2026년 1월 2일 금요일

126. 神功皇后は実在したか

 


『古事記』の息長帯比売命、 『日本書紀』の気長足姫尊は実在したか、 又は歷史書著者たちの作り話か. 神功皇后当代働いた人達は神功皇后の存在を分かっていたのでしょうか. 『古事記』と『日本書紀』の中には事实もあれば嘘もある. 系譜と年代を無視した記錄もおおい.  ひとりの人に匿名を使ってふたり又は三人に見えるよう架空した場合もある. ありのまま記錄すると天皇制に惡いと思われた反逆事件などは系譜と年代を無視又は匿名を使って后世の人が分からないように騙す.  葛城襲津彦はどうして武內宿禰の子になってしまったのか.


味師内宿禰330-

=木羅斤資

=斯摩宿禰

=男鋤

山代内臣の祖

葛城襲津彦360-400

=開中費直

=歯田根

=山部大楯

木滿致 382-429

=石川楯

=盾人宿禰

伊予来目部の小楯410 - 487

=紀の小弓宿禰

紀の生磐宿禰

440 - 491

=的臣の蚊嶋


磐之媛(仁德妃)360

=怒能伊呂比賣





宇遅能和紀郎子の長子 反正天皇と衣通郎姫が420年頃, 財皇女を産んだ. 440年頃財皇女は木梨軽皇子妃になって眉輪王が生まれる. 安康天皇が皇后と定めたのは木梨軽皇子妃財皇女であった. 記紀と異なる話ですが勘弁してください.. 


倭建命

295-375

応神天皇

325-394

宇遅能和紀郎子

=鮒魚磯別王362-

フナシワケノキミ

反正天皇390-

=瑞歯別(讚)

=鷲住王ワシスミノキミ

財(タカラ)皇女

(衣通郎姫の娘)

(木梨軽皇子妃)




太姫郎姫(履中妃)





高鶴郎姫(履中妃)



仁徳天皇は次の二人の皇女を若沼毛二俣王の御子意富富杼王(大郎子)に嫁がせたようです. 中斯知命とは履中天皇とその妃, 幡梭皇女(應神皇女)との間に生まれた書紀の中磯皇女のことで叔父大草香皇子と結婚して眉輪王を生んだとしたのは噓である. 安康紀 雄略即位前紀には中蒂姫になっている中斯知命は意富富杼王に嫁いて乎非王を生んだ. この乎非王こそ百濟20代毗有王のことです.

草香幡梭皇女=八須夫人 390-

久爾辛王母 (久爾辛王: 百濟第19代王) 池津媛

中斯知命=中蒂姫=中磯皇女390-

乎非王母 (毗有王: 百濟第20代王)


456年安康天皇は眉輪王によって殺害された. 眉輪王は木梨軽皇子と財(タカラ)皇女の所生である. 『古事記』と『日本書紀』はこのあたりで遂分亂れている. 雄略天皇は425年頃生れですので390年代の仁德天皇皇女(幡梭皇女)との婚姻はあり得ない. 


應神天皇325-394

若沼毛二俣王370-?

意富富杼王391-432

乎非王412-455


歷史的個人だれでも父と30年位い, 100年で約3代位いあるから系譜をはっきりしたら年代は確認できる.  神功皇后(成務天皇40年 - 神功皇后69年)は、日本の第14代仲哀天皇の皇后。夫の仲哀天皇の崩御から息子の応神天皇即位まで初めての摂政として約70年間統治したとされる(在任:神功元年 - 神功69年). 


362.2

仲哀天皇が筑紫の橿日の屋敷で亡くなった,  古事記は壬戌年(362)崩御とする.

362.12

皇后は筑紫で誉田天皇を生んだ

363.10

豪族たちは皇后を皇太后(天皇の母)と呼ぶことにした. これを摂政の元年とする.

365 (神功三年)

誉田別皇子を皇太子(後継ぎ)とした

366

斯摩宿禰を卓淳国に派遣した

368 (倭王元年)

世子奇生 璽書 故爲倭王 旨造 傳示後世

369.11.16

泰和四年十一月十六日丙午正陽造百錬鐵七支刀

372.9

久低たちが千熊長彦とともにやって来た. そして七枝刀、七子鏡等様々な宝物を献上

375 (神功十三年)

武内宿禰に命じ、太子に角鹿の笥飯〔けひ〕大神を参拝させた。古事記に拠ると、その地に鎮座する伊奢沙和気大神之命が夜の夢に現れて、「私の名を御子の御名と換たいと思う」と言った。そこで祝福して、「畏まりました。お言葉の通りに換えて奉まつりましょう」と申し上げた. そういうわけで太子の御名は誉田別になった. 

