2024년 8월 12일 월요일

124. 高麗の美女の媛と従女吾田子(あたこ)



531年日本書紀が高麗について関心を示した記事が現われる. 


継体治世25年春2月 天皇は病が重くなった。7日 天皇は磐余の玉穂宮で崩御した。時に八十二歳であった。冬12月5日 藍野陵(摂津国三島郡藍野)に葬られた。この月 高麗はその王、安を弑した。


高麗の王, 安とは22代安臧王 (498-519-531)で519年から-531年まで在位した.  三國史記にも出ていない高麗の安臧王弑害事件以来さまざまな高麗の記事が続く. 安臧王は文咨明王の長子だったのに弟の安原王が安臧王を弑して卽位したらしい. 


19長壽王394-413-490

20文咨明王    ?-491-519

22安臧王498-519-531

23安原王?-531-545

24陽原王528-545-559

25平原王?-559-590

26嬰陽王?-590-618

27榮留王?-618-642


高麗についての記事が続く.


欽明治世6年(545) この年、高麗に大乱が起こり多数の人が殺された。(作者注)原文には百済本紀の記述を引用した補足がある。「12月20日、高麗の細群(さいぐん)と麁群(そぐん)が宮廷で戦った。鼓を打ち鳴らして戦闘をした。細郡が敗れて包囲を解かないこと三日、ことごとく細郡の子孫を捕らえ殺した。24日に、高麗の香丘上王(安原王)が薨じたという。」

欽明治世7年(546) この年、高麗は大いに乱れ、戦死者は二千余人にも上った.(作者注)原文には百済本紀の記述を引用した補足がある。「高麗では1月丙午、八歳になる中夫人の子を立てて王とした。高麗王には三人の夫人があった。正夫人には子が無く、中夫人が太子を生んだ。その舅は麁群であった。小夫人も子を生んだ。その舅は細群であった。高麗王の病が重くなると、細群、麁群はそれぞれの夫人の子を立てようと争った。その争いで細群の死者は二千余人上ったという。」


安原王には三人の夫人

正夫人

子が無く.

中夫人

太子を生んだ。その舅は麁群(そぐん)であった.

小夫人

子を生んだ。その舅は細群(さいぐん)であった. 


安原王は545年12月24日薨じて1月丙午八歳になる中夫人の子を立てて王としたのが24代陽原王である. つぎに562年書紀に出る記事は誤りのようで歷事的事實とは違うようです.


欽明治世23年(562) 8月、天皇は大将軍大伴連狭手彦を遣わし、数万の兵をもって高麗を討たせた。狭手彦は百済の計を用いて高麗を撃破した。その王は垣を越えて脱出した。狭手彦は勝ちに乗じて宮中に入り、珍宝七織帳、鉄屋を入手して帰った。(作者注)原文には、ある本によると、鉄屋は高麗の西の高楼の上にあっり、織帳は高麗王の内殿に張ってあったという。

狭手彦は七織帳を天皇に奉った。また、鎧二領、金飾の大刀二口、銅鏤鐘三口、五色の旗二竿、美女の媛と従女吾田子(あたこ)を、蘇我稲目宿禰大臣に送った。大臣は二人の女を召し入れて妻とし、軽の曲殿に住まわせた.

欽明23年(562)記事は時点と內容にいろいろ問題があります. 天皇が大伴連狭手彦を遣わし数万の兵をもって高麗を討たせたことはない. 狭手彦は安羅の日本府で反百済鬪爭をしていた佐魯麻都であり彼が百済の計を用いて高麗を撃破するなんてそんなはずはない. また狭手彦はすでに70代だから高麗を討つとは無理のようです. 


すると高麗から二人の女を救出し倭につれてきたのは陽原王卽位の際と見るのが合理的でしょう. 高麗の美女の媛は安原王の公主(母は小夫人)でありながら政变で敗けて従女吾田子とともに狭手彦に命を預けた. また『日本書紀』によると605年(推古天皇13年)に高句麗の「大興王」が仏像製作のために黄金300両を献じたという。大興王とは26代 嬰陽王のことであるから推古天皇の甥にあたる. 


