2018년 3월 1일 목요일

104. 黒塚古墳の被葬者は誰


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倭の古代史の黎明は奈良盆地から始まる. 東西に約15キロメートル, 南北に約30キロメートル, 約 300km2  の面積を持つ. 奈良県北中部に位置する天理市は1954年市制により当時に一帯に普及していた「天理教」に由来する市名である

黒塚古墳は 奈良県天理市柳本町にある 全長約130メートルの前方後円墳で高さ約11メートル前方部がバチ型で前期古墳の特徴を持っている. 周濠あり葺石や埴輪は未確認. 1997年奈良県立橿原考古学研究所が行った発掘調査で三角縁神獣鏡33面と画文帯神獣鏡1面が副葬当時に近い状態で発見された. 築造年代は3世紀末~4世紀前半の古墳時代出現期の古墳で古墳時代前期の箸墓古墳より先行する.

天理市は黒塚古墳の周濠だったと考えられる池の東畔の柳本公園内に2002年天理市立黒塚古墳展示館を開設した. 館内は1階の吹き抜け下に黒塚古墳の石室が原寸大(長さ8.3m)模型で再現されており2階の吹き抜け上から1階の石室全体を見渡すことができる.

黒塚古墳からは竪穴式石室と割竹形木棺が出土した. そして 34面の鏡、鉄刀、鉄剣、鉄槍など200点以上の鉄製品が発掘されたが、その中に用途不明のU字型鉄製品と呼ばれる、非常に特異な遺物が出土した. これは、大小2本の鉄棒をU字型に曲げたもので、それに付随するように、V字型の鉄製の管がいくつも見つかった. 鉄製の管にヒモを通して、U字型鉄製品に結びつけていたのでしょう. また全長40cmの棒状鉄製品が近くから8本出土し、一端には木柄を接続したのか、木材痕跡が確認できた. これはおそらく、支柱として使われたものでしょう. さらに全体に絹繊維が付着していたことが確認された.

これは難升米が魏よりもらった「黄幢」ではないかとの考えがある。三國志魏志倭人傳の黄幢關聯記事を見ましょう.

景初二年(238年)六月 倭の女王が大夫の難升米らを派遣して帯方郡に詣で天子に詣でて朝献することを求めた.
正始四年(243年)倭王は再び大夫の伊聲耆 掖邪狗ら八人を遣使. 
正始六年(245年)詔を以て倭の難升米に黄幢を賜り帯方郡に付託して仮授せしめた.
正始八年(247年)帯方郡は長城守備隊の曹掾史である張政らを派遣し、詔書、黄幢をもたらし、難升米に拝仮させ、檄文を為して、(戦いを止めるように)これを告諭した.

難升米が238年朝献, 243年倭王難升米が東征中 伊聲耆 掖邪狗らを遣使して東征の名分と狀況を報告したので魏皇帝は難升米が倭王になったのを承知していた. 245年魏皇帝は倭王の難升米に黄幢を賜り帯方郡に付託して仮授せしめた. 247年張政らを派遣し、詔書、黄幢をもたらし、難升米に拝仮させ、檄文を為して、これを告諭した. 245年の支配者になった 難升米が 247年張政から黄幢を拝仮したのは明白な史實である.

三國志魏志倭人傳西紀247年記事は”…更新して男の王を立てるが、国中が服さず、更に互いが誅殺しあい、当時は千余人を殺した。再び卑彌呼の宗女「壹與」を立てる。十三歳で王となると、国中が遂に鎮定した.”とある. 247年の記事は時期がなる幾つの記事が混じっている. この記事は張政らと繫がりのない大體256年頃の時点であって, 卑彌呼の宗女「壹與」という13歲の少女が合意によって卽位するようになったらしい. 

AD 256年頃, 難升米に最後の瞬間がやってくる. 63位いの歲である. 難升米の35歲位いの長子が王位を繼ぐとしたが, 倭の王妃側は九州勢力の卽位を認めない. そして倭の先住勢力が難升米の長子を殺し兩勢力は互いに誅殺しあい, 大勢の人達が殺された. 

難升米は倭の初代王であって, 難升米に續いて「壹與」という13歲の少女が合意によって卽位したのは256年頃である. 256年頃十三歳の「壹與」を王に立てたとすれば壹與は243年頃の生れでしょう.

黒塚古墳の被葬者は魏皇帝の黄幢とどんな繫がりのある人物だったのか.

日本書紀では孝昭天皇の息子に天足彦国押人命 (古事記での天押帯日子命)という皇子がいて、その皇子は和珥臣等の始祖であるとした. 古事記では開化天皇は春日之伊邪河宮において天下を治めた. この天皇が丸邇臣の祖である日子国意祁都命の妹、意祁都比賣命を娶って生んだ御子は日子坐王である. 春日之伊邪河宮の伝承地は、奈良県奈良市本子守町の率川神社で現奈良公園のそばである. 黒塚古墳がある天理市柳本公園から奈良市率川神社まではJR西日本 桜井線の柳本 - 長柄 - 天理 - 櫟本 - 帶解 - 京終 - 奈良驛がありまして總距離14.3 kmになります. 

丸邇(和珥)臣は天足彦国押人命または日子国意祁都命を始祖とするらしい. 日本姓氏家系大辭典 和邇氏系図は下のようですが, 年代を隨伴しない系図は別に役に立たない.

