2023년 1월 1일 일요일

122. 允恭天皇毒殺の黑幕

 


允恭時代を話すには彼がいつ生れ, いつ死んだかを確かにするべきです. 彼は390年代生れ454年死んだとの前提で始まる. 仁徳天皇は350年代生まれなので允恭と40年位いの差があるから仁徳の皇子らも允恭の皇子より40年位い歲をとったはずである. なので仁徳の子と允恭の子の婚姻はありえないが記紀は眞劍に嘘をつく. 


記紀の允恭記事はとても曖昧でよく見ないと總體的意味に勘付くのは難しい. 日本書紀允恭二十四年(454) 記事を見てみなさんはなにが分りますか? この記事で天皇が毒殺されたのと皇室に近親相姦があったのは讀取ります? 軽大郎姫皇女という架空人物を造って兄妹間の近親相姦と納めるのは記紀編者達の改ざんでございます. 


AD 454年允恭毒殺事件の主謀者, 木梨軽皇子を處刑した穴穂皇子が卽位して安康天皇になる. 


日本書紀; 允恭二十四年の夏六月. 御膳の温かい汁が凍ることがあった. 天皇が怪しみ、その理由を占わせると, 「内に乱れがあります. どうやら近親相姦があるようです」との結果が出た. その時ある人が, 「木梨軽太子が同母妹の軽大郎姫皇女とできているようです」と申し上げた. 調べさせると事実であった. 


古事記; 允恭天皇の御年は七十八歳 甲午年(AD 454) 正月十五日に亡くなられた. 


皇室で發生した痴情殺人事件だったので記紀編者達はいろいろ脚色して皇室の恥かしい裏面を露出しないよう工夫した. なので記紀は本當の事は分らないようになっている. 實際なにが有ったか調べても證據はありません. ただ情報の破片が 整合性を持つよう想像するばかりです. 


允恭天皇の長子, 木梨軽皇子は410年代中半, 大泊瀬天皇420年代中半生である. 允恭天皇皇子女の中, 軽大郎女 (またの名は衣通郎女)は記紀編者が架空した人物, 穴穂天皇も允恭の皇子じゃなく新良の波鎮漢紀 金武である. 


允恭天皇 妃と御子

古事記

日本書紀

忍坂之大中津比売

木梨之軽王

長田大郎女

境之黒日子王

穴穂命

軽大郎女 またの名は衣通郎女

八瓜之白日子王

大長谷命

橘大郎女

酒見郎女


忍坂大中姫命

木梨軽皇子 

名形大娘皇女

境黒彦皇子

穴穂天皇

軽大娘皇女

八釣白彦皇子

大泊瀬稚武天皇 

但馬橘大娘皇女

酒見皇女



日本書紀の安康天皇即位闘争-大草香皇子の無念の記事がありますがうそばかりなので實際有ったことを推理して行きます. 


大草香皇子の無念 この時代、弟の大泊瀬皇子(次の雄略天皇)は、伯父の反正天皇の娘たちを迎え入れようとした。名は伝えられていない(分註)。―系譜には香火姫:カヒノヒメ皇女、円:ツブラ皇女、財:タカラ皇女の三人がいた。

しかし皇女たちは、「あなた様は昔から乱暴で、突然怒り出した時などは、朝に会った者が夜には殺され、夜に会った者が朝には殺されるほどです。私たちは美人でもなく、気も利きません。もし少しでも機嫌を損ねれば、どうなるかわかったものではありません。なので申し出は承諾できません」と答えた。

元年の春二月。天皇は大泊瀬皇子の縁談相手として、大草香皇子(仁徳天皇の子)の妹の幡梭:ハタビ皇女に目をつけた。そして坂本臣の祖先の根使主を派遣し、大草香皇子に、「どうか幡梭皇女を大泊瀬皇子の妻とさせたい」と伝えさせた。大草香皇子は、「私はこの頃、病にかかり、治る見込みもないようです。これも寿命と思って諦めていますが、ただ妹の幡梭皇女が一人残されることが気がかりでした。そんな時、天皇は妹の醜を嫌わず、縁談の相手を見つけてくれました。願ってもない話です。感謝の印しとして、私が家宝とする押木珠縵を献上しましょう」と語った。