23安原王?-531-545

24陽原王528-545-559

25平原王?-559-590

26嬰陽王?-590-618


美女の媛(堅塩媛)530-

推古天皇554-628



このへんでどうして大伴狭手彦は高麗から二人の媛らの脫出に絡んでいるか調べてみましょう. 狭手彦の家系の初出は大伴室屋で允恭天皇が衣通郎姫について室屋に賴む場面である. 


これより前のことであるが、天皇は大伴の室屋連に、「私は最近、美しい女性を迎えた。皇后の同母妹で、私の心をときめかせてくれる。できれば、その名を後世にも伝えたいと思うが、どうだろうか」と語った。そこで室屋連が提案し、諸国の造たちに命じ、衣通郎姫のために藤原部を定めた。


大伴室屋は高麗出身でその後裔達も高麗との繫がりを保ってきた. 大伴家門は高麗に出入してきたので546年狭手彦は高麗の政变の際高麗の宮殿で政变と出合ったことになります. 


大伴室屋から始まるこの家系は時流に乘って時には正体を現さなく天皇家に協助, たまには天皇家に叛く. 


大伴家系

AD 400 - 460年代

430 年代- 487

460 – 520年代

490 年代 - 

大伴連室屋

大伴談連(佐魯)

大伴金村大連

大伴狭手彦(佐魯麻都大連)

允恭-安康-雄略-清寧

清寧-顕宗

仁賢-武烈-継体 

宣化-欽明天皇


546年高麗の美女の媛と従女吾田子を倭につれてきた狭手彦は382年葛城襲津彦が新羅の美女2人とあってから襲津彦家門が親新羅路線をたどってきたのをよく知っていた. 當時狭手彦は安羅の日本府で阿賢移那斯(賢那) (襲津彦の5代孫)と協力していた.  大伴と襲津彦家門は反百濟という同じ目標のためなん代もいっしように働いてきた.


大伴室屋

允恭天皇近臣, 清寧天皇治世正体を現さなく協助

大伴談

顕宗卽位させて政治主導, 高麗と往來, 487年爾林の役 主導 戰死

大伴金村

武烈-継体卽位させて政治主導, 反百濟親高麗路線

大伴狭手彦

欽明時代安羅滯留,安羅の日本府主導, 反百濟親高麗路線


大伴家門の専横は顕宗天皇, 武烈天皇,  継体天皇治世 さらに極めていた. 継体天皇は大伴金村のおかげで天皇になって長い間金村の傀儡のような役割を貫いた. 大伴家門が継体天皇を選んだのは百濟の武寧王を意識した結果である. 継体天皇は百濟の蓋鹵王の庶子で武寧王の兄にあたります. 彦主人王とは百濟の蓋鹵王をさす. 


應神天皇 5世の孫 継体天皇

應神天皇  320 - 394

=貴須王

若沼毛二俣  372 - 424

=阿莘王

意富富杼王 (大郞子)   391 - 432 =腆支王

乎非王  412 - 455 =毗有王

于斯王, 彦主人王  429 - 475

乎富等大公王 450 - 531


546年高麗の美女の媛と従女吾田子は10代のむすめで530年代生れだったと考えられる. 日本書紀に高麗の記事がこのへんでたまたま出てくるのは高麗の美女の媛と従女吾田子に繫がっている.  蘇我稲目宿禰大臣506-570)は二人の女を召し入れて妻としたでしょうか. 


美女の媛は小夫人の公主でいのちを狭手彦に頼んだことになる. 高麗を脫出し倭に來た二人りは欽明天皇妃の堅塩媛と小姉君に名前が変わる. 


欽明天皇系譜 (510 – 539 – 571)

宗賀之稲目宿禰大臣の娘の岐多斯比売:キタシヒメ

橘之豊日:タチバナノトヨヒ命

妹の石隅:イハクマ王

足取:アトリ王

豊御気炊屋比売:トヨミケカシキヤヒメ命

麻呂古:マロコ王

大宅:オホヤケ王

伊美賀古:イミガコ王

山代:ヤマシロ王

妹の大伴:オホトモ王

櫻井之玄:サクラヰノユミハリ王

麻奴:マヌ王

橘本之若子:タチバナノモトノワクゴ王

泥杼:ネド王


蘇我稲目大臣の娘で、堅塩媛(きたしひめ) 

