古事記は仲哀天皇が息長帯比売命を娶って生んだ御子は品夜和気命, 次に大鞆和気(オホトモワケ)命, またの名は品陀和気(ホムダワケ)命であるとした. この太子の御名に大鞆和気命と負わせた理由は初め生まれた時, 鞆(とも)のような形の肉が腕にあった。そこで, その御名に付けた. 仲哀天皇の御年は五十二歳, 壬戌年六月十一日に亡くなった.
息長帯比売命は後で神功皇后と追贈された神話的人物で歷史的實相はよくわからない. 古事記と日本書紀の神功皇后記述の中で歷史的眞實を窺って見るのがこの書の目的である.
上の古事記の記述の中で 仲哀天皇が壬戌年亡くなったというのを受容してこれを西紀362年と決める. 仲哀天皇が362年亡くなったかどうかは分からないが, 362年というのは神功皇后が1年後出産する太子の生年になるから重要である. そんなふうに古事記は神功の太子が363年生れた情報を暗號のように殘したのである.
生まれた太子の腕に鞆(とも)のような形の肉があったから大鞆和気命と御名に付けたというのは日本書紀神功五十二年七枝刀の記事と繫がる裝置である.
神功五十二年 久低たちが千熊長彦とともにやって来た。そして七枝刀七子鏡等様々な宝物を献上し「我が国の西に流れる川は七日以上も遡ったところに水源があります. この水を飲み, この水源である谷那の鉄山の鉄を採掘して, 永続して献上しましょう」との言葉を伝えた. そしてまた, 王は孫の枕流(トムル)王に「私が交流を続けている東方の日本国は、我が国の勢力拡大に協力してくれ, それによって地盤を安定させることができた. おまえも友好を重視し, 貢物を絶やさないようにすれば、私の死後も安泰だろう」と語った.
百済の肖古王と王の孫の枕流(トムル)王が登場するこの場面は日本書紀がわざと殘したと思われる. 枕流(トムル)王は大鞆和気命(オホトモワケ)であり神功皇后の太子であるとの暗示である. すると神功皇后は百濟貴須王 (第14代近仇首王, 在位375年~384年)の妃になるのが眞相である. 仲哀天皇が息長帯比売命を娶ったというのは噓になる.
“古事記は仲哀天皇が息長帯比売命を娶って生んだ御子は品夜和気命, 次に大鞆和気(オホトモワケ)命, またの名は品陀和気(ホムダワケ)命である.” とした. ここで “またの名は品陀和気(ホムダワケ)命である.” の添加記錄が問題になる. 品陀和気命は應神天皇の御名であるから神功皇后の子が應神天皇であると主張するためこんなふうに史料を歪曲したんじゃないかと思われる.
大鞆和気命と品陀和気命は別人で品陀和気命の子が大鞆和気命である. 古事記の5)気比大神という項で “私の名を御子の御名と換えたいと思う”とある. 神功皇后の子の名前が 換えられたとの證言である.
日本書紀應神紀の系譜は神功紀となんの繫がりも見せない. 應神紀には應神以後の王權承繼について應神の苦惱が窺える. 皇后所生の大山守命と中后の大雀命より15から10歲ほど年下で又3歲しかなっていない宇遅能和紀郎子を選擇しなければならないのが 應神の苦惱である. あそこに王母の權力鬪爭が挾まれている. 丸邇の比布礼能意富美の娘, 宮主矢河枝比売は宇遅能和紀郎子の母后で優れた政治感覺の持ち主であったに違いない. 應神天皇は宮主矢河枝比売に屈服し宇遅能和紀郎子を落点する.
この決定は後に長い間王室に暗影を垂らす. 大山守命はこの決定に從わない. 品陀天皇(應神)は甲午年に亡くなった. 甲午年は西紀394年である. その喪中まで大山守命は父王の決定を拒否して政變を起したから宇遅能和紀郎子が大山守命を殺害してしまった.
日本書紀神功紀は新羅遠征から歸った皇后は十二月筑紫で誉田(ホムタ)天皇を生んだとした. 西紀363年のことである. しかし太子の名は大鞆和気命で誉田別命でない. 誉田別命は大鞆和気命の父王である.
遠征翌年(364) 鹿坂王と忍熊王の内乱を平定した豪族たちは皇后を皇太后(天皇の母)と呼ぶことにした. これを摂政の元年とする。
摂政三年(366)の春正月。誉田別皇子を皇太子(後継ぎ)とした。ここも大鞆和気皇子を皇太子(後継ぎ)としたとするべきである. そして磐余(奈良県桜井市)を都とした。若桜宮というらしい。
大鞆和気皇子は西紀366年3歲で旣に皇太子になった. そのとき大山守命は20歲位いである. 應神紀の妃の中で高木之入日売(大山守命の母), 中日売(大雀命の母), 弟日売は同母の姉妹同士で天皇と同一家門出身であるのにもかかわらず3歲の大鞆和気皇子が皇太子になったから家門の激しい反對に直面したに違いない. 大鞆和気皇子と宇遅能和紀郎子は同一人である.
西紀366年から宮主矢河枝比売は百濟の慰禮城を訪門, 百済の肖古王に泣訴する. そして家門の反對を百濟王の權威で突破しようとして七支刀を造ってもらい家門の人達ちの目の前に百濟王の璽書を傳示した.
七支刀の(表)は祖父として家門の後孫に世子奇生を認めよと賴んで, 又 (裏)は百濟王として世子奇生を倭王に命するとの 璽書である. 世子奇生とは大鞆和気皇子の百濟式名前らしい. 世子奇生は百濟の世子であり倭王でもある. 彼が百濟の 枕流(トムル)王になったのは384年である. 百兵とは家門の激しい反對派, 主に大山守命をさすようである. 今の兩國國民 としては 受容し難い史實である. 歷史學者さえも似た傾向を見せて七支刀の銘文を自分の好きなままに歪曲している. 七支刀の銘文の璽書を聖音と讀んだら意味の通じない文章になってしまう.
(表) 泰和四年十一月十六日丙午正陽造百錬鐵七支刀出辟百兵宜供供候王 暢德興福祖
(裏) 先世以來未有此刀 百濟王 世子奇生璽書 故爲倭王 旨造 傳示後世
ここまで來てしまうと, そうしたら宇遅能和紀郎子の父, 應神天皇は今何處に在るのかという疑問が出て來る. 彼は百濟 の北の國境で高句麗と對峙しているから倭で摂政の話しが出て來るのである. 應神は主に百濟本國で父王を補佐した. 應神は百濟の肖古王の子で貴須王と同一人である.
彼は384年枕流王に百濟を任せて倭に歸った. もしかすると宮主矢河枝比売の身の上になんか問題があったんじゃないだろうか? 384年宮主矢河枝比売 (息長帯比売命)も旣に50近くの歲である. 363年大鞆和気命を生んだとき25歲としたら彼女は338年生れとなる. 應神天皇は320年頃の生れで神功より18年位い年上であるから神功の子だとは無理な設定である.
- 終り -