古事記と日本書紀の記錄の中で合理的情報たけ選んで建内宿禰の年齡を窺って見ましょう.
まず神武から仁徳までの倭古代史の全體的流れを整える. 下のように6個のクルプに分けて長い時間軸の上で歷史の流れ を見たら新しい歷史理解の地平が開かれる.全體として時間的整合性を確保しなければならない. (96. 日本古代史の流れ (神武から仁徳まで) 參照)
倭古代史の流れ (神武から仁徳まで)
神武天皇
正始六年詔賜倭難升米黄幢付郡假授
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開化天皇
孝安天皇
立卑彌呼宗女壹與年十三爲王
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孝靈天皇
崇神天皇
建波邇安王の反逆
玖賀耳之御笠討伐
四道将軍
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景行天皇
倭建命
成務天皇( -355)
仲哀天皇( -362)
建内宿禰
東国征討
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近肖古王
貴須王
神功皇后
応神天皇
宮主矢河枝比売
七支刀(372)
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枕流(トムル)王
大鞆和気命
宇遅能和紀郎子
応神死亡(-394)
仁徳天皇(-418)
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AD 245
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AD 256
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AD 287 丁未年
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AD 318戊寅年
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AD 362壬戌年
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AD 384
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建内宿禰は第四クルプのある時点で産まれ,
第六クルプを越えて仁徳治世のある時点まで生きた人物である. 古事記は成務天皇が乙卯年 (355), 仲哀天皇壬戌年 ( 362) 亡くなられたとした.
日本書紀 応神三年 百済で辰斯王(在位:385~392)が即位した。貴国の天皇に対して禮を失した。そこで紀角宿禰、羽田矢代宿禰、石川宿禰、木菟宿禰を派遣し、その外交姿勢を責めさせると、百済の国人は辰斯王を殺して謝罪した。紀角宿禰たちは阿花(阿莘王。在位:392~405)を即位させて帰還した。
建内宿禰の子四人が登場するこの記事は 392年の出來事である.
大體この四人が平均して四十代の歲だとすれば,
352年頃の産れと見て差支えない. 建内宿禰が25歲頃から子を産んだとすれば建内宿禰は327年頃産れとなります.
日本書紀 仁徳天皇元年条に応神天皇の子の大鷦鷯尊と武内宿禰の子の平群木菟宿禰とは同日に生まれた。その際、応神の子の産殿には木菟(つく)が、武内宿禰の子の産屋には鷦鷯(さざき)がそれぞれ飛び込んだので、その鳥の名を交換して各々の子に名付けたとある.
仁徳天皇と平群木菟宿禰は産れた年月日が同じと思われる.
すると仁徳天皇は武内宿禰より 25 - 30年ほど後代の人物で,
応神天皇と建内宿禰は同世代の人間だったと思われる.
200年餘りの建内宿禰の系譜は下のようになる.
AD 130
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AD160
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AD190
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AD220
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AD260
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AD295
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AD327頃
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須佐之男命
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大國主神
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事代主神
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孝元天皇
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彦太忍信命
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忍男武雄心命
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武内宿禰
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すると建内宿禰の歿年はいつのことでしょうか?
それを調ぺるために仁徳50年の記事に注目して下さい.
仁徳五十年の春三月。河内の人が、「茨田堤に雁が卵を産みました」報告した。天皇はその日のうちに使者を派遣して
確認させると、長老の武内宿禰に歌で尋ねた.
魂をすり減らしてまで宮中に仕えた長老よ。あなたこそは世の中の長老だ。トンボの飛び交う倭国で、雁が卵を産んだと、聞いたことはあるか。
武内宿禰も歌で答えた。
安らかに天下をお治めになる大王よ。ごもっとも、わしに尋ねたのはごもっともですぞ。ですが、トンボの飛び交う倭国で、雁が卵を産んだと聞いたことは、ありませんぞ。
景行14年とが 仁徳50年などの年代は別に意味無い.
仁徳と建内のこの對話はいつの時代像を反映するかがボイントである.
主觀的見解から放れて考えて欲しい. 仁徳天皇は397年卽位して間もないうちに高句麗との戰爭に卷こまれた.