根使主はその押木珠縵の美しさに感動し、盗んで自分の宝にしようと考えた。そして天皇に、「大草香皇子は命令を拒むどころか、『同じ一族ではあるが、どうして私の妹を差し出さなければならないのか』と吐き捨てました」と嘘の報告をし、その縵を提出せずに自分のものとした。天皇はこの根使主の讒言を信じて激怒し、軍勢を集めて大草香皇子の家を囲み、殺害した。


さて、天皇はそれでも怒りが収まらず、大草香皇子の妻の中蒂姫:ナカシヒメ(履中天皇の娘)を奪い、自分の妃(側室)とした。また、予定通り幡梭皇女を大泊瀬皇子に嫁がせた。


二年の春正月。中蒂姫:ナカシヒメ命を皇后:きさき(正妻)と定めて、寵愛した。

ただし、中蒂姫命は先夫の大草香皇子との間に眉輪王:マヨワノキミを生んでおり、母が宮中で育てることとなった。三年の秋八月。天皇は眉輪王によって殺害された。


日本書紀の安康天皇即位闘争-大草香皇子の無念の記事の誤謬部分

1

天皇は大泊瀬皇子の縁談相手として大草香皇子(仁徳の子)の妹の幡梭皇女に目をつけた. 

2

天皇はこの根使主の讒言を信じて激怒し、軍勢を集めて大草香皇子の家を囲み、殺害した。

3

天皇はそれでも怒りが収まらず、大草香皇子の妻の中蒂姫(履中天皇の娘)を奪い、自分の妃(側室)とした

4

予定通り幡梭皇女を大泊瀬皇子に嫁がせた.

5

中蒂姫命は先夫の大草香皇子との間に眉輪王を生んでおり、母が宮中で育てることとなった。


まず仁徳の子, 大草香皇子は380年代, 幡梭皇女は390年代生れなので雄略天皇(420年代生れ)との婚談はありえない. 454年大草香皇子は旣に死んでいるし又妻の中蒂姫は60代の年寄りだったから卽位する安康天皇が自分の妃とするわけもない. 子の眉輪王は40代の男と見なければならない. すると中蒂姫は大草香皇子の妻じゃないし眉輪王も大草香皇子と中蒂姫の子でもない. 


書紀は履中天皇元年の系譜で次の妃の幡梭皇女(応神天皇の皇女)は中磯皇女を生んだとしたが390年代10代の履中が中磯皇女を産むのは無理で応神の皇女幡梭皇女は仁徳の妃だったと思われる.


中磯皇女を仁徳天皇皇女と見たら仁徳天皇の次の系譜は整合性があるそうです.


仁徳天皇350年代

幡梭皇女370年代

中磯皇女390年代

夫 意富富杼王391-432

乎非王412-455

斯王(彦主人王)

430-475


眉輪王が中蒂姫(中磯皇女)の子だったら410年代生であるので456年46歲になる. 456年眉輪王が子供だったのは確かのようです. すると眉輪王は誰の子か考えるべきでしょう. 


仁徳天皇は次の二人の皇女を若沼毛二俣王の御子意富富杼王に嫁がせたようです. 

草香幡梭皇女=八須夫人

久爾辛王母 (久爾辛王: 百濟第19代王)

中斯知命=中蒂姫=中磯皇女

乎非王母 (毗有王: 百濟第20代王)

 

安康天皇は予定通り幡梭皇女を大泊瀬皇子に嫁がせたとしますが25歲の雄略と60歲の幡梭皇女の婚姻はあり得ない. 記記は意識的に嘘をつくからいつも注目するべきです. 


允恭時代 主要人物年齢及び系譜推定(日本書紀とわずかな違いが有る)

應神皇子仁徳天皇350

履中天皇380



大草香皇子380



草香幡梭皇女390 (意富富杼王妃)

久爾辛王411-

應神皇女幡梭皇女370年代(仁徳妃)

中磯皇女390年代 (意富富杼王妃)

乎非王 412-455


反正天皇390

弟媛(衣通郞姬)400

財皇女 420-


允恭天皇390

木梨軽皇子415-454

雄略天皇425

應神皇子若沼毛二俣王370年代

意富富杼王391-432



記紀は木梨軽皇子の歲、 妃の有無、 皇子についてなにも言わなかった. 


