吉備上道臣の田狭が任那の国司に任じたのは AD 440年頃で田狭臣は稚媛を妻として兄君と弟君を生んでいた. 田狭を任地に遣わした權力者は稚媛を奪って磐城と星川皇子を生んだ. 日本書紀は雄略天皇の仕業としているが雄略はAD 440年頃10代にすぎないので雄略である可能性はない.
AD 453年允恭毒殺, 456年安康暗殺, 雄略登場そして退場, 460年吉備臣の謀叛までの乱世が続く. 461年軍君はその混乱を片付けるために倭にやって來た.
吉備臣の謀叛 -- 半島亡命
同年。吉備上道臣の田狭:タサが宮の御殿で近侍している時、友人に稚媛のことを自慢し、「天下に美人はたくさんいるが、俺の妻にはかなわない。顔は整い、笑顔は輝き、化粧の必要もない。まさに絶世の美女だ」と語った。天皇は聞き耳を立て、内心でニヤリと笑うと、どうにかしてその稚媛を手に入れようと考えた。そして田狭を任那の国司に任じた。しばらくして、天皇は稚媛を招き入れた。
田狭は任地に到着した後になって、天皇が自分の妻を奪ったことを聞き、新羅を味方につけて対処しようと考えた。田狭臣は稚媛を妻として兄君と弟君を生んでいた。<別の本では、田狭臣の妻の名は毛媛といい、葛城襲津彦の子の玉田宿禰の娘であるという。
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吉備上道臣の田狭(410); 任那の国司
吉備上道臣の娘とも
吉備窪屋臣の娘
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田狭 410
稚媛 420
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兄君440
弟君
磐城皇子
星川稚宮皇子 440
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星川皇子の乱
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別の本 玉田宿禰の娘
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毛媛420
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AD 461
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AD 460年頃雄略天皇は失脚して囹圄の身であった. その天皇空白期に星川皇子が即位を狙って吉備と河内の軍を動いた. 日本書紀の雄略条は殆ど架空の記錄で古事記の粗末な記錄がかえって事実に近い. 雄略の治世はせいぜい 1-2年位いで終わったでしょう. 記紀はたくさんの虛構を含んでいることには肯く人さえ記紀と異なる主張には目を背ける傾向があるので心細い.
雄略七年の八月...吉備下道臣の前津屋:サキツヤは虚空:オホゾラを留め、しばらくの間、都に戻らせなかった。<ある本では、国造である吉備臣の山:ヤマであるという>...天皇はその報告を聞くと、物部の兵士三十人を派遣し、前津屋とその同族七十人を討伐させた.
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日本書紀 清寧天皇 即位闘争 - 星川皇子
雄略二十三年の八月。雄略天皇が亡くなられた. この時、吉備出身の稚媛は幼い星川皇子に、「即位を狙うなら、まず大蔵を手に入れなさい」と告げた... これを見た大伴の室屋大連は東漢〔やまとのや〕の掬直〔ツカノアタヒ〕と、軍勢を集めて大蔵を囲むと、火を放って焼き殺した。この時、吉備の稚媛と、前夫との間の子である兄君、城丘前来目の者<名は欠落>も星川皇子とともに焼き殺された。
また、河内の三野県主の小根〔ヲネ〕はびびって逃げ出し、攻撃側の草香部吉士の漢彦〔アヤヒコ〕の脚にしがみついて、「私が星川皇子の家来だったのは事実です。ですが皇太子に背くつもりはありませんでした。どうか命だけは」と嘆願した。漢彦は大伴の室屋大連に詳しい事情を伝え、それで処刑者から外すこととなった。小根は漢彦を介して大連に感謝を述べ、難波の来目邑〔くめのむら〕の大井戸〔おほゐへ〕の多くの田地を大連を献上し、また漢彦にも田地を献上した。
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星川皇子の乱はAD 461年倭に來た軍君が收拾しなければならない任務であった. 処刑されたのは;
吉備の稚媛
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前夫との子の兄君
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河内の城丘前来目の者
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星川皇子
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その時, 河内の三野県主の小根〔ヲネ〕は逃げ出し難波の来目邑〔くめのむら〕の大井戸〔おほゐへ〕の多くの田地を大連を献上し命を嘆願した. 難波の来目邑の大井戸は和泉国日根郡にあった地名で現大阪府大阪市住吉区遠里小野町. 當時和泉国日根郡にあった来目邑に因んで城丘前来目の者とよばれる. AD 487年爾林〔にりむ〕で戦死した紀岡前久目連は城丘前来目の者の子の世代である.
小根の父は根で普通, 父を根使主, 子を小根使主とよぶ. 城丘前来目の者とは根使主で父子が稚媛と協力したことになる. 根使主の処刑についての前後記事は虛構と見ていいですがただ一つの事実がある.
根使主は逃亡し、日根:ひね(旧日根郡)に稲城を造ったが、軍勢によって討伐された
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AD 461年星川皇子の乱の時, 城丘前来目の者卽ち根使主と小根は逃げ出し自分の根據地であった日根まで來て抵抗したが根使主は死亡, 小根は命を嘆願して生き殘った. あちこち羅列された事件の破片の編年はいい加減に付いているので眞じめに受取る必要はありません. 安康元年と雄略十四年根使主記事は 461年星川皇子の乱に參與したから城丘前来目の者を処刑したとの記事の重復に過ぎない.