以下 (99. 信じ難い歷史の展開)から拔萃
“永楽6年(AD 396)に、高句麗王(廣開土王)が自ら大軍を率いて百済軍を討伐した。 王(広開土王)は「壹八城」以下58城を攻撃したが、百済は正義の高句麗に屈服しないばかりか戦いを挑んで来た。王は激怒し、漢江を渡って先鋒部隊を百済の王都に迫らせた。(これを見た百済軍は恐れおののいて) 百済の王都に逃げ帰った。
そうして百済王(阿莘王)は困り果てて、 男女の奴隷千人、 上質の布千匹を差し出し、 王(廣開土王)の前に跪いてこれからは 永遠に王(廣開土王)の臣下になりますと誓った。 王(廣開土王)は先に迷っての過ち (「百済」が「高句麗」に叛いて「倭」と同盟したこと)を許し、
王は 58城、村700を奪い、残主の弟および大臣10人を 人質にして都に帰った。(好太王碑文)
阿莘王が王(廣開土王)に差し出した残主の弟および大臣10人の中には阿莘王の公主, 忍坂之大中津比売命も含まれていた.
公主のお歲ただ四つにすぎなかった頃である. 阿莘王が24才であったから娘も幼ない.
廣開土王は大中津比売命を大事に育てて後で自分の子のお嫁にしたらしい. 大中津比売命を嫁にした王子の名は珍, 高珍であって宋書に出る倭の五王の一人である.
広開土王 永楽14年 (AD 404) 不法にも「倭軍」は「百済」と共に帯方界にまで侵攻し「石城」にまでやって来た。「倭軍」は船を連ねて侵攻して来たのである。(この知らせを聞いて)(広開土王)が自ら軍を率いて平壌から出陣した。先鋒部隊が「倭軍」らと遭遇し、「高句麗軍」は王の旗印を翻して侵略者「倭軍」(倭寇)と戦い、これを壊滅させた。惨殺したもの無数に上ったのである.
(好太王碑文)
永楽17年 (407) 王(広開土王)は歩兵・騎兵5万を遣わし、(倭軍)の討伐に向わせた。(倭軍)との戦いは、相手を総て斬り尽くし、捕獲した鎧は1万余領、軍用物資・兵器は数知れなかった。帰還の途中、沙□城婁城□留城など多くの城をも攻め立て破壊した. (好太王碑文)”
仁徳五十年の仁徳天皇と武内宿禰の記事は當時高句麗が倭國の討伐にまで戰線を擴大したと判斷する切っ掛けになる. なぜかすると雁は渡り鳥である. 北方地域の鳥の出現は高句麗軍が列島討伐に現れたとのことでしょうね. また韓國語で雁の音讀は安と同じである. 高安という人をご存じですか? 高安とは廣開土王の名前でございます.
雁と安の音讀みで隱し ながら高句麗軍の列島出現について仁徳天皇と武内宿禰が對話しているのが仁徳五十年の記事ではないでしょうか.
古事記 仁徳条の終りに7) 枯野の船というのがある. この御世 兔寸河(とのきかは)の西に一本の高い樹があった。その樹の影は、朝日に当たれば淡道嶋に届き、夕日に当たれば高安山を越えた……ここで高安山が出るのは偶然であろうか.
信じられないでしょうね. 九州と瀨戶內のあちこちで神籠石とよばれる山城が發見される. いつ誰が築造したか 分らない
という. 神籠石はこの時代高句麗軍が築造した山城でございます. 天皇家の萬世一系をドグマ
(dogma)にして編纂された古事記と日本書紀に慣れた人の目に神籠石は見えない. 唯謎ばかりが見えるだけ.
410年頃 高句麗軍は九州北部地域を占領し福岡縣久留米市を據占とした. 412年広開土王死去, 414年好太王碑が 建立 された. 417年頃王子高珍が久留米市の高良山に陣取った. 高良大社で祭る玉垂命 (たまたれのみこと) こそ王子高珍を さすことを知っている人は少ない.
仁徳五十年の雁についての對話は410年頃 高句麗軍の九州北部地域占領と繫がっている. 建内宿禰はそれから間もないうちになくなったでしょうね. するとAD327年頃産れで, 410年頃歿, 建内宿禰の年齡は83歲になる.
武内宿禰一生 (327 – 410, 83歲)
武内宿禰
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武内宿禰
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武内宿禰
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武内宿禰
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武内宿禰
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AD 327 出生
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AD 344
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AD 362
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AD 397
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AD 410頃 死亡推定
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景行天皇
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成務天皇(仲哀)
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應神(神功攝政)
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仁德天皇
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仁德天皇
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追記: 仁德天皇(352頃- 418頃)は418年頃, 高句麗軍と淡路嶋で接戰中死亡した. (日本書紀允恭十四年記事參照)
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おわり -
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댓글 1개:
늘 좋은 자료 감사합니다
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