木梨軽皇子の歲

410年代生れ

434 20歲位い

444 30歲位い

454年 40歲位い


444年頃木梨軽皇子は妃を迎える適年で50代の允恭天皇の長子であった. 皇子妃になる可能性第一順位は反正天皇皇女三人である. 津野媛の女, 香火姫皇女, 円皇女, 弟媛の女,  財 タカラ皇女の三人がいた.


百済の直支王が新斉都媛と七人の女性を倭に送ったのは420年頃と思われる. 


日本書紀 応神天皇三十九年の春二月百済の直支王(腆支王, 在位405年-420年)がその妹の新斉都媛を派遣して仕えさせた。新斉都媛は七人の女性を連れて来た。


七人の內, 次の二人が反正天皇の皇夫人及び妃になった. そして420年代三人の皇女が生まれる. 


反正天皇 妃と御子

古事記

日本書紀

皇女

田井之中比売397-  =都怒郎女

津野媛

香火姫皇女 420

円(ツブラ)皇女 420-

藤原之琴節郎女400-

その妹の弟媛(衣通郞姬)

財(タカラ)皇女 420-


430年代後半反正天皇がなくなった. 三人の皇女は15歲位. 440年頃になると木梨軽皇子25歲, 皇女達は18歳を越す. 木梨軽皇子は440年頃財皇女を迎えて442年頃眉輪王を産んだ. 456年眉輪王は14歲になる. 


木梨軽皇子は440年頃財皇女を迎えた以來妻の母である弟姬(衣通郞姬)と家族の一圓として親しい關係になったでしょう. 允恭天皇の心をときめかせてくれる弟姬(衣通郞姬)とうまく行ったら皇太子であった木梨軽皇子は間もなく卽位したでしょう. しかし父王の寵妃でありなから妻の母でもある弟姬(衣通郞姬)と近親相姦關係になる. 父王にまでばれてしまうと454年父王を毒殺する. 安康天皇は正義の名の元に木梨軽皇子を處斷, 木梨軽皇子の妃, 財皇女を奪って自分の皇后(正妻)と定めて寵愛した. 


安康天皇が財皇女を自分の皇后(正妻)と定めた時眉輪王という子がいた. 456年木梨軽皇子の子, 眉輪王は安康天皇を殺害する. 


すると記紀はどうしてなにも關係ない大草香皇子と幡梭皇女の兄妹を允恭天皇毒殺事件と絡んで大草香皇子は殺害, 大草香皇子の妻の中蒂姫を奪い安康天皇の妃(側室)とし, 幡梭皇女を大泊瀬皇子に嫁がせ...等のうそをついたのか. 古事記に若沼毛二俣王の皇子女がいる. 若沼毛二俣王は應神天皇皇子で仁德天皇の弟です.  


若沼毛二俣王の子(古事記)

大郎子:オホイラツコ。またの名は意富富杼:オホホド王

忍坂之大中津比売命   (允恭妃)  御名代刑部

田井之中比売:御名代河部 (反正妃) (允恭妃)

田宮之中比売:

藤原之琴節郎女:書紀 弟姬, 衣通郞姬, 御名代藤原部 (反正妃) (允恭妃)

取売:トリメ王

沙禰:サネ王


ここで大郎子(意富富杼王)に注目して下さい. 釋日本紀『上宮記』逸文の文章系譜によれば、中斯知命(なかしちのみこと)を妃として乎非王(おいのおおきみ)を儲け、その孫すなわち意富富杼王の曾孫にあたるのが第26代継体天皇とされる。


應神天皇

若沼毛二俣王

意富富杼王

乎非王

斯王(彦主人王)

繼體天皇

320-394

370-?

391-432

412-455

430-475

450-531


中斯知命とは履中天皇とその妃, 幡梭皇女(應神皇女)との間に生まれた書紀の中磯皇女のことで叔父大草香皇子と結婚して眉輪王を生んだとしたのは噓である. 安康紀 雄略即位前紀には中蒂姫になっている中斯知命は意富富杼王に嫁いて乎非王を生んだ. この乎非王こそ百濟20代毗有王のことです. ここで繼體天皇は百濟盖鹵王の庶子であったので507年大伴金村大連によって天皇になったことをご存じですか. 百濟武寧王(斯麻王)が盖鹵王子だったので盖鹵王の庶子を天皇に選んだわけです.  