383 (16倭王年)

隅田八幡神社人物画像鏡 (癸未年八月日十六王年乎鞆王在意柴沙加宮時)

384

百済の貴須王が亡くなった. 枕流〔トムル〕王卽位

389

皇太后が稚桜宮で亡くなられた. 皇太后を称えて気長足姫尊の尊号を贈った.


応神天皇は383年まで百済にいたから倭に摂政が要るのです.  神功皇后が仲哀天皇の皇后で応神天皇の母親だったという歷史は事实をいっているのか. 『古事記』と『日本書紀』にあるから事实とは限りません. 


仲哀天皇の系譜は次のようで、仲哀天皇, 成務天皇, 武內宿禰は同年輩です. 倭建命は景行天皇の皇子じゃなく比古由牟須美命の皇子である. 仲哀天皇は倭建命の皇子で稲依別王(325-394)という兄がいる. 稲依別王と誉田天皇は応神天皇の名前で神功皇后が仲哀天皇の皇后というのは歷史書著者たちの作り話です. 


日子国意祁都命

比古由牟須美命

倭建命 295-375

仲哀天皇330-362

???応神天皇362-


応神天皇と仲哀天皇は兄弟だったので系譜は次のようです. 


比古由牟須美命

=百濟11代比流王

倭建命 295-375

=近肖古王

応神天皇325-394

=貴須王

大鞆和気命362-

=枕流(トムル)王



仲哀天皇330-362



人なら誰でも壽命あって系譜と年代で話す. ここで応神天皇が362年生れたというのは言葉にできない. 362年に生れたのは宮主矢河枝比売の子とされる宇遅能和紀郎子 (大鞆和気命, 枕流(トムル)王) である. 


日子国意祁都命

比古由牟須美命

倭建命295-375

応神天皇325-394

+宮主矢河枝比売(息長帯比売)

宇遅能和紀郎子

=大鞆和気命

(362-?)


古事記開化天皇条に大筒木垂根王, 讃岐垂根王の娘に五柱がいたとの記錄がある. 比古由牟須美王の子は大筒木垂根王, 次に讃岐垂根王の二王と匿名を用いるのは後代の人が分らないように望んだ証拠です. 


この天皇が旦波之大県主、名は由碁理の娘、竹野比賣を娶って生んだ御子は比古由牟須美命. その兄の比古由牟須美王の子は大筒木垂根王, 次に讃岐垂根王. 二王. この二王の娘に五柱がいた.


系譜に年代を入れると次のようです. 比古由牟須美命は295年頃山代の筒木で倭建命の双子を生んだ. そのあと四國の讃岐にいって志理都紀斗売と會う. 志理都紀斗売は建伊那陀宿禰の娘とするが建諸隅命の娘とした方が整合性がある. 建諸隅命は天日槍に敗けて建諸隅命の家門は危機に落ちる. 比古由牟須美命は300年頃讃岐垂根王を生んだ. 讃岐垂根王の名前が品陀真若王, 彼が三柱の娘の父である. 品陀真若王に絡む社跡が徳島県名西郡石井町石井石井にある. 倭建命の后继者応神天皇は五柱の娘らを妃に迎えた.   


竹野比賣

250-

比古由牟須美命

270-

大筒木垂根王

=倭建命300-

迦具夜比賣

320-

袁邪弁王340-

二柱の娘



讃岐垂根王

=品陀真若王300-


三柱の娘330

 

比古由牟須美命の後孫 五人の娘

比古由牟須美命

270-344

倭建命295-375

布多遅比売(意富多牟和気の娘)

応神天皇325-394

=稲依別王



倭建命

布多遅能伊理毘売命

(伊玖米天皇=天之日矛の娘)

