2025년 2월 15일 토요일

125. 富雄丸山古墳の被葬者は誰




富雄丸山古墳(とみおまるやまこふん)は、奈良市丸山にある古墳. 4世紀後半 (古墳時代前期後半)に築造された直径109mの造出し付円墳である. 円墳としては全国で最大規模の古墳という.





明治時代  墳頂部での盗掘により副葬品多数の出土品が 1957年伝出土品として国の重要文化財に指定され京都国立博物館保管になった. . 奈良文化財硏究所は2017年第1次発掘調査から2024年第7次発掘調査まで行った. 


令和4年(2022)度の第6次調査で造出し上段から未盗掘の粘土槨(ねんどかく)を確認し、南西側の被覆粘土中から古代東アジア最大の鉄剣である長さ237cmの蛇行剣(だこうけん)と類例のない鼉龍文盾形銅鏡(だりゅうもんたてがたどうきょう, 長さ約64cm 幅約31cm)が出土した。令和5年(2023)度の第7次調査では北東側被覆粘土の構造を明らかにするところから調査を開始し、良好に残る割竹形木棺の存在を2月6日に報道発表した.


237cmの国内最大の蛇行剣と過去に類例の無い古墳時代金屬工藝最高傑作, 鼉龍文盾形銅鏡は4世紀の倭の鑄造技術を表わすので謎に包まれた4世紀のヤマト王権を知る重要な発見であった.  "空白の4世紀"の解明なるか? その疑問は被葬者を誰か捜すことから始まる.  




4世紀の被葬者を捜すのに必要なのは古事記と日本書紀でしょう. ここで問題になるのはこの歷史書は事実をいうかどうかの判断です. あなたは古事記と日本書紀は一字一劃聖なる歷史書であると信じていますか? そうだったらあなたは富雄丸山古墳の被葬者を捜す資格がないと言われます.  


古事記と日本書紀には三つの執着ポイントがあります.  そして事実よりイデオロギ- の方が重要ですのでたまには人達が分らないように情報を滅茶苦茶に記錄したのも多い. またイデオロギ- のためなら人を騙してもいい. 

  1. 萬世一系の日本皇室という迷信
  2. 百濟との関連性を否認
  3. 中国史書內容との不一致

日本の天皇になった人達にはいろんな血統の人がいる. 孝靈, 崇神, 垂仁, 允恭, 安康, 雄略の血統は異なる. 

それなのに萬世一系に造るためどのぐらいの嘘がいると思う? 百済と倭の関係を否認するにはどのぐらいの改ざんが必要でしょうか? 4世紀倭の五王はどうして古事記と日本書紀に出ない? 多利思比孤を秘するにはどんな造作がなされたか?......


古事記と日本書紀には事実も造作も混じっている.  あなたは<“應神天皇は仲哀天皇の兄”は事実,“應神天皇は仲哀天皇の子”というのは造作>であることをご尊じですか? 神功皇后は存在したことのない架空の記錄である. 古事記と日本書紀は必要だったらためらいなく架空の話しをするにはわけがあるでしょう. 


中国史書に倭の記事が出ない4世紀倭と百済の関係は一心同體のようだった. 應神天皇が慰礼城で働いていた時, 倭に住んだ宮主矢河枝比売が應神天皇と会うためなんかいも慰礼城を訪門した.  

4世紀百済王系は比流王(304-344) - 契王(344-346) - 近肖古王(346-375) - 近仇首王(375-384) - 枕流王(384-385) - 辰斯王(385-392) - 阿莘王(392-405)の順につづく. つぎの百済と倭の王系は上下同一人です. 古事記と日本書紀の內容に背くつぎの表の内容は事実である. 


契王は古爾王(234-286)系の終りですので比流王-近肖古王-近仇首王-枕流王(とむる)が同一血統です. 倭の名前なら比古由牟須美命 - 倭建命 - 應神天皇 - 宇遅能和紀郎子が正しい父系の流れです. 比古由牟須美命の比と由をとって比流王になったわけです. 古事記と日本書紀どこにもない情報で4世紀の被葬者を捜すのに勘張っていきましょう. 


比流王

契王

近肖古王

近仇首王

枕流王(とむる)

比古由牟須美命

景行天皇

倭建命

應神天皇

宇遅能和紀郎子


今から行く途はもっと厳しくなるので勘弁してね. 

