2021년 10월 26일 화요일

119. 皇極天皇の家筋を捜す



紀は皇極天皇出自で“天豊財重日足姫天皇は 渟中倉太珠敷天皇の曾孫 押坂彦人大兄皇子の孫 茅渟王の女なり.”としていますが下で見るように時間軸の上で矛盾でございます. 


敏達天皇

押坂彦人大兄皇子

茅渟王(+吉備姬王)

皇極天皇(斉明,宝皇女)

538-585

570-599

架空の世代(矛盾)

594 - 661


茅渟王は押坂彦人大兄皇子の子ではなく, 倭の歷史に書けない不思議な人物のようです. 宝王は593年田村皇子を産んだ. 舒明の母と名前が似ている舒明天皇の皇后は宝皇女という.しかし上の系譜に矛盾 があったら皇極天皇はどこから來たか. 宝皇女の父は彦人大兄皇子でもないし茅渟王でもない. なぜ書紀はわざわざ噓を言ったのか. 舒明天皇の皇后になった宝皇女の家筋を捜すのがこの書の狙いでございます. 


舒明天皇の母の田村皇女は伊勢大鹿首小熊の娘の娘です.

510 伊勢大鹿首小熊

550 菟名子夫人

570 糠手姫皇女(宝王,田村皇女)

593 舒明天皇

(田村皇子)


舒明二年(630.01.12)宝皇女を立てて皇后とす. 宝皇女とは皇極天皇の諱です. 舒明母は宝王(田村皇女), 皇極天皇は宝皇女である. ここで伊勢という地名がでる. 661.7.24 皇極天皇(宝皇女)崩于朝倉宮の直前661.6 伊勢王薨そして668.6伊勢王与其弟王接日而薨とある. 


皇極天皇の周辺

伊勢大鹿首小熊の娘

菟名子夫人

550年代生れ

宝王(田村皇女) 舒明母

570 年代生れ

661.7.24皇極天皇(宝皇女)崩于朝倉宮

661.6 伊勢王薨

668.6伊勢王与其弟王

接日而薨


書紀で伊勢王が登場するのは下のようで世代區分なしに伊勢王となっている. 


伊勢王に関する書紀の記述年順

650/2/15 白雉元

伊勢王(1)白雉改元の御輿を担う (600?-661)

661/6  斉明7

伊勢王(1) (600?-661)

668/6  天智7

伊勢王(2)弟王、日接し薨す (630?-668)

683/12/13天武12

諸王五位の伊勢王(3),大錦下の羽田公八,小錦下の多臣品治,小錦下の中臣連大嶋 天下を巡行

684/10/3天武13

伊勢王(3)たちを派遣して諸国の境を定めさせました

685/10/17天武14

伊勢王(3)等、亦東国に向る。因りて衣袴を賜ふ

686/1/2天武15

無端事で伊勢王(3)、亦得實、卽賜皁御衣三具・紫袴二具・絁七匹・絲廿斤・綿卌斤・布卌端

686/6/16天武15

伊勢王(3)飛鳥寺に派遣さる

686/9/27天武15

次に浄大肆の伊勢王(3)は諸王のことを誄しました

688/8/11持統2

淨大肆伊勢王(3)を命して、葬儀を奉宣はしむ


伊勢王の登場は10回ですが3人の足跡ではないか考えられる. 661.6 伊勢王(1)は650/2/15 白雉元年の伊勢王(1)と同一人で, 668.6の伊勢王(2)は661.6伊勢王(1)の二人の子をさすようです. 伊勢王家門は皇極天皇と互いに強いつながりを持った関係でありそうな気がします. 


世代別區分

伊勢王(1) 600年代?-661

伊勢王(2)与其弟王630?-668

683-688伊勢王(3)は誰?

後孫は?


683年から688年まで7回も登場する伊勢王(3)は天武天皇の重臣のようですが名もないただの伊勢王(3)である. 彼の活動年代をみると668年死んだ伊勢王与其弟王と同じ世代のようです. 688.8 命淨大肆伊勢王(3)奉宣葬儀まで登場するがそのあと書紀に伊勢王の便りはない. 


683.12.13伊勢王(3)国の境堺を限分ふ

686.9『淨大肆伊勢王(3)誄諸王事

688.8 命淨大肆伊勢王(3)奉宣葬儀


684年天武天皇は13氏に姓を与えて真人と言うようになったがその中に伊勢王は含まれていない. 