意富富杼王(直支王)

中斯知命

乎非王(毗有王)


斯王(彦主人王)

(盖鹵王)

繼體天皇

=乎富等大公王


意富富杼王自身の詳しい事績は伝わらないが意富富杼王は記紀がその史跡を書けない人柄である. 日本書紀の安康天皇即位闘争-大草香皇子の無念の記事に出る二人の皇女, 仁徳の娘幡梭皇女と履中の娘とした中斯知命は意富富杼王の妃だったので記紀は眞實を語れなかったことになる. 


意富富杼王とは直支王のことです. 396年高句麗の廣開土王は軍を率いて百済を撃ち空前の成果をあげた. その時奴客になると誓がった百濟の阿莘王が廣開土王に捧げた百濟の4歲の公主があってこの公主が允恭天皇后, 忍坂大中姫命である. 百濟阿莘王の長女は高句麗で育ち王子高珍の妃になった. 阿莘王の四女(弟姬), 藤原之琴節郎女(衣通郞姬)は420年頃反正天皇妃になる. 反正天皇が死ぬと後で允恭天皇妃になった. 


廣開土大王陵碑には “將殘主弟幷大臣十人 旋師還都”としているがその中に百濟の4歲の公主も含まれていた.


以六年丙申(396) 王躬率水軍討伐殘國.....而殘主困逼 獻出男女生口一千人細布千匹 王自誓. "從今以後永爲奴客." 太王 恩赦先迷之愆 錄其後順之誠. 於是得五十八城村七百 將殘主弟幷大臣十人 旋師還都.


 高珍の名が登場するのは438年宋書夷蛮伝である. 讃とは反正天皇の名でしょう.  

“倭王讃没し、弟珍立つ. この年、宋に朝献し、自ら「使持節都督 倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める. 宋文帝、珍を「安東将軍倭国王」とする。珍はまた、倭隋ら13人を平西征虜冠軍輔国将軍にされんことを求め、許される。(『宋書)夷蛮伝)”


意富富杼王=大郎子=直支王

AD391

直支王 生れ

397

直支王 質(?) 6歲

400

 速総別王の反逆, 葛城之曾都毘古(山部大楯連)處刑

405

直支王 歸國 14歲, 解忠爲達率, 庶弟餘信爲內臣佐平, 解須爲內法佐平, 解丘爲兵官佐平

411

八須夫人(草香幡梭皇女)生久爾辛

412

中斯知命(=中蒂姫=中磯皇女)生乎非王(毗有王)  412, 427卽位 455死亡 

420

久爾辛王 卽位, 直支王 29歲

427

乎非王(毗有王) 卽位

429

木滿致 (石川楯, 曾都毘古の子), 池津媛(八須夫人)處刑

432

允恭天皇倭掌握, 意富富杼王死亡



- おわり-


2022년 5월 22일 일요일

121. 倭建命の正体



古事記には倭建命, 日本書紀には日本武尊とする. もとの名は小碓命といい. 彼についての記錄はほとんと噓であります. 彼は百濟と倭の古代史の中心人物であるので古事記と日本書紀の編者達は倭建命を神話の中に隱し眞實をいわなかった. 


倭建命はAD 318(戊寅年)20代初めと見えるのでそんなに神話の中の人物ではありません. 彼の系譜は史書によるべきではないです. どうせ造られたもんね. ここで描く倭建命は斷片的歷史記錄を整理した結果であります. まず倭建命の時代はいつだったでしょう. AD300-370年位いと見て差支えないようです.


倭古代史の流れ (神武から仁徳まで)


神武天皇

正始六年詔賜倭難升米黄幢付郡假授


天押帯日子命

(神武東征中死亡)

開化天皇

孝安天皇

立卑彌呼宗女壹與年十三爲王


日子国意祁都命

孝靈天皇

崇神天皇

建波邇安王の反逆

玖賀耳之御笠討伐

四道将軍

比古由牟須美命

景行天皇

倭建命

成務天皇( -355)

仲哀天皇( -362)

建内宿禰

東国征討

近肖古王   

貴須王

神功皇后

応神天皇

宮主矢河枝比売

七支刀(372)

枕流(トムル)王


大鞆和気命

宇遅能和紀郎子

応神死亡(394)

仁徳天皇

AD 245

AD 256

AD 287 丁未年

AD 318戊寅年

AD 362壬戌年

AD 384



古事記開化天皇条に大筒木垂根王, 讃岐垂根王の娘に五柱がいたとの記錄がある. 