天足彦國押人命
和邇日子押人命
彦国姥津命
彦国葺命
大口納命

記紀に基づいて年代を對照しながら下のように和邇氏系図を補完する. 日本姓氏家系 和邇氏系図の彦国葺命は比古由牟須美命と同じ世代であるようだ. 古事記は天押帯日子命は、春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壱比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢飯高君、壱師君、近淡海国造の祖である.”と尨大な氏族 を列擧した.

AD 220
AD 245
AD 270
AD 295
AD 320
天押帯日子命(1)
日子国意祁都命(2)
比古由牟須美命(3)
倭建命(4)
品陀和気命(5)

和珥臣等の始祖である天押帯日子命は卽位したことはない. なぜかすると彼は20代の歲で死んだからだ. 神武東征の時,  弟の密告で死んだ兄宇迦斯が天押帯日子命である. 日子国意祁都命は 240年頃生れたばかりで父をなくした. 兄を密告し死なせた大倭帯日子国押人命は神武治世で功臣になった. 彼が後の孝安天皇である. 日子国意祁都命は幼い時から叔父を眺めながら育った. 日子国意祁都命の子は下のようで比古由牟須美命が長男である. 妃每に子供一人だけが記錄されているのは日子国意祁都命が長生きできなかったことに繫がるでしょうか.

古事記 日子国意祁都系譜
竹野比賣
比古由牟須美命
旦波之大県主、名は由碁理の娘
鷲比賣
建豊波豆羅和気
葛城之垂見宿禰の娘
若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)
日子坐王 (彦国葺命)
孝元天皇の娘

日子坐王 (彦坐王)は開化の皇子で玖賀耳之御笠を殺したと古事記にあります. また記紀に丸邇臣の祖とする日子国夫玖命 (彦国葺)日子国意祁都命の皇子で武埴安彦命の反乱時, 武埴安彦命を殺した. ここで日子坐王 (彦坐王)日子国夫玖命 (彦国葺)同一人と見るべきで, 日子国意祁都命と開化は夫婦だったことになります. 開化天皇は女性だった. 古事記開化天皇系圖は夫である日子国意祁都命の系圖と見るのが合理的でしょう. 開化が生んだのは日子坐王(彦国葺命)だけです. 

日子坐王 (彦坐王)
開化の皇子
玖賀耳之御笠を殺す (AD302)
日子国夫玖命 (彦国葺)
日子国意祁都命の皇子
武埴安彦命の反乱鎮圧 (AD287)

開化の記錄が改ざんされた訳は三國志魏志倭人傳の「壹與」と絡んでいつのことかばれるのを避けるためでしょうげどそこにもっと大事な狙いがあります. 和邇氏とは天皇家の主流でございます. 和邇氏(1) 代から(5) 代までの血統が著しく露出されないように工夫して歷代天皇の系図が考案された. 記紀には丸邇(和珥)臣の始祖である天押帯日子命 -日子国意祁都命 -比古由牟須美命の事績に関する記載もない.  また倭建命は景行の子, 品陀和気命は仲哀の子に改ざんされて, 初期の丸邇氏5代の系図はばらばらになってしまった.

大倭帯日子国押人命は姪の忍鹿比賣命を娶った. 忍鹿比賣命は天押帯日子命の娘で日子国意祁都命の妹であるから神武 死後にも大倭帯日子国押人命は健在したことになる. 壹與の亭主になった日子国意祁都命は父の死に叔父が絡んでいるので叔父に恨みを抱いていたでしょう. 二人はお互に油断できない相對だったにちがいない. いつ日子国意祁都命がなくなったかについての記錄はない. 當時の歷史の流れを類推して280年頃死亡したのではないかと想像するばかりである. 彼の死に叔父がまた絡んでいる可能性はあるかどうかは分らない. 可能性の根據は間もなく開化もなくなって孝安天皇が卽位し たからです. 奈良県桜井市大神神社の主祭神, 大物主神こそ大倭帯日子国押人命である.

https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1IF8spFsNF_6JQAIe_S1Bzgpuw2IsYL-L&usp=sharing

280年頃死亡した日子国意祁都命は当代倭王の夫である. 神武天皇治世の中, 魏皇帝の黄幢は神武の自信と誇りだったで しょう が,  神武が死んだあと, 血統の繫がりのない壹與の政權でこの黄幢の威光も薄らいで行く. 絹繊維は色褪せて鉄製品は銹つくばかり. 280年頃になると誰も黄幢のことなんか覺えていないから副葬品として埋葬されるにいたる.

神武東征の時, 死んだ天押帯日子命を惜しんできた家門の人達は彼の唯一人の子の死に當って愕然したにちがいない. 三人の子があるげど長男の比古由牟須美命はまだ10歲に過ぎないからだ. 風前の灯火の運命であったこんな暗鬱な時代を丸邇氏は通り拔いて古事記が列擧した尨大な氏族になったのはいつのことであるかご存じですか?  

家門の人達は日子国意祁都命の弔いで亡き人の死を悲しみ、偲び、哀悼の気持ちを表してお供えの銅鏡を捧げる. 擧國的関心を起した哀悼の波で34面の銅鏡が集まった. この銅鏡は亡き人と共に黒塚古墳で眠りについて1997年タイムカプセルのように副葬当時に近い状態で発見された.

   -  おわり –