百濟の沙宅氏の初出は書紀欽明四年(543.12) の記事での上佐平沙宅己婁である.
「百済の聖明王は、先の詔についてまた諸臣に問うた. かくのごとき勅命が出た. どうすればよいか. 上佐平沙宅己婁, 中佐平木刕麻那, 下佐平木尹貴, 徳率鼻利莫古, 徳率木刕眛淳, 徳率国雖多, 奈率燕比善那らは議って言った.」 |
百済の沙宅氏は百済初期からあった氏ざゃなく543年頃生れたばかりの氏と受取ってください.
その頃なぜ沙宅氏という新い氏が百済で出來たでしょう. 前編の「 119. 皇極天皇の家筋を捜す」で宣化天皇の皇子, 上殖葉皇子の話がありましだが史書にない彼の話を進めていきます.
もし上殖葉皇子が百済の上佐平になったら百済式氏と名が要りますね. 上殖葉皇子の百済式名前が沙宅己婁です. 倭の上殖葉皇子が百済の上佐平になるには相応しいわけが有るはずです. 543年頃沙宅氏が生れたら645年乙巳の変まで100年位いの歲月です. 沙宅氏略系譜は次のよぅでとても少い家系ですがこの家門から聖明王, 威德王, 武王, 舒明天皇の王后を輩出しましだ.
沙宅氏略系譜
510沙宅己婁 | 540沙宅積德 | 580沙宅智積 | 610達率沙宅紹明 恩率沙宅軍善 |
達率沙宅紹明と恩率沙宅軍善は皇極元年(642.07.22) 顔を出す. 642年恩率沙宅軍善は29歲だったでしょう. 百済の沙宅軍善の倭式名前が中臣鎌足になります. その時「智積兒達率闕名」と處理したのは671年の沙宅紹明と考えられる. 彼は669年藤原鎌足が死ぬとその碑文を製したという.
書紀皇極元年(642.07.22)に、百済の使人大佐平智積等に朝に饗へたまふ。【或本に云く、百済使人大佐平智積及び兒達率 名を闕せり・恩率軍善といふ】 天智一〇年(671正月)以大錦下授佐平余自信。沙宅紹明。〈法官大輔。〉 天武二年(673閏六月)大錦下百濟沙宅昭明卒。爲人聰明叡智。時稱秀才於是。天皇驚之。降恩以贈外小紫位。重賜本國大佐平位。 |
475年高麗王が大軍をもって百済を攻め滅ぼした. そのときわずかな生き残りが久麻那利に移して汶洲王を立てその地に新たに国を興させた. 蓋鹵王の子は戰亂中子供だったから人目を避けて生き残った二人りと倭で生れてあそこで育てた斯麻王の三人だった. 生き残った蓋鹵王の子三人の中で安閑天皇は無嗣だったので武寧王と宣化天皇の後裔が結ばれるのは唯一の途だったでしょう.
生き残った蓋鹵王の王子
斯麻王(462-523) | 斯我君(466-536) 無嗣 広国排武金日天皇(安閑) | 宣化天皇(467-539) 武小広国排盾天皇 |
継体天皇系譜は安閑, 宣化, 欽明を継体の皇子としているが継体の年齡を考えれば無理である. 安閑, 宣化, 欽明は継体の皇子ではない. 日本書紀にあるから信じるというわけにはいきません. 百済と倭の男は30歲位いの世代間隔が普通であるが継体天皇の場合, 作為を感じる. 安閑, 宣化, 欽明天皇は継体を通じて萬世一系の皇室のあとを継ぐ.
継体天皇の年齡
継体17歲 | 継体18歲 | 継体61歲 | |
継体天皇 450-531 | 安閑天皇466-536 | 宣化天皇467-539 | 欽明天皇510-571 |
書紀から安閑天皇と宣化天皇の御世の記錄を見ましょう. 安閑と宣化天皇がなにをやってたか氣付きますか. 文章を讀まず行間の意味を勘校してぐださい. 各地に百濟の屯倉を設置及び牛の放牧, そして那津之口に集めてどこに行くと思われますか. 安閑と宣化は百済に必要な物資を一所懸命に調達しています. 斯麻王, 安閑, 宣化は兄弟であったのを覺えてぐださい.