この天皇が旦波之大県主、名は由碁理の娘、竹野比賣を娶って生んだ御子は比古由牟須美命. その兄の比古由牟須美王の子は大筒木垂根王, 次に讃岐垂根王. 二王. この二王の娘に五柱がいた.


系譜に年代を入れると次のようです. 比古由牟須美命は295年頃山代の筒木で倭建命の双子を生んだ. そのあと四國の讃岐にいって志理都紀斗売と會う. 志理都紀斗売は建伊那陀宿禰の娘とするが建諸隅命の娘とした方が整合性がある. 建諸隅命は天日槍に敗けて建諸隅命の家門は危機に落ちる. 比古由牟須美命は300年頃讃岐垂根王を生んだ. 讃岐垂根王の名前が品陀真若王, 彼が三柱の娘の父である. 品陀真若王に絡む社跡が徳島県名西郡石井町石井石井にある. 


竹野比賣

250-

比古由牟須美命

270-

大筒木垂根王

=倭建命300-

迦具夜比賣

320-

袁邪弁王340-

二柱の娘



讃岐垂根王

=品陀真若王300-


三柱の娘330


 

比古由牟須美命の後孫 五人の娘

比古由牟須美命


倭建命

布多遅比売(意富多牟和気の娘)

応神天皇

=稲依別王



倭建命

布多遅能伊理毘売命

(伊玖米天皇=天之日矛の娘)

迦具夜比賣命

=布忍入姫命

宮主矢河枝比売

袁那弁郎女


品陀真若王


高木之入日売

中日売命

弟日売命



古事記開化天皇条に山代之大筒木真若王の記錄がつづく. 


次に山代之大筒木真若王が同母弟の伊理泥王の娘の丹波能阿治佐波毘賣を娶って生んだ子は迦邇米雷王。この王が丹波之遠津臣の娘、名は高材比賣を娶って生んだ子は息長宿禰王。

この王が葛城之高額比賣を娶って生んだ子は息長帯比賣命。次に虚空津比賣命。次に息長日子王。三柱。この王は吉備品遅君、針間阿宗君の祖。また、息長宿禰王が河俣稲依毘賣を娶って生んだ子は大多牟坂王。これは多遅麻国造の祖である。



古事記の重復している世代をきれいにまとめると日子坐王(270-)-大筒木真若王(310-)-息長帯比売(340-)になります. 比布礼能意富美=大筒木真若王=息長宿禰王になるわけですが大筒木真若王が大筒木垂根王の娘迦具夜比賣を娶って息長帯比売を生んだことです. 比布礼能意富美は大筒木垂根王の婿であって宮主矢河枝比売は倭建命の外孫である

息長帯比売の父母

比古由牟須美命270

阿邪美都比賣

大筒木垂根王300

=倭建命 300

迦具夜比賣命(母)

=葛城之高額比売 320

宮主矢河枝比売340

袁那弁郎女

袁邪弁王

日子坐王270

比布礼能意富美(父) 

=息長宿禰王310

=大筒木真若王


息長帯比売340

虛空津比売

息長日子王


古事記開化天皇条の比古由牟須美命に大筒木垂根王, 讃岐垂根王の二人の子があって二人の娘が五柱あるとの記錄は事實と見えます. 大筒木垂根王とは倭建命をさす. 大筒木垂根王と大筒木真若王は筒木で生れたでしょう. すると大筒木垂根王の母は誰だと思う? 史書を信じるわけにはいきません. 比古由牟須美命は垂仁天皇の娘阿邪美都比賣命を娶って大筒木垂根王を生んだ. 