大兄(おおえ)皇子 547 - 

磐隈(いわくま)皇女 549 - 

臘嘴鳥(あとり)皇子

豊御食炊屋姫(とよみけかしきや)尊  554 - 628

椀子(まろこ)

大宅(おおやけ)皇女

石上部(いそのかみべ)皇子

山背(やましろ)皇子

大伴皇女

桜井皇子  吉備姫王の父?   560? - 

肩野(かたの)皇女

橘本稚(たちばなのもとわか)皇子

舎人皇女   当麻皇子の妃  572? – 603 


岐多志比売命の姨をばの小兄比売:ヲエヒメ

馬木:ウマキ王 552

葛城:カヅラキ王 554

間人穴太部:ハシヒトノアナホベ王  556- 

三枝部穴太部:サキクサベノアナホベ王557

長谷部若雀:ハツセベノワカササギ命 559


堅塩媛の同母妹を小姉君(おあねのきみ)

茨城皇子 (うまらきのみこ)  伊勢に仕えていた磐隈犯し 

葛城(かずらき)皇子  554

泥部穴穂部(はしひとのあなほべ)皇女 

泥部穴穂部(はしひとのあなほべ)皇子 

泊瀬部(はつせべ)皇子 



堅塩媛と小姉君が産んだ皇子女は欽明天皇系譜に出ていますが書紀に少しのずれがあるようで蘇我稲目大臣は堅塩媛を百濟の聖明王に, 小姉君は倭の欽明天皇に捧げた. 堅塩媛は聖明王の4人の子女を産んだあと555年欽明天皇妃になったと思われる. 


なぜかとすると堅塩媛が産んだ二人りの皇子らが百濟の王, 惠王と法王になったと考えられるからだ. 百濟の威德王死後惠王-法王に続きますが惠王-法王は威德王の弟であった. 扶餘惠, 扶餘法という威德王の弟がいたはずです. 日本書紀は扶餘法についてなにも言っていませんがいくつかの痕跡はあります.


扶餘法系譜

聖明王503-554

威德王530-598

=箭田珠勝大兄皇子

阿佐太子570-599

=押坂彦人大兄皇子

多利思比孤=足日廣=舒明天皇593-660


扶餘惠547-




扶餘法550-

扶餘璋(武王)570-640

琳聖太子?


595年5月高麗の僧の慧慈が倭にやってきた. 高麗の26代嬰陽王(大興王)は推古天皇の甥にあたる. 高麗王は546年高麗の美女の媛と従女吾田子 (堅塩媛と小姉君) たちが倭でどう生きているか大伴狭手彦家門を通じてよく知っていたことになります. 高麗の僧の慧慈は扶餘法とも近い繫がりをもっていたようです. 


595

推古3年5月 高麗の僧の慧慈が帰化。百済の僧の慧聡とともに三宝の基礎となりました.

596

推古4年11月 法興寺が完成。蘇我馬子の子の蘇我善徳が寺司に成る 四年冬十一月、法興寺造竟、則以大臣男善德臣拜寺司。是日、慧慈慧聰二僧始住於法興寺。


『伊予国風土記』のに見える「伊予湯岡碑」の記事に出る、「法興六年(596)十月 歳在丙辰 我法王大王 与恵慈法師及葛城臣 道遙夷予村 正観神井 歎世妙験 欲叙意 聊作碑文一首」.  法興は九州の私年号とされるが、法興元年は崇峻天皇4年(591年)

605

推古13年4月 銅製の仏像と刺繍の仏像を作り始める十三年夏四月辛酉朔、天皇、詔皇太子大臣及諸王諸臣、共同發誓願、以始造銅繡丈六佛像各一軀。乃命鞍作鳥、爲造佛之工。是時、高麗国大興王、聞日本国天皇造佛像、貢上黃金三百兩。

610

推古18年3月 高麗が僧侶の曇徵法定を献上。五経彩色紙墨碾磑が伝来?