安康天皇条 根使主
元年の春二月。天皇は大泊瀬皇子の縁談相手として、大草香皇子の妹の幡梭:ハタビ皇女に目をつけた。そして坂本臣の祖先の根使主を派遣し、大草香皇子に、「どうか幡梭皇女を大泊瀬皇子の妻とさせたい」と伝えさせた。大草香皇子は、「願ってもない話です。感謝の印しとして、私が家宝とする押木珠縵:おしきのたまかづらを献上しましょう」と語った。
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根使主の処刑
雄略十四年夏四月。天皇は呉の客人を歓待するに際し、群臣たちは根使主を食事の接客係に 推挙した......根使主は、「おっしゃる通りです。すべては私の罪です」と白状した... 根使主は逃亡し、日根:ひね(旧日根郡)に稲城を造ったが、軍勢によって討伐された. 根使主の子孫は後に坂本臣となった。
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AD 461年軍君が星川皇子の乱を收拾する過程で現れた河内の根使主の家系は次のようです. 一人にいくつの名前を付けたので記紀は難しい. (參照 114. 反逆の家系 - 爾林城から馬津城まで)
根臣 410 - 461
城丘前来目の者
坂本臣の祖先
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小根使主 440 - 487
紀岡前久目連
那干陀甲背
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近江の毛野臣470 - 530
加猟直岐甲背
鷹奇岐弥ようがきみ
為哥可君
爲哥岐弥 有非岐
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阿賢移那斯500 - ?
近江の毛野の若殿
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こうなると根臣は誰の子でしょうか. 記紀は根臣の祖先について沈默した. 雄略条即位闘争のところで円大臣 (都夫良意富美)がでる. AD 456年大臣と黒彦皇子, 眉輪王の三人は焼死したとのことである.
黒彦皇子は疑いが向けられていることを恐れ、ひそかに眉輪王を連れ出し、円大臣の屋敷に逃げ込んだ。大泊瀬皇子が使者を出して引き渡しを求めると、大臣は使者に、「坂合黒彦皇子と眉輪王は、私ごときを頼り、家来の屋敷を訪れました。どうして引き渡すことができるでしょう」と返答した。
そこで大泊瀬皇子はさらに軍勢を集めて屋敷を囲んだ。大臣は庭に出て、袴をしばる紐を探した。...
大臣は身なりを整え終えると、大泊瀬皇子の前に進み出て平伏し、「私はたとえ討伐されようと、御命令には従いません。ただ一つだけ、お願いがあります。私の娘の韓媛と葛城にある七つの所領を贖罪として献上しますので、皇子たちはお助けください」と懇願した。しかし大泊瀬皇子は申し出を認めず、火を放って屋敷を焼いた。大臣と黒彦皇子、眉輪王の三人は焼死した。
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履中天皇二年(AD 420年頃)重臣として国政を行った人達ちを見ると末席の円大使主は390年代の人であるのでは?
木菟宿禰(350 - )
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蘇賀満智宿禰 (380 - )
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物部伊呂弗大連
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円大使主 (390 - 456)
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葛城円大臣を玉田宿禰の子とすると矛盾がある. 葛城曾都毘古の後裔を時代的整合性を持つように整えると葛城襲津彦の子は葦田 - 玉田 - 円の三人になる. 玉田宿禰は古事記にはない.
葛城曾都毘古 360 年代
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葦田宿禰 390 年代
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蟻臣の妹荑媛 420年代
(市辺押磐皇子妃)
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飯豊皇女 440 年代
(斯痲王母)
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玉田宿禰 390
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毛媛 420
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磐城皇子 440
星川皇子 440
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葛城円大臣 390
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葛城韓媛 430
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黒比売 (履中妃) 390
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市辺押磐皇子410-456
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葛城磐之媛 360(仁德妃)
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履中天皇 380
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玉田宿禰と円大臣の処刑は同じ事件である. 惡い役を二人に分散し中性的系譜では葦田と表記しただけで
襲津彦の子は葦田宿禰ひとりである. すると葦田宿禰はいつ処刑されたのか.
葦田宿禰
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記紀の系譜記錄に登場. 蟻臣の父, 娘の黒媛が履中天皇の妃. 記は襲津彦の子とする.
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玉田宿禰
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記になし. 紀允恭条捕えて殺させた. 紀毛媛は玉田宿禰の娘. (処刑)
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円大臣
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記雄略条自腹, 紀雄略条焼き殺される. (処刑)
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AD 456年眉輪王(目弱王)が熟睡中の安康天皇を刺殺したあと円大臣の宅に逃げ込んだが、大泊瀬皇子(後の雄略天皇)の兵に攻められ、大臣の助命嘆願も空しく、焼き殺されたという。記はその時眉輪王7歳としているが実は30代半ばであった. 円大臣はこの事件に絡まれていたでしょう.
仁徳天皇 350 年代
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大草香皇子 390 年代
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眉輪(まよわ)王 420 年代
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葛城襲津彦の後裔はAD 456年安康天皇暗殺を主導し461年星川皇子の乱にも參與する. 仁徳妃, 履中妃, 市辺押磐皇子妃を輩出しながら子子孫孫可笑しい徑を辿る. (參照 113. 葛城襲津彦の正体)
360年代
葛城襲津彦
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456年
安康暗殺
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461
星川の乱
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487
爾林の役
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530
安羅會議失敗
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554
百濟聖王戰死
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円大臣処刑
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根使主処刑
城丘前来目者
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紀岡前久目連 小根使主戰死
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近江の毛野臣
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阿賢移那斯?
毛野の若殿
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- おわり -