安閑天皇 | 各地に屯倉を設置, 牛を難波の大隈嶋と媛嶋松原に放つ. |
宣化天皇 | 官家を那津之口に作り立てろ. 諸々の郡に課して分けて移して, 那津之口に集めて, 非常時に備えて, 長く民の命とするべきだ. |
宣化天皇には二人の子がある. 上殖葉皇子と火焔皇子で二人り共百濟で働いたでしょう.
宣化天皇 (467-539)系譜
古事記 | 日本書紀 | |||||||
仁賢天皇の御子の橘之中比売命
| 億計天皇女橘仲皇女爲皇后
| |||||||
川内之若子比売:カフチノワクゴヒメ
| 大河内稚子媛(おほしかふちのわくごひめ
|
百濟の聖明王が卽位した時蓋鹵王の血統は四人しかないから30歲位いになると重職を担ぐようになったと考られる. 540年欽明卽位時上殖葉皇子と火焔皇子も百濟の官人になったでしょう.
聖明王500 | 純陀王(欽明)510 | 上殖葉皇子510 | 火焔皇子510 |
百濟の武寧王から舒明天皇まで王后と推定される名前を選らんで王后の父-祖-曾祖を並ぶと下のようです. 驚いたことに宣化天皇が4回も現われる. 血統を重視する百濟王家が宣化天皇の後裔を王后と選んだ理由があったはずです.
百濟王后推定
王后名 | 王子 | 王后父 | 王后祖 | 王后曾祖 | |
武寧王 462-523 | 480 手白香皇女 | 明穠, 純陀 | 仁賢天皇 440-489 | 市辺押磐皇子410-456 | 履中天皇380-432 |
聖明王 500年代-554 | 510 石姫 | 箭田珠勝大兄 530-598(=餘昌) | 宣化天皇 467-539 | 蓋鹵王 430-475 | 毗有王412-455 |
威德王 530年代-598 | 550 広姫(阿佐母) | 押坂彦人大兄 570-599(=阿佐) | 520息長真手王 | 490? | 460? |
威德王 | 550 菟名子夫人 | 宝王 ( 田村皇女) | 510伊勢大鹿首 小熊 | 宣化天皇 467-539 | |
阿佐太子 570-599 | 575 宝王(田村皇女) | 田村皇子 593-661 | 威德王 530-598 | 聖明王 500-554 | 武寧王 462-523 |
武王 570年代-640 | 580沙宅種善 | 未詳 | 540沙宅積德 | 510沙宅己婁 上殖葉皇子 | 宣化天皇467-539 |
舒明天皇 593-661 | 宝皇女 594-661 | 無嗣 | 540沙宅積德 | 510沙宅己婁 上殖葉皇子 | 宣化天皇467-539 |
百濟末期沙宅氏系圖はとても少ない人員が知られています. 沙宅千福, 沙宅孫登, 沙咤相如が智積の二人りの兄達の家系に属する可能性が濃い.
百濟末期沙宅氏系圖
宣化天皇467-539 | 510沙宅己婁 | 540沙宅積德 | 580沙宅智積 | 沙宅軍善614-669 |
沙宅紹明?-673 | ||||
570智積の兄達? | 600沙宅千福 | |||
沙宅孫登-671訪日 | ||||
630沙咤相如-707 | ||||
550菟名子夫人 威德妃 | 宝王(田村皇女) 阿佐妃575 | |||
沙宅種善580 武王妃 | ||||
宝皇女 594-661 舒明妃 |
7世紀以後の中臣氏系圖に出る中臣鎌足(614-669)は生歿年代が確かであるから先祖達ちの生年は次のよぅうになります. 百濟沙宅氏系圖と倭の中臣氏系圖を比べてぐたさい. 沙宅氏系圖をそのままコピー
したのが中臣氏系圖と見えます.
中臣鎌足は沙宅軍善の倭式名前です. 7世紀百濟の沙宅氏が倭に移住して中臣氏を名乘った. 中臣鎌足出現以來突然中臣氏系譜は賑やかになる. そして多治比-威奈(猪名)氏が中臣氏から分岐するので沙宅-多治比-威奈(猪名)-7世紀以後の中臣氏は同祖になります. 中臣氏系圖の黑田は宣化天皇, 御食子は沙宅智積のことである.