天武13(684.10.1) この日に守山公・路公・高橋公・三国公・当麻公・茨城公・丹比公・猪名公・坂田公・羽田公・息長公・酒人公・山道公13氏に姓を与えて真人と言うようになりました。


皇極天皇と斉明天皇を同じ人に造るため皇極の家筋を隱す, それが書紀の一貫した狙いだったでしょう. そしてなにも說明しないで伊勢王は消えて終う. 代わりに外の人が知んぷりしながら現れる. 誰であるかご存じですか. 多治比嶋(630年代-701)こそ伊勢王(3)の姿でございます. 690年伊勢王(3)は消えてなんの說明もなしに右大臣多治比嶋が現われる. 


多治比嶋

主君

官位

氏族

天武天皇持統天皇文武天皇

630年代 - 701

​​正二位・左大臣

多治比公多治比真人

多治比古王(丹比麻呂)

池守、水守、縣守、広成、広足、阿伎良


伊勢王(3) = 左大臣多治比嶋

661.6 伊勢王(1)

661.7.24天皇崩于朝倉宮

668.6伊勢王(2)与其弟王、接日而薨

683.12.13伊勢王(3)国の境堺を限分ふ

686.9淨大肆伊勢王(3)誄諸王事

688.8 命淨大肆伊勢王(3)奉宣葬儀

690.多治比嶋右大臣 = 伊勢王(3)

697. 多治比嶋左大臣に任官

701正二位左大臣



天武天皇は伊勢王(1)の子であるから多治比嶋を重用した. それは皇極天皇に對する愛と義理を返すためだったと思われる. 天武天皇は631年豊璋という名で生れた以降皇極の懷で育ったので皇極天皇に格別な愛情を持ていたらしい. しかし乙巳の変以來廢位幽閉殺害され家筋までなくなってしまった. 皇極天皇が護られなかったことに天武天皇はいつも罪意識を持っていたでしょう. 


多治比真人系譜 

宣化天皇467-539

510上殖葉皇子

伊勢大鹿首小熊

540子未詳

550菟名子夫人

570子未詳

575田村皇女

伊勢王(1)600?-661

=多治比古王

伊勢王(2)与其弟王、接日而薨630?-668

伊勢王(3)=多治比嶋630?-701

多治比池守661-730



書紀は上殖葉皇子についてなにも記錄していないが彼は6世紀百濟と倭に大きな足跡を残した人だったと思われる. 欽明紀初頭秦大津父(はたのおおつち)の話の中, 「私が伊勢からの商いの帰りに...」とありますが上殖葉皇子のことじゃないかとの氣がします. 欽明天皇と上殖葉皇子は同年輩で血緣的に從兄弟だったでしょう. 


天武12年(683.12.13)  諸王五位伊勢王(630?-701), 大錦下羽田八(?-686), 小錦下多品治(640?-696)は、小錦下中臣大島(630?-693)と共に部下を引き連れて全国を巡り、諸国の境界を定めた。


壬申の乱で功績の記錄なしで功臣のように扱われるのは多治比嶋(630?-701)と中臣大島(630?-693)の二人りです. 全国を巡り諸国の境界を定めた4人は天武天皇の格別な信賴を受けたでしよう. 大錦下羽田八国は壬申の乱の中, 大友皇子側から大海人皇子に寢返りした人ですが伊勢王(3), 多品治, 中臣大島は元より皇極天皇の近親だったと考られる.


すると中臣大島はどうして特別な扱いを受けたのか? 猪名公高見の子であるからです. 中臣大島の父は中臣氏と猪名(威奈)氏の兩系譜に名前が要る. そんなとき兩系譜に中臣大島の父の名前を豫め別別にしてしまえば迷路のようになって眞相を解り難い. 渠每(許米)は中臣大島の父であるが威奈鏡公の父でもある. ここで威奈鏡公の父の名前を猪名公高見(600?-672)としたので中臣氏と猪名(威奈)氏が同祖であるのに氣付く. 


書紀宣化紀; 上殖葉皇子(かみゑはのみこ)亦名椀子(まろこ) 是丹比公偉那公凡二姓之先也


2世紀の天児屋命を祖神とする中臣氏はいるかいないか分からない位いの氏だったのに7世紀中葉中臣鎌足出現以來突然中臣氏系譜は賑やかになる. なぜ中臣氏系譜がいきなり活気をもたらしたかご存じですか? 7世紀中葉百濟の沙宅氏が倭に集團移住して中臣氏を名乘ったからです. そして沙宅-多治比-威奈(猪名)-7世紀以後の中臣氏は同祖になりました. 歷史とはそんなもんですよね.


