2018년 7월 9일 월요일

106. 天武天皇の生涯


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天武天皇は673年から686年まで在位した40代天皇である. 諱を大海人(おおあま)とするが日本書紀に大海人の名が出るのは系譜の記錄だけで事績と動静に関する記載は全く伝わっていない. 天武天皇の出生年についても日本書紀には記載がない.

大海皇子系譜での記錄
舒明2年 (630)
大海皇子 (一度限り)
立寶皇女爲皇后 三曰 大海皇子 淨御原宮御宇天皇
天武紀 (672)
大海人皇子 (一度限り)
天武帝の幼名は『大海人皇子』だった

645年6月12日, 乙巳の変で權力を掌握した中大兄皇子の專橫ぶりに遮られ, 名前無しの皇弟又は大皇弟等と日本書紀に記錄されたのが天武の動静である.

大海皇子動静及び号称
白雉4年 (653)
皇弟
太子奏請曰欲冀遷于倭京, 天皇不許焉, 皇太子乃奉皇祖母尊, 間人皇后, 并率皇弟等
白雉5年 (654.10)
皇弟
皇太子聞天皇病疾, 乃奉皇祖母尊, 間人皇后, 并率皇弟, 公卿等. 赴難波宮
天智3年 (664.2)
大皇弟
天皇命大皇弟, 宣増換冠倍位階名及氏上, 民部 家部等事. 其冠有二十六階
天智7年 (668.5.5)
大皇弟
天皇縦猟於蒲生野. 于時大皇弟. 諸王. 内臣. 及群臣皆悉従焉。
天智8 年 (669.5.5)
大皇弟
天皇縦猟 於山科野. 大皇弟, 藤原内大臣, 及群臣,皆悉従焉
天智8 年 (669.10.15)
東宮大皇弟
天皇遣東宮大皇弟於藤原内大臣家. 授大織冠与大臣位. 仍賜姓為藤原氏.自此以後. 通曰藤原内大臣.
天智10年 (671.1.6)
東宮太皇弟
東宮太皇弟奉宣〈或本云大友皇子宣命〉施行冠位, 法度之事. 大赦天下〈法度, 冠位之名. 具載於新律令〉
天智10年 (671.10.17)
東宮4回
天皇疾病彌留 敕換東宮 引入臥内 詔曰 「朕疾甚 以後事屬汝」云云』『於是 再拜稱疾固辭 不受曰 「請奉洪業 付屬大后 令大友王 奉宣諸政 臣請願 奉為天皇 出家修道」天皇許焉 東宮起而再拜 便向於内裏佛殿之南 距坐胡床 剃除鬢髮 為沙門』『於是 天皇遣次田生磐 送袈裟』『10月19日 東宮見天皇 請之吉野修行佛道 天皇許焉 東宮即入吉野 大臣等侍送 至菟道而還』

672年の壬申の乱以前, 天武の日本書紀記錄はこれが全てであるからお歲もキャリアも分らない. 白雉4年 と 白雉5年記錄は孝德天皇時代だから皇弟が大海皇子のことであるかどうかはっきりしない. “皇太子乃奉皇祖母尊, 間人皇后, 并率皇弟等” のように並べられたリストに皇弟”という曖昧な表現を揷入して天武のアリバイを造作しようとした疑いもあるから白雉4年と 白雉5年記錄は “大海皇子動静及び号称”から 除くべきである.

そうなると大海皇子のキャリアは天智3年 (664.2)から始まる. 664年前の記錄はない. ここで天武の初期皇子女出生記錄はパズルを解くいとぐちになる. 664年以前, 生れた天武天皇の初期皇子女は2皇女, 4皇子である.

