2024년 12월 15일 일요일

88. 磐井の乱のコペルニクス的転回



日本書紀は西紀536年宣化(467 – 539)が卽位したと記錄した. 宣化は繼體天皇の第二子であり安閑天皇(466 – 536) の 同母弟である. 繼體天皇(450 – 531)は16歲で安閑, 17歲で 宣化, そして59歲で欽明(509 – 571)を産んだことになるが いろいろ疑問がのこる. その年二月もとのごとし大伴金村大連を大連,  物部麤鹿火大連を大連, 又蘇我稻目宿禰を大臣と 任命した. 


蘇我稻目(506 – 570)という人物が歷史に初めて登場する. それも舊時代の巨物政治人大伴金村と物部麤鹿火と共に 蘇我稻目という政治新人が大臣に任命された. 蘇我氏はそれから 110年間大和の政治の實權を掌握した. 

蘇我稻目は 欽明天皇と同年輩で同時代を生きたから彼が大臣と電擊拔擢されたのは彼の歲30位いである. しかし彼が誰の子で, なにをしたか, どうして無名の人がいきなり大臣になったかについて日本書紀はなにも明かにしなかった.


蘇我稻目の系譜についていろいろと假說が出ているがそれを證明する根據はない. 4世紀の武内宿禰の子の中に 蘇我石川宿禰という人物があるから武内宿禰の後孫と見る假說もあるが信じ難い. 


西紀536年蘇我稻目(506 -570)の登場以後 蘇我氏は大和の政治的實權を握って大臣として天皇に奉仕しつづけた.

蘇我馬子(551– 626), 蘇我蝦夷(586– 645), 蘇我入鹿(610 – 645)まで4代110年の間倭の國政を左之右之したが645年 中大兄皇子が政變を起こして宮中で 蘇我入鹿を殺害し政權を奪取するに至って 蘇我4代の時代は終焉を告げた.


西紀536年 宣化の登極と共にその時まで無名であった 蘇我稻目がどうして大臣になって國政を主導する力を持つ ようになったのか. その疑問は未だ答えられていない. この解說はその疑問に答えようと書かれた.


日本書紀が記錄した歷史の破片はあるほど信憑性が認められる. しかし前後左右の相關關係を明かにしないまま

天皇制のイデオロギを確保する目標で歷史を恣意的に解釋したのが 日本書紀の本質である. 蘇我稻目と言う人名自體が當代の實名でなく後世の史家たちが作った名前である. 蘇我という氏は勿論稻目, 馬子, 蝦夷, 入鹿の名も史家たちの創作と見た方がいい. 


繼體(450 – 531)時代磐井の乱が起こった. 磐井という名も前後左右の說明なしに但一回の事件に出るばかりである. そして 磐井の Identityが把握できない. 磐井も史家たちが選擇した僞名であり日本書紀が記錄した事件の脈絡は創作にすぎなく 眞實でない. その時代登場する又一人近江毛野臣も僞名で實名ではない. 


日本書紀は正史の記錄でなく天皇制という宗敎の爲に書かれた經典である. 經典に登場する人物たちが 前後左右 脈絡を 失なって別別の歷史の破片として存在するから文字資料に絡まれて歷史を見ようとしたら 歷史は見えない. 


歷史の斷片的破片をパズルのように合わせるためにはもっと多い破片が要る.


雄略五年(461) そして加須利君は弟の軍君:コニキシ<昆支>に、「お前は倭に行って天皇に仕えよ」と告げた。軍君は、「国王の御命令であれば、断る理由はありません。願わくば、国王の夫人の一人を私に下賜していただき、同行させたいと思います」と答えた。加須利君は妊娠していた夫人を軍君に預け、「この夫人はすでに臨月に入っている。もし道中で出産したら、船に乗せてどこからでも帰国させよ」と告げた。そして日本に派遣した。六月。加須利君の言葉通り、夫人は筑紫の各羅嶋で出産した。それでその子を嶋君と名づけた。軍君は船で母子を帰国させた。これが後の武寧王である。


日本書紀の “倭に行って天皇に仕えよとが軍君は船で母子を帰国させた”という記錄は噓である. 日本書紀は武寧王母の名前を明からかにしなかった. しかし日本書紀どこかに 武寧王母の名前を殘したろうと思われる - 想像をも超越する方式  で. それが飯豊皇女である. 嶋君を産んだ後彼女は昆支の愛を受け入れなく男と關係を持ってなかったと日本書紀は 證言する. 昆支も又純愛の片思いを一生貫いたとする. 昆支の又一つの名は日本書紀に淸寧天皇となっている.