迦具夜比賣命


宮主矢河枝比売

袁那弁郎女


品陀真若王


高木之入日売

中日売命

弟日売命


宮主矢河枝比売 (息長帯比売) の父母

比古由牟須美命270

阿邪美都比賣

大筒木垂根王300

=倭建命 300

迦具夜比賣命(母)320-


宮主矢河枝比売340-

袁那弁郎女

袁邪弁王

日子坐王270

比布礼能意富美(父) 

=息長宿禰王310

=大筒木真若王


息長帯比売340-389

虛空津比売

息長日子王


日子坐王から始まる比布礼能意富美の系譜はずいぶん乱れている. 卑彌呼, 宋書の倭の五王 (興珍讚濟武), 隋書倭國傳の多利思比孤の記事が日本歷史書にないのは后世の人達が知らぬように務めたわけでしょう. 


倭古代史の流れ (神武から仁徳まで)

神武天皇

正始六年詔賜倭難升米黄幢付郡假授


天押帯日子命

(神武東征中死亡)

開化天皇

孝安天皇

立卑彌呼宗女壹與年十三爲王


日子国意祁都命

孝靈天皇

崇神天皇

建波邇安王の反逆

玖賀耳之御笠討伐

四道将軍

比古由牟須美命

景行天皇

倭建命

=近肖古王

建内宿禰

東国征討

貴須王

=応神天皇

成務天皇( -355)

仲哀天皇( -362)

神功皇后(?-389)

宮主矢河枝比売

七支刀(372)

枕流(トムル)王

大鞆和気命

宇遅能和紀郎

応神死亡(394)

仁徳天皇

AD 245

AD 256

AD 287 丁未年

AD 318戊寅年

AD 362壬戌年

AD 384


隅田八幡神社人物画像鏡に出る王名は男弟王じゃなく乎鞆王(オトモノオホキミ)である. 大鞆和気命がそのひとで 銘文は革と丙に分けて革だけ使ったものです. 


隅田八幡神社人物画像鏡銘文は “癸未年八月日十六王年 / 乎鞆王在意柴沙加宮時 / 斯麻念長寿遣開中費直 / 穢人今州利二人等取白 / 上同二百旱作此竟”です. 問題になる四つの解釋は次のようです.  斯麻宿禰とは木羅斤資のことで曾都毘古と父子関係である. 


癸未年十六王年

乎革(丙)王

斯麻(宿禰)

開中費直

383年

大鞆和気命

木羅斤資

葛城曾都毘古


372年七枝刀が倭に到着し家門の人達の目の前に傳示された. 宇遅能和紀郎子の百濟皇太子及び倭王任命を反對する年上の皇子達を抑える方便であった.  365年世子奇生(宇遅能和紀郎子)が百濟皇太子,  368年倭王にもなったから倭王元年ともかぞえる. 七枝刀の銘紋は次の通り. 


(表) 泰和四年十一月十六日丙午正陽造百錬鐵七支刀出辟百兵宜供供候王暢德興福祖

(裏) 先世以來未有此刀 百濟王  世子奇生 璽書 故爲倭王 旨造 傳示後世


倭建命(295-375)には迦具夜比賣命(320- ?)という娘がいた. 大筒木で生れた丸邇の比布礼能意富美(310-380頃)は迦具夜比賣命の夫になって倭建命の側で働いた. 三國史記百濟本紀近仇首王二年(376年) 以王舅眞高道爲內臣佐平 委以政事とあります. 丸邇氏は百済で眞氏と名乘る. 宮主矢河枝比売の主宰で比布礼能意富美夫婦の墓は富雄丸山に築造された.


383年斯麻宿禰は隅田八幡神社人物画像鏡を近仇首王に奉る. そして枕流(とむる)王に讓位, 近仇首王(応神天皇)は倭に帰る. “斯麻念長寿”とは宮主矢河枝比売の余命わずかなことをいう. 宮主矢河枝比売の墓も遠くない處にあるはずです.   


394年応神天皇死亡時宇遅能和紀郎子が參禮した. すでに33歲の年である. 父親の墓が造られる間, 彼には又母親,  宮主矢河枝比売の墓を造らなければならなかった. 富雄丸山古墳が見え、又遠く故郷が見えるところに母親を埋葬した. 若草山頂 鶯塚古墳 (うぐいすづかこふん) で今日も父母の墓と故郷を眺めている. 


おわり