中臣氏系圖
黑田くろだ 467-539 | 常磐ときわ 510 | 可多能祜 540 | 御食子 580 | 中臣鎌足 614-669 |
久多 | ||||
垂目 | ||||
國子570 | 國足600?-661 =伊勢王(1) | |||
糠手子570 | 金600?-672 | |||
渠每600?-672 =猪名公高見 |
沙宅氏と中臣氏略系圖の対応 (伊禮波=火焔皇子)
黑田 | 常磐ときわ | 可多能祜 | 御食子みけこ | 中臣鎌足614-669 |
宣化天皇467-539 | 510沙宅己婁 =上殖葉皇子 | 540沙宅積德 | 580沙宅智積 | 沙宅軍善614-669 |
中臣氏系圖に御食子の兄二人りがあります. 國足, 金, 渠每とその後孫の活動年代を勘案すると國子と糠手子は御食子の兄との見当がつく. 543年頃沙宅氏が生れたら645年乙巳の変まで100年位いですが丹比公と偉那公がいつ誰から始ったか確かでない.
書紀宣化紀; 上殖葉皇子(かみゑはのみこ)亦名椀子(まろこ) 是丹比公偉那公凡二姓之先也 |
兩氏の分岐は7世紀中半頃のようです. 650/2/15 白雉元年の伊勢王(1)と猪名公高見は629年舒明天皇卽位以後倭に來たでしよう. 皇極天皇は沙宅積德の娘であるから皇極天皇, 伊勢王(1)と猪名公高見はみんな沙宅家門出身のはずです. 多治比真人になるのは多治比嶋(=伊勢王(3))からです. 威奈(猪名)真人になるのは威奈大村だったでしょう.
多治比真人系譜
宣化天皇467-539 | 510上殖葉皇子 =伊勢大鹿首小熊 | 540沙宅積德 550菟名子夫人 | 570中臣國子 575田村皇女 |
伊勢王(1)600?-661 =多治比古王 = 中臣國足 | 伊勢王(2)与其弟王接日而薨630?-668 伊勢王(3)=多治比嶋630?-701 | 多治比池守661-730 |
猪名真人の系譜
宣化天皇 | 上殖葉皇子510 | 540沙宅積德 | 570中臣糠手子 |
猪名公高見 600?-672 =中臣渠每(許米) | 630威奈鏡公 額田姫王-天武妃 | 威奈大村 662-707 |
參照 中臣氏略系圖; 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
藤原鎌足の長子, 定惠(643-666)は653年5月に出家し学問僧として遣唐使に従って入唐する. わずか11歳の時の事でした. 彼と共に中臣渠毎連の息子・安達が共に行く. 『藤氏家伝』によれば定惠は665年9月唐の劉徳高の船に乗って帰国するが同年12月23日奈良県高市郡明日香村小原で23歳で亡くなった. 百済人にその才能を妬まれ毒殺されたとある.
黑田くろだ 467-539 | 常磐ときわ510 伊禮波いれは | 可多能祜540 かたのこ | 御食子みけこ 580小徳冠 | 鎌足614-669 | 定惠643-665 不比等659-720 |
定惠を毒殺した百済人が誰だったかは言っていない. 百済の沙宅氏3兄弟の后裔が倭の中臣氏を名乘る. 伊勢王(1)と猪名公高見は皇極天皇を奉る. 倭進出で遲れていた沙宅軍善は乙巳の変を通じて皇極天皇を逐出, 權力を握る. そして沙宅氏內部の權力鬪爭がただならぬ樣相を呈する.
665年23歳の定惠が歸國するや危機を感じた伊勢王(2)の兄弟が定惠を毒殺してしまう. 伊勢王(2)の兄弟は668.6處刑された. 669年鎌足が死ぬ時鎌足の後繼者不比等(659-720)は11歳にすぎなかった.
伊勢王(1)(600?-661)の子
伊勢王(2)兄弟630?-668 處刑 | 伊勢王(3)=多治比嶋630?-701 | 中臣意美麻呂640?-711 |
不比等が成年になって藤原家門を繼ぐまで保護者が欲がった鎌足は妥協の途を探す. 鎌足は中臣國足=伊勢王(1)の子, 中臣意美麻呂(640?-711)と娘の斗売娘を婚姻させる. 中臣意美麻呂は叔父藤原鎌足の娘, 斗売娘を娶って婿養子となり鎌足の実子である藤原不比等が成人するまで藤原氏の氏上であったといわれている. 中臣意美麻呂は鎌足の遺志を繼いて一生懸命藤原氏の氏上の役を務めた.
-おわり -