古事記開化天皇条に大筒木垂根王, 讃岐垂根王の娘に五柱がいたとの記錄がある. 比古由牟須美王の子は大筒木垂根王, 次に讃岐垂根王の 二王と匿名を用いるのは後代の人が分らないように望んだ証拠です. 


この天皇が旦波之大県主、名は由碁理の娘、竹野比賣を娶って生んだ御子は比古由牟須美命. その兄の比古由牟須美王の子は大筒木垂根王, 次に讃岐垂根王. 二王. この二王の娘に五柱がいた.


系譜に年代を入れると次のようです. 比古由牟須美命は295年頃山代の筒木で倭建命の双子を生んだ. そのあと四國の讃岐にいって志理都紀斗売と會う. 志理都紀斗売は建伊那陀宿禰の娘とするが建諸隅命の娘とした方が整合性がある. 建諸隅命は天日槍に敗けて建諸隅命の家門は危機に落ちる. 比古由牟須美命は300年頃讃岐垂根王を生んだ. 讃岐垂根王の名前が品陀真若王, 彼が三柱の娘の父である. 品陀真若王に絡む社跡が徳島県名西郡石井町石井石井にある. あとで五柱の娘は応神天皇の妃になる.


竹野比賣

250-

比古由牟須美命

270-

大筒木垂根王

=倭建命300-

迦具夜比賣

320-

袁邪弁王340-

二柱の娘



讃岐垂根王

=品陀真若王300-


三柱の娘330

 

比古由牟須美命の後孫 五人の娘


比古由牟須美命

倭建命

布多遅比売(意富多牟和気の娘)

応神天皇

=稲依別王



倭建命

布多遅能伊理毘売命

(伊玖米天皇=天之日矛の娘)

迦具夜比賣命

=布忍入姫命

宮主矢河枝比売

袁那弁郎女


品陀真若王


高木之入日売

中日売命

弟日売命


古事記垂仁天皇 后妃と御子


后妃

御子

迦具夜比賣命, 大筒木垂根王の娘

袁邪弁〔ヲザベ〕王


垂仁天皇 后妃と御子で, また大筒木垂根王の娘の迦具夜比賣命を娶って生んだ御子は袁邪弁王一柱としたのは比布礼能意富美と関連される事実を隱すつもりでしょう. 迦具夜比賣命はAD320年頃の生まれなのに300年頃死んだ垂仁天皇の妃とは有り得ない. 迦具夜比賣命を垂仁天皇后妃と御子に編輯したのは古事記の故意である. 大筒木垂根王の娘, 迦具夜比賣命が袁邪弁〔ヲザベ〕王を生んだのが重要です. 


古事記 応神天皇 后妃と御子の中で丸邇の比布礼能意富美の娘, 宮主矢河枝比売は幼い倭王の時代, 摂政として働いたので是非覚えて下さい. 


宮主矢河枝比売    丸邇の比布礼能意富美の娘

宇遅能和紀郎子

八田若郎女

女鳥メドリ王


宮主宅媛〔ミヤヌシヤカヒメ〕妃  日触使主の娘

菟道稚郎子〔ウヂノワキイラツコ〕皇子

矢田〔ヤタ〕皇女

雌鳥〔メトリ〕皇女


袁那弁郎女   矢河枝比売の妹

宇遅之若郎女


宅媛〔ヤカヒメ〕の妹の小瓶媛〔ヲナベヒメ〕

菟道稚郎姫〔ウヂノワキイラツメ〕皇女



古事記開化天皇条に山代之大筒木真若王の記錄がつづく. 


次に山代之大筒木真若王が同母弟の伊理泥王の娘の丹波能阿治佐波毘賣を娶って生んだ子は迦邇米雷王。この王が丹波之遠津臣の娘、名は高材比賣を娶って生んだ子は息長宿禰王。

この王が葛城之高額比賣を娶って生んだ子は息長帯比賣命。次に虚空津比賣命。次に息長日子王。三柱。この王は吉備品遅君、針間阿宗君の祖。また、息長宿禰王が河俣稲依毘賣を娶って生んだ子は大多牟坂王。これは多遅麻国造の祖である。


古事記の重層の系譜をきれいにまとめると日子坐王(270-)-大筒木真若王(310-)-息長帯比売(340-)になります. 比布礼能意富美=大筒木真若王=息長宿禰王になるわけですが大筒木真若王が大筒木垂根王の娘迦具夜比賣を娶って息長帯比売を生んだことです. 比布礼能意富美は大筒木垂根王の婿であって宮主矢河枝比売は倭建命の外孫である. 