天武天皇 初期皇子女
出生年
皇子女 出生順
653
十市皇女
額田王(631? - ) 初娶
654
高市皇子
尼子娘(634? - )
657
忍壁皇子
かじ媛娘((640? - 689)
661
大来(大伯)皇女
大田皇女 (643 - )
662
草壁皇子
鸕野讃良皇女(持統)( 645 – 703)
663
大津皇子
大田皇女

天武2年条に天皇の妻たちと皇子皇女が列挙されているのを見ると天武は20代で身分の高くない豪族出身の娘たち3人を, 30代には天智天皇, 藤原鎌足, 蘇我赤兄大臣の娘たち7人を娶った. 天皇が20代, 初めて娶ったのは鏡王の女, 額田王で、十市皇女を生んだ. 次に胸形君德善女, 尼子娘を納れて高市皇子命が生まれる. 次に宍人臣大麻呂の女, かじ媛娘を納れて、二男二女が生まれている. 1番目の忍壁皇子は657年頃生まれで, 2番目は不詳, 残りの子たちは670年以後生まれたと思われる.

天武は653年十市皇女を始め, 654年高市皇子を儲けた. 十市皇女の母, 額田王(631? - ) は天武の初娶であるからいわゅる初恋でしょう. 高市皇子を生んだ尼子娘(634? - )は胸形君徳善(600? - ? )の女で福岡県宗像地方の豪族である.もしかしたら天武は20代で皇室を離れ一人で九州にいたとも考られる. 天武が20代の時, 大田皇女と鸕野讃良皇女は10歲位のである.

660年9月百済の滅亡が報告される. 百済の王は唐の捕虜になったという. 百済の滅亡以後, 豊章と皇女たちとの結婚が强いられたように見える.

661年1月6日斉明天皇 御船西征 始就于海路. 1月8日大伯海で大田姫皇女が大伯皇女(大来皇女とも)を出産. 出産2日前の大田皇女を乘せて御船は出港したことになる.  

661年いきなり大来皇女, 662年草壁皇子, 663年大津皇子が生れる.  今度は皇子女の母が天智の皇女, 大田皇女と鸕野讃良皇女である. 百濟救援の御船に大田皇女, 鸕野讃良皇女がどうして乘っているのか. 二人共18歲位いだが661年から663年まで3人の子供を生む. 子供の父になる可能性のある男性は豊璋だけで, 大海皇子は影も見えない.

大田皇女は661年大来皇女を生む. 663年又大津皇子を生む. 豊璋は661年9月5000人の軍士を率いて百済に派遣された. 白村江の戦いに負けて百済王豊璋与数人乗船逃去高麗の記事が出るのは663年8月28日である. 663年大津皇子を生んたなら大田皇女は百済で豊璋といっしょうにいたことになる. 斉明七年 (661.9),  多臣蒋敷(おおのおみこもしき)の妹を妻”とは大田皇女のことのようだ.

豊璋 動静
舒明三年(631.3)
百済王義慈入王子豊章為質
豊璋   1
皇極二年(643.)
是歳 百済太子余豊以密蜂房四枚、放養於三輪山
豊璋 13
白雉元年 (650.2.15)
左右大臣乃率百官及百済君豊璋, 其弟塞城 忠勝
豊璋 20
斉明六年(660.10)
百済佐平鬼室福信乞師請救 并乞王子余豊璋  〈送王子豊璋及妻子与其叔父忠勝等.其正発遣之時. 見于七年. 或本云. 天皇立豊璋為王, 立塞上為輔. 而以礼発遣焉〉
豊璋 30
斉明七年 (661.9)
皇太子御長津宮. 以織冠授於百済王子豊璋. 復以多臣蒋敷之妹妻之焉. 乃遣大山下狭井連檳榔. 小山下秦造田来津. 率軍五千余、衛送於本郷. 於是. 豊璋入国之時. 福信迎来. 稽首奉国朝政. 皆悉委焉.
豊璋 31
天智元年(662.5)
大将軍大錦中阿曇比邏夫連等. 率船師一百七十艘送豊璋等於百済国. 宣勅. 以豊璋等使継其位. 又予金策於福信. 而撫其背. 褒賜爵禄. 于時豊璋等与福信、稽首受勅. 衆為流涕
豊璋 32
天智元年(662.12)
百済王豊璋. 其臣佐平福信等、与狭井連….  遂不聴諫、而都避城

天智二年  (663. 6)
百済の豊璋は福信処刑
豊璋 33
天智二年  (663.8.28)
是時百済王豊璋与数人乗船逃去高麗


日本書紀は天武天皇の生涯全体がばれるのがいやだったらしい. みんなオプンすると日本古代史の根本を搖さぶることになるから出來るたけ断片的記事に分解するか又は改ざんして本当のことを分らないように務めた. “大海皇子系譜での記錄 + 大海皇子動静及び号称 + 天武天皇 初期皇子女記錄 + 豊璋 動静”を綜合したのが 天武天皇の生涯になるでしょう.

