2024년 1월 1일 월요일

123. 大雀命と襲津彦の惡緣


応神天皇系譜の中, 速総別命の母系家門とそして息長帶比賣命(宮主宅媛)の家門が共に仁徳天皇を逐出し速総別命を卽位させるつもりで働いた反逆事件があったと考えられる. いわゆる速総別命の反逆である. 宮主矢河枝比売(息長帶比賣命)と糸井比売 家門が速総別命を押したようだ.

速総別命の母, 糸井比売は味師内宿禰(=木羅斤資)の妹だったので葛城襲津彦(木羅斤資の子)が反逆を主導したらしい. 天皇逐出の爲めの反逆事件を記錄したくなかったので政治的色彩を持たないように磐之媛(石之日売)皇后の嫉妬を强調し葛城襲津彦關聯記錄を脚色したと見える.  

応神天皇系譜

古事記

日本書紀

中日売     品陀真若ホムダノマワカ王の娘

木之荒田郎女

大雀オホサザキ命

根鳥ネトリ命

仲姫〔ナカツヒメ〕を皇后

荒田〔アラタ〕皇女

大鷦鷯〔オホサザキ〕天皇 (第四子)

根鳥〔ネトリ〕皇子

宮主矢河枝比売    丸邇の比布礼能意富美の娘

宇遅能和紀郎子

八田若郎女

女鳥メドリ王

宮主宅媛〔ミヤヌシヤカヒメ〕妃  日触使主の娘

菟道稚郎子〔ウヂノワキイラツコ〕皇子

矢田〔ヤタ〕皇女

雌鳥〔メトリ〕皇女

糸井比売   櫻井田部連の祖である嶋垂根の娘

速総別ハヤブサワケ命  (大鷦鷯の弟)

男鋤〔ヲサヒ〕の妹の糸媛〔イトヒメ〕

隼総別〔ハヤブサワケ〕皇子   (大鷦鷯の兄)

速総別王の反逆

速総別王の反逆 (古事記)

隼別皇子と雌鳥皇女 (日本書紀)

その将軍の山部大楯連は、その女鳥王が手に巻いていた玉釧を奪って自分の妻に与えた。

そして大楯連の妻は、その王の玉釧を自分の手に巻いて参列した。そして大后の石之日売命は、自ら大御酒柏を取り、それぞれの氏族の女たちに与えた。すると大后はその玉釧を見知っており、御酒柏を与えずに退席させ、その夫の大楯連を呼び出し、「その王たちは無礼であったから退けたのだ。これに他の意味はなかったはずだ。おまえという奴は、自分の主君が手に巻いていた玉釧を、肌が温かいうちに剥ぎ取って来て自分の妻に与えたのか」と言って、死刑に処したのである。

仁徳40年天皇は吉備の品遅部の雄鮒:ヲフナと播磨の佐伯直の阿俄能胡:アガノコを派遣し、「追いついたらただちに殺せ」と命じた。その時、近江の山君:やまのきみの稚守山:ワカモリヤマの妻と、采女の磐坂媛の二人が、腕に見事な宝石を巻いていた。「佐伯直:さへきのあたひの阿俄能胡の妻からいただきました」と答えた。それで阿俄能胡を詰問すると、あっさりと白状したが、「死罪だけは赦してほしい」と嘆願したので、死罪のかわりに領地を没収した。

この話しはAD400年頃の出來事である. 古事記と日本書紀の內容は異なるように見えますが兩方共反逆の荷担者を指すようです.

大雀命は襲津彦より10年位年上ですが二人の運命は惡緣だったと思われます. 古事記も日本書紀も本當の話をしていない速総別王の反逆の歷史を探して見ましょう. 429年(雄略二年とは誤まり)石河股合(石川)で石川楯と池津媛處刑, 485年山部連になった伊予来目部の小楯が出るから山部大楯連とは小楯の祖父に當るそうです. ここで池津媛と

は百濟久爾辛王母を指す.


小楯(別名 磐楯)は播磨国で億計(仁賢天皇)と弘計 (顕宗天皇)とを発見した功績で顕宗治世元年(485) 山官の役を賜って、姓を改め山部連となった. 功を褒めて名誉を顕わし、恩に報い厚遇した。寵愛を受け、その富は並ぶ者がないほどであった.

485年山部連となった小楯という名前は 487年記事で突然紀の小弓宿禰に変って現われる.

将軍の山部大楯連 360-

=襲津彦

石川楯 382 - 429

=木満致

伊予来目部の小楯410 -

=紀の小弓宿禰

的臣の蚊嶋440 - 491

=紀の生磐宿禰

山部大楯連とは葛城襲津彦のことです. すると吉備の品遅部の雄鮒と播磨の佐伯直の阿俄能胡は誰でしょう. 古事記開化天皇条に日子坐王系譜の中, 息長帶比賣命(神功皇后)が出てきます.