日本古代史の中で子供の時から王位の正統性が認られる人物は二人しかない. 西紀369年の菟道稚郎子(後の百濟枕流王)と 477年の宋書の倭王武がそれである. 嶋君, 倭王武そして百濟武寧王は同一人で日本書紀の雄略紀はすべてが創作である. 


古事記の雄略紀に出る子供天皇の逸話と萬葉集卷一の一番先に登場する御製歌(おほみうた)は飯豊皇女の子嶋君の逸話で ある. 嶋君16歲の頃と思われる. その頃本物の雄略は生きていたならば59歲で飯事(ままごと)遊びする年ではない. 



日本書紀武烈四年(502) 百済の末多王が横暴な振る舞いをし人民を苦しめた。国人はついに王を廃し嶋王を擁立し武寧王(在位502 - 523)とした。

 

西紀479年嶋君は叔父昆支と共に日本を離れた. 国を母飯豊皇女に任せて. 古事記雄略紀の赤猪子(あかいこ)はその時懷妊中であったと思われる. 嶋君がそれから502年まで何處でなにをしてたか分からない.  


西紀504年(武烈6年)百済国が麻那君(マナキシ)を派遣して貢納した。天皇は百済国がしばらく貢納しなかったことに不審を覚え、使者を留めて帰さなかった。


西紀505年(武烈7年)百済の王が斯我君(シガキシ)を派遣して貢納した。特別な書状を添え、「以前に派遣した麻那君は百済国の王族ではありません。そこで、新たに斯我君を派遣し、謹んでお仕えさせます」と申し開きをした。その後、この者に子が生まれた。法師君といい、倭君(やまとのきみ)の祖先である。 


日本書紀が無邪氣に504年, 505年記事を殘したとは思われない. この記錄たけではなんの意味もない記事である. 麻那君を留めて帰さなかったというのは彼が日本で一生を過したと讀める. 百濟の武寧王は麻那君と斯我君を派遣して列島奪還を始めた. 列島は彼が生まれた地である. 百濟軍は九州へ上陸し漸進的に影響力を擴大して行った. 九州全體を百濟軍が掌握するのに20年位かかったと思われる. と言うのは百濟は當時大軍を遣わす程に國力の餘力がなかった. 武寧王の念願は子聖明代に成就された. こんな巨大なる歷史の變轉を日本書紀は磐井の亂という小題目の中に隱してしまった. 


大和は西紀485年頃から大伴金村が掌握しており繼體天皇は彼の傀儡に過ぎなかった. 法師君は百済の太子淳陀と同一人で後の欽明天皇をさす. 聖明と欽明の諡號の中の明は偶然の産物ではない. 斯我君は繼體から大和を接受した安閑天皇で旣存權力層の財産沒收を斷行, 全国的規模の屯倉を設置した.  


523年百済の武寧王が薨じた. 524年百済の太子明が即位し聖明王となった. 武寧王歿後大和は急ぎ始る. 526年繼體天皇は都を遷して大和の磐余の玉穗に置いた. そして事態収拾のイニシアティブを握る. やがて九州征伐の戰爭の幕が開く.


