韓國と日本の間で論爭中である 韓日關聯古代史の中で 一番重要な考古學的遺物の一つが 七支刀である. 奈良県天理市石上神宮に保存されていた七支刀は1500年以上もその存在が忘れられていたが 明治時代初期 当時の 石上神宮大宮司であった菅政友が刀身に金象嵌銘文が施されていることを発見して硏究が 続けられ 1953年(昭和28年) 国宝指定された.
鉄製で身の左右に各3本の枝刃を段違いに造り出した特異な形をした刀で全長75センチ, 下から約3分の1のところで 折損している. 刀身の棟には表裏合わせて62字の銘文が金象嵌で表わされており その判読が明治以降続けられ 現在では 大体次の様に判讀されているがこの判讀では意味がきちんと分らない. 黑い4字は判讀不可とされている.
(表) 泰和四年十一月十六日丙午正陽造百錬鐵七支刀出辟百兵宜供供候王■■■■ (作)
(裏) 先世以來未有此刀百濟王世子奇生(聖音)故爲倭王旨造傳示後世
銘文についてはこれまで様々な研究がなされてきた. 銘文の判読はもちろん 彫られた場所についても
表は東晋で 鋳造された際に刻まれ 裏は百済で刻まれたなどの説もある. しかし内容は百済王が倭王に贈ったとの解釈が定説とされ 当時の背景として 高句麗の圧迫を受けていた百済が 倭との同盟を求め 贈られたとされている.
銘文の冒頭には「泰■四年」の文字が確認できる. 年紀の解釈に関して泰和四年として369年とする説 (福山敏男, 浜田耕策ら)が ありこの場合 東晋の太和4年(369年)とされる.
銘文の解釋についても自分の立場によって色色の異論がある.
泰和四年11月16日丙午の日の正陽の時刻に百たび練った 鐵 の七支刀を造った.
この刀は出でては百兵を避けることが 出来る. まことに恭恭たる侯王が佩びるに宜しい. 先世以来 未だこのような刀は 百済には無かった. 百済王と世子は生を 聖なる晋の皇帝に寄せることとした. それ故に東晋皇帝が百済王に賜われた「旨」を 倭王とも共有しようとこの刀を
「造」った. 後世にも永くこの刀を伝え示されんことを. (浜田耕策の2005年解釋)
上の銘文解釋はどうしても正しいとは見えない.文脈が自然でなく作爲的のような氣がする.1600年前の人たちの切實で具體的な必要の上で造られたはずの刀である. 抽象的又は衒學的な言辭で要点がぴんとこないと曲學阿世な解釋と見てよい.
當代の人たちはただ62字の文字を借りて自分の願いを明かに表したと信じたら易くて明瞭な解釋の方が望しい.
上の銘文の中で 奇生(聖音)のところが一番 問題になる. 七支刀の寫眞を見ると奇生は誤讀の可能性はない.問題は(聖音) である.この2字はよく見えない.字形で(聖)のように見えるが(璽)の方が相應しい.次の字は(音)あるいは(晉)とされるが(書) の方がもっともである. (聖音)が誤讀であったことを知らなかった學者たちは上のようなおかしい解釋をするしかなかった.
そうなると(聖音)でなく(璽書)になる. 上の銘文は “百濟王 世子奇生(璽書) 故爲倭王 旨造 傳示後世” の方が 正しいと思れる. 百濟王が世子奇生に璽書を下し(世子奇生)を倭王に任命するつもりで造た. この解釋はたれがたれになぜ 造たかが明瞭である. なんの余計な說明もいらない. 奇生は百濟世子の名前である. 王孫の枕流王の名前と思われる.
しかし問題はここから始まる. 七支刀の銘文の正しい解釋が出來ても今までの歷史がこれを受容しない. 人はみんな”今”をもって1,600年前の事を判斷しようとしている. 歷史も同である. 七支刀の銘文は百濟王家が倭をも經營していたと 證言するからだ.
七支刀の寫眞をComputer 畵面で巧みに操縱して見ると(表)の解讀不可とされている4字が少し見える.
完全ではないけど推測出來る位いは見える. 解讀不可とされている4字は暢德興福とする. 終りの(作) は(作) でなく(祖) と讀める. そして次の新しい銘文が得れる.
泰和四年十一月十六日丙午正陽造百錬鐵七支刀出辟百兵宜供供候王暢德興福祖
先世以來未有此刀 百濟王 世子奇生璽書 故爲倭王 旨造 傳示後世
しかし暢德興福祖の下になにか怪しい標識と見えるのがある. 自然の侵蝕とは違う. 丸い玉璽の跡と見る事ができる.又 興福祖の右に小さい文字がある. みんなで5字である. Computer 畵面で操縱して見ても字が小さすぎる. 一番 上のは“百”のようで三番目は”國” のようである. しいて見れば“百濟國王印”又は“百濟國之印”と思われる.
七支刀は 百濟王の 璽書である. 百済肖古王は世子奇生を倭王に封したが
彼の歲幼ないから皇太后が登場しこれを摂政の元年とした. 西紀 368年の事である.