615

推古23年11月 百済の使者と宴会。高麗の慧慈が帰国 11月2日。百済の客をもてなし、宴会をしました。15日。高麗の僧の慧慈(エジ)が国に帰りました。


欽明7年(546)高麗の美女の媛と従女吾田子が倭に來た以來倭は欽明-敏達-用明-崇峻-推古天皇に变わる. 587年丁未の乱とは宣化元年(536)5月の詔を廢って百濟と九州から倭の獨立を望む雰圍氣になったのを反影する. 宣化元年(536)5月の詔は倭で生産された穀を筑紫那津之口に集め海を渡って多沙津に送ることだった. 多沙津に送られた穀は百濟の都の所夫里移轉に関わる.


繼體治世23年春3月百済王は下哆唎国守穂積押山臣に語って言った。百済王> 日本への朝貢の使者がいつも海中の岬を離れるとき、風波に苦しみ、船荷を濡らし、ひどく損壊します。そこで加羅の国の多沙津を、我が国の朝貢の航路として頂きたく思います。押山臣はこれを伝え奏上した。この月、物部伊勢連父根(ちちね)、吉沙老(きしのおきな)らを遣わして、多沙津を百済王に賜った。


倭では穀の生産, 九州の役割は倭で生産された穀を多沙津に送ることだからその詔以來倭と九州に別別の行政機關があったですね. 536年から645年乙巳の変まで九州に倭と別の行政機關があったはずです. 600年多利思比孤の遣隋使の存在はその顕しである. 倭の烽起はこの詔について九州と立場を異にしていたのを意味します. 587年豊国法師とは九州で阿佐を補佐していた扶餘法であると考えられる. 


用明天皇二年(587)夏4月2日...そのとき穴穂部皇子が豊国法師を連れて内裏に入った。

用明天皇2年(587年)に発生した丁未の乱では、男麻呂は巨勢比良夫膳賀陀夫葛城烏那羅らと共に大臣蘇我馬子側に従って大連物部守屋を討った. 


従女吾田子(小姉君)の皇子である 崇峻天皇4年九州征伐始まる. 百濟は使いを急派し蘇我馬子を動かして崇峻天皇暗殺そして堅塩媛のむすめ, 推古天皇を593年卽位させる. 


崇峻天皇4年(591年)紀男麻呂巨勢猿大伴囓葛城烏奈良と共に大将軍に任ぜられ、任那再興のために2万人以上の兵を率いて筑紫まで出陣する。その後、崇峻天皇暗殺事件の発生もあって朝鮮半島への進軍は行われず、推古天皇3年(595年)大将軍らは都に帰還した.


597年百濟王子阿佐が倭へ来て斑鳩に寺を建て始める. しかし599年地震で阿佐が竹田皇子とともに斑鳩で死に藤ノ木古墳に埋葬されたと見える. 阿佐太子がなくなったので百濟は惠王を卽位させる.  


597

推古5年4月 百済の王子の阿佐が朝貢 五年夏四月丁丑朔、百濟王遣王子阿佐、朝貢。

598

12月 威徳王が死去

599

推古7年4月 地震が発生 七年夏四月乙未朔辛酉、地動、舍屋悉破。則令四方俾祭地震神


阿佐が死亡してから倭はいきなり忙しくなります. ふたたび推古天皇が九州征伐始まる.


602

推古10年2月来目皇子に25000人の兵を授けて将軍とした. 


10年4月来目皇子が筑紫に.  10年6月来目皇子は病気で征討できませんでした.

603

推古11年2月来目皇子が筑紫で死亡


11年4月当麻皇子(=来目皇子の兄)を新羅征伐の軍の将軍とする.


11年7月当麻皇子が難波から出発し播磨で妻の舎人姫王が死んだので引き返し新羅征伐はされず


隋書倭國傳の倭國とは九州をいう. 九州と倭の戦争で負けた倭では九州が要求した仏教受容, 冠位十二階と十七条憲法が施される. 628年堅塩媛の娘, 推古天皇が死ぬと, 九州の多利思比孤が629年卽位して舒明天皇になって高麗の美女の媛の跡は色褪せていく.   


隋書 倭國傳

AD 600

倭王姓阿每  字多利思比孤  號阿輩雞彌  遣使詣闕

AD 607

其王多利思比孤  遣使朝貢 其國書曰 日出處天子 致書日沒處天子 無恙  云云 

AD 608

上遣文林郎裴清  使於倭國 ……此後遂絕



おわり

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