527年6月近江の毛野臣(けなのおみ)が、兵六万を率いて任那に行き、新羅に破られた南加羅、喙己呑を奪還し、再び任那と併合しようとした。このとき筑紫国造磐井が、ひそかに反逆を企ていたが、ぐずぐずと年を過ごし、事の困難さを恐れて隙を窺っていた。新羅がこれを知ってこっそり磐井に賄賂を送り、毛野臣の軍を妨害するよう勧めた。これに乗った磐井は、肥前、肥後、豊前、豊後などをおさえ、職務を果たせぬようにし、外は海路を遮断し、高麗、百済、新羅、任那などの国が貢物を運ぶ船を欺き奪い、内は任那の遣わされた毛野臣の軍を遮り毛野臣に揚言した。


磐井> 今、お前は朝廷の使者になっているが、昔は仲間として肩や肘をすりあわせ、同じ釜の飯を食った仲だ。使者になったからといって、お前に俺を従わせることなどできるものか。


そして交戦して従わず、気勢盛んであった。毛野臣は前進を阻まれ、途中で停滞してしまった.


西紀527年 近江の毛野臣が兵六万を率いて任那に行き新羅に破られた南加羅と喙己呑を奪還し再び任那と併合しようとしたというのは建前で, 本音は九州征伐である. 527年の第一次九州征伐は百濟軍の勝利で終わった. この戰爭は527年6月から528年夏まで少くとも一年の間續いた. 新羅が磐井に賄賂を送ったとは日本書紀の創作である.


そして528年物部大連麁鹿火が二次九州征伐軍を引率し九州を攻撃する. 勝ったら筑紫より西は麁鹿火にやるとの繼體天皇の約束と共に.


天皇は大伴大連金村、物部大連麁鹿火、許勢大臣男人らに詔して言った。


天皇> 筑紫の磐井が反乱して、西の国を我が物としている。誰か将軍の適任者はあるか。

大伴金村> 正直で勇に富み、兵事に精通しているのは、いま麁鹿火の右に出る者はありません。

天皇> それが良い。

秋8月1日、詔して言った。

天皇> 物部麁鹿火よ。磐井が叛いている。お前が行って討てまいれ。

物部麁鹿火> 磐井は西の果ての狡賢な奴です。山河の険阻なのを頼りに、恭順を忘れ乱を起こしたものです。道徳に背き、驕慢で自惚れています。私の家系は先祖から今日まで、帝のために戦いました。人民を苦しみから救うことは、昔も今も変わりません。ただ天の助けを得ることは、私が常に重んずるところです。よく慎んで討ちましょう。

天皇> 良将は出陣にあたっては将士をめぐみ、思いやりをかける。そして、攻める勢いは怒濤や疾風のようである。大将は兵士の死命を制し、国家の存亡を支配する。つつしんで天誅を加えよ。

そして天皇は将軍の印綬を麁鹿火に授け、最後に詔して言った。

天皇> 長門より東は私が治めよう。筑紫より西はお前が統治し、賞罰も思いのままに行え。一々報告せずともよい。


528年冬11月11日、大将軍物部麁鹿火は、敵の首領磐井と、筑紫の三井群(みいのこおり)で交戦した。両軍の旗や鼓が相対し、軍勢のあげる塵埃は入り乱れ、互いに勝機をつかもうと必死に戦って譲らなかった。そしてついに麁鹿火は磐井を斬り、反乱を完全に鎮圧した.


12月、筑紫君葛子は、父である磐井の罪に連座して誅せられることを恐れて、糟屋の屯倉を献上して死罪を免れることを請うた。


戦争は終ったが 物部麁鹿火が九州を取った証拠はない. しかし磐井の子筑紫君葛子は生き殘ったと日本書紀は記錄した. 戰爭の後大和では天皇および皇太子、皇子皆死んでしまったとの百済本記を引用する.

 

日本書紀はこの時期の歷史を有りのまま記錄しなかった. 物部麁鹿火の勝利としながら大和の天皇は殺害され新しい王朝が出現する. 日本書紀は安閑(466 – 536)が繼體(450 – 531)の子と宣言したがそれはうそである. 


二次九州征伐軍は當時大和が動員できる最大の兵力であろう. しかし 斯我君の百濟軍は二分して一部が空になっていた大和を攻擊, 手早く繼體天皇と大伴金村を逮捕して九州戰況を逆轉させたのではないだろうか. 磐井(百濟の麻那君)の百濟軍は物部麁鹿火の二次九州征伐軍を九州へ足止め, 斯我君の大和攻擊の轉機を生み出した. その中で 百濟の麻那君が戰死したと信じていますがそんなことはなかった. 