中臣大島

主君

官位

氏族

天武天皇持統天皇

630年代 - 701

直大弐・神祇伯

中臣連中臣朝臣藤原朝臣中臣朝臣

中臣渠

馬養


宣化天皇の上殖葉皇子は多治比真人と猪名真人の先祖である. 猪名真人の系譜は;

宣化天皇

上殖葉皇子510

540未詳

570未詳

猪名公高見 600? – 672

=中臣渠每(許米)

630威奈鏡公

額田姫王- 天武妃

威奈大村  662– 707



伊勢王(1)と猪名公高見は上殖葉皇子の曾孫で皇極天皇の近親だったでしよう. 豊璋, 伊勢王(1)と猪名公高見が一緖に登場する場面がある. 孝徳紀白雉元年(650.2.15)雉子の輿・賀を奉るの記事です. いろいろ論亂の餘地がある記事ですが豊璋, 伊勢王(1)と猪名公高見が一緖に登場したら皇極天皇の治世であるんじゃないかと考えられる. 日本書紀は白雉元年(?)なんか筋違いの話をしている. . 


伊勢王(1)と猪名公高見が一緖に登場するのは兄弟であるからです. 額田姫王は宝皇女(皇極)の近親であるので幼い時からお互いに往ったり来たりしたにちがいないです. 豊璋と額田姫王はほとんと同じ歲で子供の頃から共に遊んだでしょう. 天武天皇初娶鏡王女額田姫王 生十市皇女.


日本書紀 天智紀(661.9) 皇太子長津宮に御す。織冠を以て百済の王子豊璋に授けたまふ。復多臣蔣敷の妹を妻す。


661年9月豊璋が多臣蔣敷の妹と一緖に百濟に行く. 豊璋は662年百濟にあったはずです. 多臣蔣敷の妹とは大田皇女のことで大田皇女は663年大津皇子を生んだ. 大田皇女は662年豊璋と一緖に百濟にいたのは確かでしょう. 大田皇女は天智天皇の皇女との系譜がありますが實は多品治の妹であった. 大田, 大來, 大津の「大」は「多」の意味のようです. 多品治家門も皇極天皇の近臣だったと見えます. 


大田皇女643-667

多臣蔣敷=多品治640-696

大來皇女661-701

大津皇子663-686


宝皇女の家筋を捜すためには百濟の情報もいります. 百濟と倭は別別の國であったとの前提で三國史記, 日本書紀が編纂されたがじつのこというと百濟と倭の関係ではそんなに簡單な問題でありません. 三國史記百濟末期の王后の記錄はないものの日本書紀記錄を元に百濟王后を下表のように推定します.


百濟王后推定


王后名

王子

王后父

王后祖

王后曾祖

武寧王

462-523

480

手白香皇女

, 純陀

仁賢天皇

440-489

辺押磐皇子410-456

履中天皇380-432

聖明王 500年代-554

510

箭田珠勝大兄

530-598(=餘昌)

宣化天皇

467-539

蓋鹵王

430-475

毗有王412-455

威德王 530年代-598

550

広姫(阿佐母)

押坂彦人大兄

570-599(=阿佐)

520息長真手王

490?

460?

威德王

550

菟名子夫人

宝王

( 田村皇女)

510伊勢大鹿首

小熊

宣化天皇

467-539


阿佐太子

570-599

575

宝王(田村皇女)

田村皇子

593-661

威德王

530-598

聖明王

500-554

武寧王

462-523

武王 570年代-640

580沙宅種善

未詳

540沙宅積德

510沙宅己婁

上殖葉皇子

宣化天皇467-539

舒明天皇

593-661

宝皇女

594-661

無嗣

540沙宅積德

510沙宅己婁

上殖葉皇子

宣化天皇467-539


驚いたことに宣化天皇が4回も現われる. 血統を重視する百濟王家が宣化天皇の後裔を王后と選ぶ理由があったはずです. 宣化天皇が武寧王の異母弟であるのはご存じですか. 


萬世一系という前提を持つ日本書紀を參照したので混乱があるのは当り前だと思う. 日本書紀の系譜受容は批判的視覺が要ります. たとえば継体天皇の系譜の2と3の関係は眞, 1と2-3の関係は假と判斷します. 百濟王后を調べるのは宝皇女の家筋を完結するのに要るからです. 


1. 継体天皇450-531

2. 手白香皇女を立てて皇后

3. 国排開広庭尊510年代-571


おわり