天智2年 (663/8) 百済の豊璋は高麗へ逃げる代り倭に帰って天智3年 (664/2) 大皇弟として天智のそばで働いている.

天武天皇(631 – 686) の生涯
舒明3年(631/3)
百済王義慈入王子豊章為質
豊璋   1
皇極2年(643)
是歳。百済太子余豊以密蜂房四枚、放養於三輪山
豊璋 13
皇極4年  (645/6/12)
乙巳の変, 韓人が鞍作臣を殺した. 6/14皇極天皇が軽皇子(孝徳)に譲位
この日に号を豊財天皇(皇極)に奉り、皇祖母尊と言うようになった
豊璋 15      
大化5年 (649/3/24)
蘇我倉山田麻呂自殺. 皇太子の妃の蘇我造媛は父の大臣が斬り殺されたと聞いて傷心して悲しみ死にました. 讒言した蘇我日向は島流し
豊璋 19
白雉元年 (650/2/15)
白雉を観る儀式を行い. 左右大臣乃率百官及百済君豊璋其弟塞城忠勝
豊璋 20
白雉4年 (653)
十市皇女誕生
豊璋 23
白雉5年 (654)
高市皇子誕生
豊璋 24
斉明元年 (655/1)
飛鳥板蓋宮で斉明天皇即位, 空に竜に乗るものが見える
豊璋 25
斉明三年 (657)
忍壁皇子誕生
豊璋 27
斉明六年  (660/9)
百済は役人と僧の覚従が来日して、百済の滅亡を報告. 王は唐の捕虜となる.
豊璋 30
斉明七年 (661/1/8)
御船到于大伯海 時大田姫皇女産女焉 仍名是女曰大伯皇女
豊璋 31
斉明七年 (661/3/25)
御船還至于娜大津 居于磐瀬行宮 天皇改此、名曰長津。

斉明七年 (661/5/9)
朝倉橘広庭宮に遷りて居ます.  

斉明七年 (661/7)
斉明天皇が朝倉宮で崩御

斉明七年 (661/9)
長津宮で中大兄皇子が豊璋に冠を授ける. 多臣蔣敷の妹を妻に. 狹井連檳榔など5千人をつけて百済に派遣
豊璋 31
天智(662)
草壁皇子 誕生
豊璋 32
天智元年(662.5)
大将軍大錦中阿曇比邏夫連等. 率船師一百七十艘送豊璋等於百済国. 宣勅. 以豊璋等使継其位. 又予金策於福信. 而撫其背. 褒賜爵禄. 于時豊璋等与福信、稽首受勅. 衆為流涕.
豊璋 32
天智2(663/3)
日本が上毛野君稚子と27000人を派遣して新羅を討たせる

天智2(663/6)
百済の豊璋は福信処刑

天智2(663/8)
新羅が百済の都を包囲. 唐は170隻の船で白村江に陣を張る. 27日に日本と唐の船が出会って戦争になる. 日本敗北. 28日日本が乱れた兵で戦うが破れ続ける百済の豊璋は高麗へと逃げる
豊璋 33
天智2年 (663/9)
百済の都の州柔城が降伏 百済の滅亡. 百済の人々が日本に逃げる

天智2年 (663)
大津皇子 誕生
豊璋 33
天智3年 (664/2)
天智天皇は大皇弟に冠位を改めるように命じる
豊璋 34
天智7年 (668/1/7)
中大兄皇子が即位
豊璋 38
天武元年 (672)
壬申の乱
豊璋 42
朱鳥元年 (686)
天武死亡
豊璋 56

- おわり -