日本書紀は504年麻那君, 529年麻那甲背, 543.4城方甲背昧奴, 543.12 中佐平木刕麻那を記錄した. 麻那君が末年中佐平まで昇格したわけです. 529年麻那甲背が近江の毛野臣といっしょうに安羅會議に參席しているから日本書紀の磐井の乱なんかはフィクションでしょう. 

 

麻那君(504)

麻那甲背(529)

城方甲背昧奴(543.4)

中佐平木刕麻那(543.12)


西紀532年斯我君(安閑)が大和の王となった. 西紀536年宣化(467 – 539)が王となった. そして蘇我稻目が大臣として登場した. 日本書紀は磐井の子筑紫君葛子が生き殘こったとした. 西紀504年九州に入った磐井が筑紫君葛子を産んたのは506年頃と見て差しつがえない. 日本書紀は 筑紫君葛子を蘇我稻目という僞名で記錄した. たから系圖なんか確かめるために日本書紀を見るのは無駄である. 蘇我稻目は磐井の子であり開國功臣として大和の實權を掌握した. 


福岡県筑後市, 八女郡広川町, 八女市にまたがる東西約10数kmにわたる八女丘陵上に分布する八女古墳群がある. 八女古墳群を代表する岩戸山古墳は福岡県八女市にある九州地方北部では最大の 前方後円墳で6世紀前半に造られた 筑紫君磐井の墓と推定される. 文献から被葬者と築造時期を推定できる日本で数少ない古墳の1つである.  


古墳は東西を主軸にして後円部が東に向けられている。2段造成で北東隅に「別区(べっく)」と呼ばれる一辺43メートルの方形状区画を有するという特徴を持つ.  


敵の首領磐井の墓は九州地方北部では最大の前方後円墳で別区を持つ特異な構造である. 隅には石人石馬が堵列している. どうしても敵の首領の墓とは見えない. 大和朝廷の大臣を輩出しつづけた開國功臣に相應しい墓である. 蘇我氏隆盛期には大和朝廷から每年大勢の權力者たちが參拜したに違いない. 別区とはそんな時使う空間たったと 思われる. 


平安時代の天台宗の僧皇円(? - 1169)によって書かれた歴史書『扶桑略記』によれば、法興寺の刹柱を建てた日に、

蘇我馬子ら百余人は百済の服を着用して参列したという. 推古天皇元年(592)の 出来事である。  


「元年正月蘇我大臣馬子宿禰依合戦願 飛鳥地建法興寺 立刹柱日 島大臣並百余人 皆著百済服 観者悉悦 以佛舎利籠置刹柱礎中。」  

 

推古元年正月に蘇我大臣馬子宿祢が合戦願いにより飛鳥の地に法興寺を建てた。 刹柱を立てる日に嶋大臣(馬子)並びに 百余人は、皆「百済服 」を着て現れ 、 それを見た人々は 悉く悦んだ .


蘇我馬子は百済の麻那君の孫です. 嶋大臣(馬子)並びに百余人は皆「百済服 」を着て現れそれを見た人々は 悉く悦ん だ . 信じたくないが當代大和は百済の他の国ではない. 百済人が百済服を着てたのにはなにも驚くことはない. そんな歷史の否定の上で成立したのが日本國である. 眞實を捨てて天皇制という幻を夢見みて.


                                                                   – 終り-

 



2024년 8월 12일 월요일

124. 高麗の美女の媛と従女吾田子(あたこ)



531年日本書紀が高麗について関心を示した記事が現われる. 


継体治世25年春2月 天皇は病が重くなった。7日 天皇は磐余の玉穂宮で崩御した。時に八十二歳であった。冬12月5日 藍野陵(摂津国三島郡藍野)に葬られた。この月 高麗はその王、安を弑した。


高麗の王, 安とは22代安臧王 (498-519-531)で519年から-531年まで在位した.  三國史記にも出ていない高麗の安臧王弑害事件以来さまざまな高麗の記事が続く. 安臧王は文咨明王の長子だったのに弟の安原王が安臧王を弑して卽位したらしい. 


