなくとも息長帯比売より 18年ほど年上である.
AD 362年基点は古事記が仲哀天皇の歿年としたからです. 時代が變わって近肖古王, 貴須王, 神功皇后, 応神天皇, 宮主矢河枝比売らが當代の人物である. 神功摂政三年 (366) の春正月誉田別皇子を皇太子とした. ここは大鞆和気皇子を皇太子としたとするべきである. 神功五十二年 (372) 七枝刀の記事が現われる. 日本書紀の『神功五十二年』とが 『應神十五年』なんかの記錄は別に意味ないから參考にするたけです.
(表) 泰和四年十一月十六日丙午正陽 造百錬鐵七支刀 出辟百兵 宜供供候王 暢德興福 祖
(裏) 先世以來未有此刀 百濟王 世子奇生 璽書 故爲倭王 旨造 傳示後世
日本書紀応神十五年 百済の王が阿直岐を派遣して良馬二匹を献上した. 阿直岐はまた文献にも詳しかった. そこで太子の菟道稚郎子の師匠とした. 十六年王仁が渡来した. そこで太子の菟道稚郎子の師匠とした.
菟道稚郎子の皇太子 決定に激しく反對する家門の人達の目の前に七枝刀, 卽ち 百濟王の璽書が傳示されたのは AD 372年頃であろう. つづいて百済の王は可愛い孫に御土産で良馬二匹を贈る. また師匠を送る. これを國と國の間の外交關係と把握するのは過ちである.
AD 384年神功皇后の子, 大鞆和気皇子 (百濟名 奇生)が 百濟の枕流(トムル)王に卽位.
AD 394年 品陀天皇 (應神) 亡くなる (甲午年). その喪中 大山守命は父王の決定を拒否し政變を起したから宇遅能和紀郎子が大山守命を殺す.
AD 397年 仁徳天皇が三年空位の後 卽位.
- 終り -
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