息長宿禰王310 =大筒木眞若王

=丸邇の比布礼能意富美(父)

息長帯比賣命

虚空津比売命(小瓶媛)

迦具夜比売命320 (垂仁天皇 后妃 不可) 大筒木垂根王(倭建命)の娘(母)

息長日子王340 = 袁邪弁〔ヲザベ〕王

(吉備品遅君, 針間阿宗君の祖)

このころ大筒木で次のような三人の有名人が現れてこの三人は後裔までも共に働くようになる.

比古由牟須美命270

大筒木垂根王300

=倭建命

稲依別王320

=応神天皇

日子坐王270

大筒木真若王310

=比布礼能意富美

息長帯比売340

=宮主矢河枝比売

宇遅能和紀郎子360

=枕流(とむる)王

比古布都押之信命265

屋主忍男武雄心命300

味師内宿禰330

=木羅斤資=斯摩宿禰

山代内臣の祖

葛城曾都毘古360

=開中費直, 木滿致は曾都毘古の子

比古由牟須美命家での五柱の娘達はあとで応神天皇の妃になります.

竹野比賣

250-

比古由牟須美命

270-

大筒木垂根王

=倭建命300-

迦具夜比賣

320-

袁邪弁王340-

二柱の娘

讃岐垂根王

=品陀真若王300-

三柱の娘330

神功皇后とは架空の人物ですがそのモデルになったのは宮主矢河枝比売でした. 宮主矢河枝比売の母は倭建命(大筒木垂根王)の娘, 迦具夜比売命でございます. 神功皇后が百濟の近肖古王, 貴須王時代に登場するのを覺えて下さい. 丸邇の比布礼能意富美は百濟の近肖古王の近臣だったでしょう.  

息長帶比賣命家系

日子坐王280

息長宿禰王310

=大筒木眞若王

=丸邇の比布礼能意富美

息長帶比賣340

=宮主宅媛

菟道稚郎子(361-422)

矢田皇女(仁德妃)

雌鳥皇女

虛空津比賣340

=袁那弁郎女

菟道稚郎姫

息長日子王340

=袁邪弁王, 吉備品遅君, 針間阿宗君の祖

吉備の品遅部の雄鮒,播磨の佐伯直の阿俄能胡370

速総別命の母, 糸井比売は桜井田部連の祖である嶋垂根の娘としていますが桜井田部連の祖である嶋垂根についてなにも分らない. 速総別命が350年代の人であるので糸井比売は330年代, 嶋垂根は300年代と見ていいでしょう.

古事記

日本書紀

糸井比売   桜井田部連の祖である嶋垂根の娘

速総別ハヤブサワケ命  (大鷦鷯の弟)

男鋤〔ヲサヒ〕の妹の糸媛〔イトヒメ〕

隼総別〔ハヤブサワケ〕皇子   (大鷦鷯の兄)

桜井田部連の祖である嶋垂根とは屋主忍男武雄心命のことで倭建命と同時代の人物です. 記紀は全貌を知られないように必要なら匿名をなんかいも使う.

嶋垂根300

=屋主忍男武雄心命

糸井比売330

速総別命350-400

男鋤330

=味師内宿禰

=木羅斤資

=斯摩宿禰

磐之媛360仁德妃

=怒能伊呂比賣

履中天皇380

襲津彦 360-400

=歯田根

=山部大楯

木滿致 382-429

=石川楯

=盾人宿禰

速総別王の反逆グループの構成

速総別王母 糸井比売系

息長帶比賣家門

山部大楯

矢田皇女, 雌鳥皇女

磐之媛

吉備の品遅部の雄鮒

播磨の佐伯直の阿俄能胡

書紀の紀年は次のようですが仁德天皇在位は397 - 418年位です. 次の紀年の先後は確りしない. 反逆事件が先で荷担者が處刑され, 磐之媛が自決,  八田皇女が皇后になるのが合理的と見える.

神功六十四年(384)百済の貴須王が亡くなった。王子の枕流(トムル)王(在位384-385)が即位した.

神功六十五年(385)百済の枕流〔トムル〕王が亡くなった。王子の阿花は年少であり、叔父の辰斯(第16代:在位385~392)が王位を奪って即位した.

神功六十九年(389)の夏四月 皇太后が稚桜宮〔わかさくらのみや〕で亡くなられた.

仁徳三十五年の夏六月 皇后の磐之媛:イハノヒメ命が筒城の屋敷で亡くなられた.

仁徳三十八年の春正月 八田皇女を新たに皇后(正妻)と定めた.

仁徳四十年の春二月 隼別皇子と雌鳥皇女 (速総別王の反逆)


磐之媛(石之日売)皇后は380年頃大兄去来穂別天皇(履中)を生んだ. すると履中天皇の母は360年代の生れでしょう. 時代を確かにするために仁德天皇から斯麻王までの系譜を參考して下さい.

磐之媛(履中母)

履中天皇

市辺之忍歯王

飯豊郎女(斯麻母)

斯麻王

AD360年代

AD380年代

AD410年代

AD440年代

AD461

古事記 応神天皇 后妃と御子に葛城之野伊呂売がありますが建内宿禰系譜の怒能伊呂比賣と同じ人です. この怒能伊呂比賣こそ仁德天皇 皇后 磐之媛命で味師内宿禰の娘でございます.