19長壽王394-413-490

20文咨明王    ?-491-519

22安臧王498-519-531

23安原王?-531-545

24陽原王528-545-559

25平原王?-559-590

26嬰陽王?-590-618

27榮留王?-618-642


高麗についての記事が続く.


欽明治世6年(545) この年、高麗に大乱が起こり多数の人が殺された。(作者注)原文には百済本紀の記述を引用した補足がある。「12月20日、高麗の細群(さいぐん)と麁群(そぐん)が宮廷で戦った。鼓を打ち鳴らして戦闘をした。細郡が敗れて包囲を解かないこと三日、ことごとく細郡の子孫を捕らえ殺した。24日に、高麗の香丘上王(安原王)が薨じたという。」

欽明治世7年(546) この年、高麗は大いに乱れ、戦死者は二千余人にも上った.(作者注)原文には百済本紀の記述を引用した補足がある。「高麗では1月丙午、八歳になる中夫人の子を立てて王とした。高麗王には三人の夫人があった。正夫人には子が無く、中夫人が太子を生んだ。その舅は麁群であった。小夫人も子を生んだ。その舅は細群であった。高麗王の病が重くなると、細群、麁群はそれぞれの夫人の子を立てようと争った。その争いで細群の死者は二千余人上ったという。」


安原王には三人の夫人

正夫人

子が無く.

中夫人

太子を生んだ。その舅は麁群(そぐん)であった.

小夫人

子を生んだ。その舅は細群(さいぐん)であった. 


安原王は545年12月24日薨じて1月丙午八歳になる中夫人の子を立てて王としたのが24代陽原王である. つぎに562年書紀に出る記事は誤りのようで歷事的事實とは違うようです.


欽明治世23年(562) 8月、天皇は大将軍大伴連狭手彦を遣わし、数万の兵をもって高麗を討たせた。狭手彦は百済の計を用いて高麗を撃破した。その王は垣を越えて脱出した。狭手彦は勝ちに乗じて宮中に入り、珍宝七織帳、鉄屋を入手して帰った。(作者注)原文には、ある本によると、鉄屋は高麗の西の高楼の上にあっり、織帳は高麗王の内殿に張ってあったという。

狭手彦は七織帳を天皇に奉った。また、鎧二領、金飾の大刀二口、銅鏤鐘三口、五色の旗二竿、美女の媛と従女吾田子(あたこ)を、蘇我稲目宿禰大臣に送った。大臣は二人の女を召し入れて妻とし、軽の曲殿に住まわせた.

欽明23年(562)記事は時点と內容にいろいろ問題があります. 天皇が大伴連狭手彦を遣わし数万の兵をもって高麗を討たせたことはない. 狭手彦は安羅の日本府で反百済鬪爭をしていた佐魯麻都であり彼が百済の計を用いて高麗を撃破するなんてそんなはずはない. また狭手彦はすでに70代だから高麗を討つとは無理のようです. 


すると高麗から二人の女を救出し倭につれてきたのは陽原王卽位の際と見るのが合理的でしょう. 高麗の美女の媛は安原王の公主(母は小夫人)でありながら政变で敗けて従女吾田子とともに狭手彦に命を預けた. また『日本書紀』によると605年(推古天皇13年)に高句麗の「大興王」が仏像製作のために黄金300両を献じたという。大興王とは26代 嬰陽王のことであるから推古天皇の甥にあたる. 


23安原王?-531-545

24陽原王528-545-559

25平原王?-559-590

26嬰陽王?-590-618


美女の媛(堅塩媛)530-

推古天皇554-628



このへんでどうして大伴狭手彦は高麗から二人の媛らの脫出に絡んでいるか調べてみましょう. 狭手彦の家系の初出は大伴室屋で允恭天皇が衣通郎姫について室屋に賴む場面である. 