息長帯比売の父母


比古由牟須美命270

阿邪美都比賣

大筒木垂根王300

=倭建命 300

迦具夜比賣命(母)

=葛城之高額比売 320

宮主矢河枝比売340

袁那弁郎女

袁邪弁王

日子坐王270

比布礼能意富美(父) 

=息長宿禰王310

=大筒木真若王


息長帯比売340

虛空津比売

息長日子王


古事記開化天皇条の比古由牟須美命に大筒木垂根王, 讃岐垂根王の二王. この二王の娘に五柱がいたとの記錄は事実と見られます. 大筒木垂根王とは倭建命をさす. 大筒木垂根王と大筒木真若王は筒木で生れたでしょう. すると大筒木垂根王の母は誰だと思う? 史書を信じるわけにはいきません. 比古由牟須美命は垂仁天皇の娘阿邪美都比賣命を娶って大筒木垂根王を生んだ. 


垂仁天皇(240-300)

阿邪美能伊理毘賣命

阿邪美都比賣命270-

比古由牟須美命

大筒木垂根王300

=倭建命

稲依別王320

=応神天皇


珠城神社は京都府久世郡久御山町市田珠城にある. AD287年建波邇安王の反逆の時垂仁天皇は京都府久世郡で反逆の推移を追っていた. 反逆が鎭壓されたあと垂仁天皇は建波邇安王の娘苅羽田刀弁と弟苅羽田刀弁を娶る. 倭建命はあとで弟苅羽田刀弁の娘布多遅能伊理毘賣命を娶って仲哀天皇を生んだ. 比古由牟須美命の母は竹野比賣で珠城神社と近う筒木(綴喜)で住んだよぅだ. 竹野比賣は垂仁天皇皇后氷羽州比賣命の妹である. 


このころ大筒木で次のような有名人が現れる. 応神天皇を息長帯比売の子とする噓は気比大神參拜時宇遅能和紀郎子と応神天皇の父子が名前を換たので応神天皇は息長帯比売の子だとの論理である.


比古由牟須美命270

大筒木垂根王300

=倭建命

稲依別王320

=応神天皇


日子坐王270

大筒木真若王310

=比布礼能意富美

息長帯比売340

=宮主矢河枝比売

宇遅能和紀郎子360

=枕流(とむる)王

比古布都押之信命265

屋主忍男武雄心命295

味師内宿禰330

=木羅斤資=斯麻宿禰

山代内臣の祖

葛城曾都毘古360

=開中費直, 木滿致は曾都毘古の子


隅田八幡神社人物画像鏡銘文は “癸未年八月日十六王年 / 乎鞆王在意柴沙加宮時 / 斯麻念長寿遣開中費直 / 穢人今州利二人等取白 / 上同二百旱作此竟”です. 問題になる四つの解釋は次のようです.  斯麻宿禰とは木羅斤資のことで曾都毘古と父子關係である. 


癸未年十六王年

乎革(丙)王

斯麻(宿禰)

開中費直

383年

大鞆和気命

木羅斤資

葛城曾都毘古


倭建命(295-375)には迦具夜比賣命(320- ?)という娘がいた. 大筒木で生れた丸邇の比布礼能意富美(310-378頃)は迦具夜比賣命の夫になって倭建命の側で働いた. 三國史記百濟本紀近仇首王二年(376年) 以王舅眞高道爲內臣佐平 委以政事とあります. 丸邇氏は百済で眞氏と名乘る. 宮主矢河枝比売の主宰で比布礼能意富美夫婦の墓は富雄丸山に築造された.


383年斯麻宿禰は隅田八幡神社人物画像鏡を近仇首王に奉る. そして枕流(とむる)王に讓位, 近仇首王(応神天皇)は倭に帰る. “斯麻念長寿”とは宮主矢河枝比売の余命わずかなことをいう. 宮主矢河枝比売の墓も遠くない處にあるはずです.   


おわり