日本書紀に 神功皇后の出産 記事がある. 十二月, 皇后は筑紫で誉田天皇を生んだ。土地の人は、「宇瀰(宇美町)でお産みになられた」と喜んだという。
誉田天皇は仲哀天皇の第四子である. 母は気長足姫尊(神功皇后)という. 天皇は 皇后が新羅を討った年の冬十二月 筑紫の蚊田で生まれた. 幼い頃より賢く先見の明があり風格が漂っていた. 天皇が生まれる前 天神地祇に守られて朝鮮半島への遠征に成功した. そのためか生まれた時から腕の肉が鞆〔とも〕(弓を射るための装身具)のような形に盛り上がっていた。それで誉田天皇と名づけられた. 鞆(とも)は日本書紀が 提供する一つの端緖になる.
神功 五十二年の秋九月 久低たちが千熊長彦とともにやって来た. そして七枝刀, 七子鏡等様々な宝物を献上し「我が国の西に流れる川は 七日以上も遡ったところに水源があります. この水を飲み この水源である谷那の鉄山の鉄を採掘して永続して献上しましょう」との言葉を伝えた. そしてまた 王は孫の枕流(トムル)王に「私が交流を続けている東方の日本国〔やまとのくに〕は 我が国の勢力拡大に協力してくれ それによって地盤を安定させることができた. おまえも友好を重視し貢物を絶やさないようにすれば 私の死後も安泰だろう」と語った. これより後、毎年朝貢があった。
孫の枕流(トムル)王の登場は日本書紀が 提供するもう 一つの端緖である. 枕流王は百濟で(トムル)王と讀まない. この(トムル)は 鞆(とも) から來たと思われる. 皇后が筑紫で生んだのは 誉田でなく大鞆和気命である. 大鞆和気命は應神でなく王孫の枕流(トムル)王をさす. 又の名は 菟道稚郎子である.
日本書紀 應神條の後継ぎの決定の記事がある. 四十年の春正月。天皇は大山守命, 大鷦鷯尊を呼び 「おまえたちは子がかわいいか」と尋ねた. 二人は 「とてもかわいいです」と答えた. 天皇は次に、「年長と年少の子ではどちらがかわいいか」と尋ねた. 大山守命は 「年長の方がかわいいです」と答えた. 大鷦鷯尊は天皇の顔色から心中を察し 「年長となってしまえば不安はありません. しかし年少であれば いろいろと手を焼かされるので 愛情も深くなります」と答えた. 天皇は大いに喜び 「その通りだ」と答えた. 実は天皇は菟道稚郎子を太子にしたいと思っていて 二人の意向を知るために尋ねたのである. 同月 菟道稚郎子を嗣(後継ぎ)と定めた. 同日 大山守命に山川林野等国土の管理を任せた. 大鷦鷯尊には太子の補佐を任せた。
冬十月。豪族たちは皇后を皇太后(天皇の母)と呼ぶことにした。これを摂政の元年とする。 三年の春正月。誉田別皇子(大鞆和気命 )を皇太子(後継ぎ)とした. そして磐余(奈良県桜井市)を都とした. 若桜宮というらしい.
應神十五年の秋八月 百済の王が阿直岐を派遣して良馬二匹を献上した.それで阿直岐に軽坂の馬小屋で飼育させその地を厩坂と名づけた.阿直岐はまた文献にも詳しかった.そこで太子の菟道稚郎子の師匠とした.天皇が「あなたのような博士(ふみよみひと)はほかにもいるのか」と尋ねると阿直岐は王仁という者を推薦した.
十六年の春二月王仁が渡来した.そこで太子の菟道稚郎子の師匠とした.諸文献を学ばせると様々な知識をまたたく間に吸収した.王仁は書首等の始祖である.
日本書紀は別別の記事のようにあちこち分散しているが上のは同じ 記事の破片であろう. 神功皇后は子供を帝王に育てる爲に百濟一の學者を招聘し菟道稚郎子(世子奇生)の師匠とした.
應神天皇の子は男女あわせて二十人である. 大山守命と大鷦鷯尊は菟道稚郎子より 10 – 17年上である. 百兵とは 菟道稚郎子の兄らの事をいうであると思われる. 百済肖古王が菟道稚郎子を孫子代の百濟世子とする同時に倭王に宣言したのは西紀368年で菟道稚郎子5歲の時であろう. 百濟の貴須40代後半, 神功皇后は30歲程であったと思われる.
摂政の皇太后が直面した問題は菟道稚郎子より年上の皇子らをどう服從させるかであり, その爲 百濟王(菟道稚郎子の祖)の權威を借る爲 七支刀に百濟王の璽書を金象嵌し列島に持って來たのであろう.
註) この七支刀解說は當該 Blogの “3.칠지도(七支刀)는 새서(璽書)다.” の日本語飜譯である. 人とはおかしい存在であり眞實だと言って直ぐ心を開てくれない. ただこんな風に見る人もおるなと考えてくれれば幸いである.