これより前のことであるが、天皇は大伴の室屋連に、「私は最近、美しい女性を迎えた。皇后の同母妹で、私の心をときめかせてくれる。できれば、その名を後世にも伝えたいと思うが、どうだろうか」と語った。そこで室屋連が提案し、諸国の造たちに命じ、衣通郎姫のために藤原部を定めた。


大伴室屋は高麗出身でその後裔達も高麗との繫がりを保ってきた. 大伴家門は高麗に出入してきたので546年狭手彦は高麗の政变の際高麗の宮殿で政变と出合ったことになります. 


大伴室屋から始まるこの家系は時流に乘って時には正体を現さなく天皇家に協助, たまには天皇家に叛く. 


大伴家系

AD 400 - 460年代

430 年代- 487

460 – 520年代

490 年代 - 

大伴連室屋

大伴談連(佐魯)

大伴金村大連

大伴狭手彦(佐魯麻都大連)

允恭-安康-雄略-清寧

清寧-顕宗

仁賢-武烈-継体 

宣化-欽明天皇


546年高麗の美女の媛と従女吾田子を倭につれてきた狭手彦は382年葛城襲津彦が新羅の美女2人とあってから襲津彦家門が親新羅路線をたどってきたのをよく知っていた. 當時狭手彦は安羅の日本府で阿賢移那斯(賢那) (襲津彦の5代孫)と協力していた.  大伴と襲津彦家門は反百濟という同じ目標のためなん代もいっしように働いてきた.


大伴室屋

允恭天皇近臣, 清寧天皇治世正体を現さなく協助

大伴談

顕宗卽位させて政治主導, 高麗と往來, 487年爾林の役 主導 戰死

大伴金村

武烈-継体卽位させて政治主導, 反百濟親高麗路線

大伴狭手彦

欽明時代安羅滯留,安羅の日本府主導, 反百濟親高麗路線


大伴家門の専横は顕宗天皇, 武烈天皇,  継体天皇治世 さらに極めていた. 継体天皇は大伴金村のおかげで天皇になって長い間金村の傀儡のような役割を貫いた. 大伴家門が継体天皇を選んだのは百濟の武寧王を意識した結果である. 継体天皇は百濟の蓋鹵王の庶子で武寧王の兄にあたります. 彦主人王とは百濟の蓋鹵王をさす. 


應神天皇 5世の孫 継体天皇

應神天皇  320 - 394

=貴須王

若沼毛二俣  372 - 424

=阿莘王

意富富杼王 (大郞子)   391 - 432 =腆支王

乎非王  412 - 455 =毗有王

于斯王, 彦主人王  429 - 475

乎富等大公王 450 - 531


546年高麗の美女の媛と従女吾田子は10代のむすめで530年代生れだったと考えられる. 日本書紀に高麗の記事がこのへんでたまたま出てくるのは高麗の美女の媛と従女吾田子に繫がっている.  蘇我稲目宿禰大臣506-570)は二人の女を召し入れて妻としたでしょうか. 


美女の媛は小夫人の公主でいのちを狭手彦に頼んだことになる. 高麗を脫出し倭に來た二人りは欽明天皇妃の堅塩媛と小姉君に名前が変わる. 


欽明天皇系譜 (510 – 539 – 571)

宗賀之稲目宿禰大臣の娘の岐多斯比売:キタシヒメ

橘之豊日:タチバナノトヨヒ命

妹の石隅:イハクマ王

足取:アトリ王

豊御気炊屋比売:トヨミケカシキヤヒメ命

麻呂古:マロコ王

大宅:オホヤケ王

伊美賀古:イミガコ王

山代:ヤマシロ王

妹の大伴:オホトモ王

櫻井之玄:サクラヰノユミハリ王

麻奴:マヌ王

橘本之若子:タチバナノモトノワクゴ王

泥杼:ネド王


蘇我稲目大臣の娘で、堅塩媛(きたしひめ) 

大兄(おおえ)皇子 547 - 

磐隈(いわくま)皇女 549 - 

臘嘴鳥(あとり)皇子

豊御食炊屋姫(とよみけかしきや)尊  554 - 628

椀子(まろこ)