味師内宿禰330

怒能伊呂比賣360

履中天皇380-

履中天皇母磐之媛命を襲津彦の娘とした記錄は意図的改ざんである. 記紀は襲津彦の父と子の系譜がばれないように務めた. 葛城襲津彦と磐之媛は360年代の生れで兄妹の間です. 襲津彦についてはいろんな改ざんがなされているので注意すべきです.

味師内宿禰=木羅斤資

330年代

葛城襲津彦

360年代-400

木満致

382-429


味師内宿禰, 葛城襲津彦, 木滿致の三代は百濟の官人だった.

応神天皇の皇子で7歲位い年上の大雀命に菟道稚郎子は夜天に輝く星のような存在であったに違いない. 摂政で権力を握った神功皇后は大雀命が皇太子 宇遅能和紀郎子の邪魔にならないよう大雀命を牽制したでしょう. 百済の皇太子で倭王でもある宇遅能和紀郎子と大雀命は格が違う身分であった.

神功皇后は大雀命が矢田皇女と雌鳥皇女の夫になる可能性を全く考えていなかったでしょう. 389年頃息長帶比賣命(宮主宅媛)が死に394年応神天皇も死んだ. そして397年大雀命が卽位する. 神功皇后の威勢に抑えられて來た大雀命も欲しかったら矢田皇女でも雌鳥皇女でも手に入れる立場になった.

363 年

365年

368 年

倭王元年

372年

383年

倭王16年

384年

菟道稚郎子

362-

神功摂政元年 1歲

百濟皇太子

3歲

世子奇生 璽書 故爲倭王

七枝刀傳來

10歲

乎鞆王在意柴沙加宮

枕流〔トムル〕王卽位

矢田皇女

3歲

7歲

18歲

19歲

雌鳥皇女

4歲

14歲

15歲

大雀命

8歲

10歲

13歲

17歲

28歲

29歲

神功62年(382) 沙至比跪は新羅美女2人に魅惑されて婚姻したらしい. この2人から産れた子達は代代孫孫 反百濟 親新羅路線をたどる戰士になった.  百濟の官人でもあったこの後裔達は461年星川の乱, 487年爾林の役, 529年安羅會議, 548年馬津城の役, 554年聖明王の死にも絡んでいるでしょう.  

神功62年

382年に倭国は沙至比跪(さちひこ)を遣わして新羅を討たせようとしたが、新羅は美女2人に迎えさせて沙至比跪を騙し、惑わされた沙至比跪はかえって加羅を討ってしまった. 百済に逃げた加羅王家 は天皇に直訴し、怒った天皇は木羅斤資を遣わして沙至比跪を攻めさせたという.


491年仁賢天皇四年の夏五月 的臣の蚊嶋〔カシマ〕と穂瓮君〔ホヘノキミ〕が罪を犯して獄死したと書紀は記錄した. 487年爾林の役で生きて來た紀生磐宿裲 と小鹿火宿禰が處刑されたとの意味です.

そして大伴談連が主導した爾林の役參加者は全員 戰死, 病死, 獄死で終わった. 487年爾林で紀岡前来目連(小根使主, 那奇他甲背)と大伴の談連(任那の佐魯)が戰死した. 日本書紀は同じ記事を雄略九年(?)と顕宗三年(487)に揭載した.  

雄略 九年?

大伴談連と紀岡前久目連は むなしく戦死した.

顕宗 三年

487

(爾林の役) 百済は 佐魯(=大伴談連)、那奇他甲背(=紀岡前来目連=小根使主)ら三百人を殺した.

大伴家系

AD 400 - 460年代

430 年代- 487

460 – 520年代

490 年代 -

大伴連室屋

大伴談連

= 佐魯

大伴金村大連

大伴狭手彦

=佐魯麻都大連

葛城襲津彦家系

360

380

410

450

480

510

葛城襲津彦360

歯田根

山部の大楯連

木満致380

=石川楯

伊予来目部

小楯410

=紀小弓宿禰

的臣の蚊嶋

=紀生磐宿裲

440-491下獄死

烏胡跛臣

紀小弓宿禰

紀生磐宿裲

加不至費直

小鹿火宿禰

穂瓮君

=小鹿火宿禰440-491下獄死

根使主420-461

城丘前来目者

(星川の乱処刑461)

小根使主450

那干陀甲背

紀岡前来目連

河內三野縣主

(爾林の役戰死487)

近江の毛野臣

加猟直岐甲背

鷹奇岐弥

(ようがきみ)

為哥可君

(安羅會議529)

阿賢移那斯(賢那) 延那斯

近江の毛野の若殿

円大臣 390-456

安康暗殺

韓媛

玉田宿禰390

毛媛420-461

吉備臣

葦田宿禰390

蟻臣390

荑媛420

黒媛(履中天皇妃)390

市辺押磐皇子

+荑媛420

飯豊皇女440

(斯麻王母)

斯麻王461

聖明王500



おわり

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