大宅(おおやけ)皇女

石上部(いそのかみべ)皇子

山背(やましろ)皇子

大伴皇女

桜井皇子  吉備姫王の父?   560? - 

肩野(かたの)皇女

橘本稚(たちばなのもとわか)皇子

舎人皇女   当麻皇子の妃  572? – 603 


岐多志比売命の姨をばの小兄比売:ヲエヒメ

馬木:ウマキ王 552

葛城:カヅラキ王 554

間人穴太部:ハシヒトノアナホベ王  556- 

三枝部穴太部:サキクサベノアナホベ王557

長谷部若雀:ハツセベノワカササギ命 559


堅塩媛の同母妹を小姉君(おあねのきみ)

茨城皇子 (うまらきのみこ)  伊勢に仕えていた磐隈犯し 

葛城(かずらき)皇子  554

泥部穴穂部(はしひとのあなほべ)皇女 

泥部穴穂部(はしひとのあなほべ)皇子 

泊瀬部(はつせべ)皇子 



堅塩媛と小姉君が産んだ皇子女は欽明天皇系譜に出ていますが書紀に少しのずれがあるようで蘇我稲目大臣は堅塩媛を百濟の聖明王に, 小姉君は倭の欽明天皇に捧げた. 堅塩媛は聖明王の4人の子女を産んだあと555年欽明天皇妃になったと思われる. 


なぜかとすると堅塩媛が産んだ二人りの皇子らが百濟の王, 惠王と法王になったと考えられるからだ. 百濟の威德王死後惠王-法王に続きますが惠王-法王は威德王の弟であった. 扶餘惠, 扶餘法という威德王の弟がいたはずです. 日本書紀は扶餘法についてなにも言っていませんがいくつかの痕跡はあります.


扶餘法系譜

聖明王503-554

威德王530-598

=箭田珠勝大兄皇子

阿佐太子570-599

=押坂彦人大兄皇子

多利思比孤=足日廣=舒明天皇593-660


扶餘惠547-




扶餘法550-

扶餘璋(武王)570-640

琳聖太子?


595年5月高麗の僧の慧慈が倭にやってきた. 高麗の26代嬰陽王(大興王)は推古天皇の甥にあたる. 高麗王は546年高麗の美女の媛と従女吾田子 (堅塩媛と小姉君) たちが倭でどう生きているか大伴狭手彦家門を通じてよく知っていたことになります. 高麗の僧の慧慈は扶餘法とも近い繫がりをもっていたようです. 


595

推古3年5月 高麗の僧の慧慈が帰化。百済の僧の慧聡とともに三宝の基礎となりました.

596

推古4年11月 法興寺が完成。蘇我馬子の子の蘇我善徳が寺司に成る 四年冬十一月、法興寺造竟、則以大臣男善德臣拜寺司。是日、慧慈慧聰二僧始住於法興寺。


『伊予国風土記』のに見える「伊予湯岡碑」の記事に出る、「法興六年(596)十月 歳在丙辰 我法王大王 与恵慈法師及葛城臣 道遙夷予村 正観神井 歎世妙験 欲叙意 聊作碑文一首」.  法興は九州の私年号とされるが、法興元年は崇峻天皇4年(591年)

605

推古13年4月 銅製の仏像と刺繍の仏像を作り始める十三年夏四月辛酉朔、天皇、詔皇太子大臣及諸王諸臣、共同發誓願、以始造銅繡丈六佛像各一軀。乃命鞍作鳥、爲造佛之工。是時、高麗国大興王、聞日本国天皇造佛像、貢上黃金三百兩。

610

推古18年3月 高麗が僧侶の曇徵法定を献上。五経彩色紙墨碾磑が伝来?

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推古23年11月 百済の使者と宴会。高麗の慧慈が帰国 11月2日。百済の客をもてなし、宴会をしました。15日。高麗の僧の慧慈(エジ)が国に帰りました。


欽明7年(546)高麗の美女の媛と従女吾田子が倭に來た以來倭は欽明-敏達-用明-崇峻-推古天皇に变わる. 587年丁未の乱とは宣化元年(536)5月の詔を廢って百濟と九州から倭の獨立を望む雰圍氣になったのを反影する. 宣化元年(536)5月の詔は倭で生産された穀を筑紫那津之口に集め海を渡って多沙津に送ることだった. 多沙津に送られた穀は百濟の都の所夫里移轉に関わる.


繼體治世23年春3月百済王は下哆唎国守穂積押山臣に語って言った。百済王> 日本への朝貢の使者がいつも海中の岬を離れるとき、風波に苦しみ、船荷を濡らし、ひどく損壊します。そこで加羅の国の多沙津を、我が国の朝貢の航路として頂きたく思います。押山臣はこれを伝え奏上した。この月、物部伊勢連父根(ちちね)、吉沙老(きしのおきな)らを遣わして、多沙津を百済王に賜った。


倭では穀の生産, 九州の役割は倭で生産された穀を多沙津に送ることだからその詔以來倭と九州に別別の行政機關があったですね. 536年から645年乙巳の変まで九州に倭と別の行政機關があったはずです. 600年多利思比孤の遣隋使の存在はその顕しである. 倭の烽起はこの詔について九州と立場を異にしていたのを意味します. 587年豊国法師とは九州で阿佐を補佐していた扶餘法であると考えられる. 


用明天皇二年(587)夏4月2日...そのとき穴穂部皇子が豊国法師を連れて内裏に入った。

用明天皇2年(587年)に発生した丁未の乱では、男麻呂は巨勢比良夫膳賀陀夫葛城烏那羅らと共に大臣蘇我馬子側に従って大連物部守屋を討った. 


従女吾田子(小姉君)の皇子である 崇峻天皇4年九州征伐始まる. 百濟は使いを急派し蘇我馬子を動かして崇峻天皇暗殺そして堅塩媛のむすめ, 推古天皇を593年卽位させる. 


崇峻天皇4年(591年)紀男麻呂巨勢猿大伴囓葛城烏奈良と共に大将軍に任ぜられ、任那再興のために2万人以上の兵を率いて筑紫まで出陣する。その後、崇峻天皇暗殺事件の発生もあって朝鮮半島への進軍は行われず、推古天皇3年(595年)大将軍らは都に帰還した.


597年百濟王子阿佐が倭へ来て斑鳩に寺を建て始める. しかし599年地震で阿佐が竹田皇子とともに斑鳩で死に藤ノ木古墳に埋葬されたと見える. 阿佐太子がなくなったので百濟は惠王を卽位させる.  


597

推古5年4月 百済の王子の阿佐が朝貢 五年夏四月丁丑朔、百濟王遣王子阿佐、朝貢。

598

12月 威徳王が死去

599

推古7年4月 地震が発生 七年夏四月乙未朔辛酉、地動、舍屋悉破。則令四方俾祭地震神


阿佐が死亡してから倭はいきなり忙しくなります. ふたたび推古天皇が九州征伐始まる.


602

推古10年2月来目皇子に25000人の兵を授けて将軍とした. 


10年4月来目皇子が筑紫に.  10年6月来目皇子は病気で征討できませんでした.

603

推古11年2月来目皇子が筑紫で死亡


11年4月当麻皇子(=来目皇子の兄)を新羅征伐の軍の将軍とする.


11年7月当麻皇子が難波から出発し播磨で妻の舎人姫王が死んだので引き返し新羅征伐はされず


隋書倭國傳の倭國とは九州をいう. 九州と倭の戦争で負けた倭では九州が要求した仏教受容, 冠位十二階と十七条憲法が施される. 628年堅塩媛の娘, 推古天皇が死ぬと, 九州の多利思比孤が629年卽位して舒明天皇になって高麗の美女の媛の跡は色褪せていく.   


隋書 倭國傳

AD 600

倭王姓阿每  字多利思比孤  號阿輩雞彌  遣使詣闕

AD 607

其王多利思比孤  遣使朝貢 其國書曰 日出處天子 致書日沒處天子 無恙  云云 

AD 608

上遣文林郎裴清  使於倭國 ……此後遂絕



おわり