垂仁天皇(240-300)

阿邪美能伊理毘賣命

阿邪美都比賣命270-

比古由牟須美命

大筒木垂根王300

=倭建命

稲依別王320

=応神天皇



珠城神社は京都府久世郡久御山町市田新珠城146にある. AD287年建波邇安王の反逆の時垂仁天皇は京都府久世郡で反逆の推移を追っていた. 反逆が鎭壓されたあと垂仁天皇は建波邇安王の娘苅羽田刀弁と弟苅羽田刀弁を娶る. 倭建命はあとで弟苅羽田刀弁の娘布多遅能伊理毘賣命を娶って仲哀天皇を生んだ. 比古由牟須美命の母は竹野比賣で珠城神社と近う筒木(綴喜)で住んだよぅだ. 竹野比賣は垂仁天皇皇后氷羽州比賣命の妹である. 


https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1lAJykTLBEtAuH5C1Mzk_bmxJ0rHMwjyg&usp=sharing


古事記垂仁天皇 后妃と御子


后妃

御子

佐波遅比賣命

品牟都和気命

氷羽州比賣命

印色之入日子命

大帯日子淤斯呂和気命

大中津日子命

倭比賣命

若木入日子命

沼羽田之入毘賣〔ヌバタノイリビメ〕命

沼帯別〔ヌタラシワケ〕命

伊賀帯日子〔イガタラシヒコ〕命

阿邪美能伊理毘賣〔アザミノイリビメ〕命

伊許婆夜和気〔イコバヤワケ〕命

阿邪美都比賣〔アザミツヒメ〕命 稲瀬毘古王に嫁いだ

迦具夜比賣命, 大筒木垂根王の娘

袁邪弁〔ヲザベ〕王

苅羽田刀弁山代大國之淵の娘

落別〔オチワケ〕王

五十日帯日子〔イカタラシヒコ〕王

伊登志別〔イトシワケ〕王

弟苅羽田刀弁〔オトカリハタトベ〕

石衝別〔イハツクワケ〕王

石衝毘賣命 (布多遅能伊理毘賣命)



垂仁天皇 后妃と御子で, また大筒木垂根王の娘の迦具夜比賣命を娶って生んだ御子は袁邪弁王.一柱. としたのは倭建命と關聯された事實を隱すつもりでしょう. 迦具夜比賣命はAD320年頃の生まれなのに300年頃死んだ垂仁天皇の妃とは有り得ない.   


このころ大筒木で次のような有名人が現れる. 応神天皇を息長帯比売の子とする噓は気比大神參拜時宇遅能和紀郎子と応神天皇の父子が名前を換たので応神天皇は息長帯比売の子だとの論理である.


比古由牟須美命270

大筒木垂根王300

=倭建命

稲依別王320

=応神天皇


日子坐王270

大筒木真若王310

=比布礼能意富美

息長帯比売340

=宮主矢河枝比売

宇遅能和紀郎子360

=枕流(とむる)王

比古布都押之信命265

屋主忍男武雄心命295

味師内宿禰330

=木羅斤資=斯麻宿禰

山代内臣の祖

葛城曾都毘古360

=開中費直, 木滿致は曾都毘古の子


隅田八幡神社人物画像鏡銘文は “癸未年八月日十六王年 / 乎鞆王在意柴沙加宮時 / 斯麻念長寿遣開中費直 / 穢人今州利二人等取白 / 上同二百旱作此竟”です. 問題になる四つの解釋は次のようです. 參照(56. 隅田八幡神社人物画像鏡). 斯麻宿禰とは木羅斤資のことで曾都毘古と父子關係である. 


癸未年十六王年

乎革(丙)王

斯麻(宿禰)

開中費直

383年

大鞆和気命

木羅斤資

葛城曾都毘古


息長帯比売(宮主矢河枝比売)は攝政の皇太后だったので大筒木真若王(=比布礼能意富美)も相應しい官職を務めたでしょう. なにをしてたと思う? 百濟の內臣佐平 眞高道を思い出すのは飛躍でしょうかね.


比古由牟須美命は304年百濟の11代比流王(在位304-344)になる. 10代汾西王が死に肖古王系で選ばれた人である. 比流王という王號に注目して比古由牟須美と較べて下さい. 比流は比由から出たと考られる.


比流王11代

日子国意祁都命子

契王12代

古尓王系汾西王子

近肖古王13代

比流王子

近仇首王14代

近肖古王子



倭王系譜も百濟王系譜にあわせたら比古由牟須美命-倭建命-応神天皇の譜に戻すべきです. 


比古由牟須美命270


倭建命300

応神天皇320



百濟20代毗有王(在位427-455)も似たような王號をもっています. 釋日本紀上宮記逸文の繼體天皇の系譜に乎非王がある. この乎非王こそ百濟20代毗有王のことです. 


應神天皇

若沼毛二俣王

意富富杼王

乎非王

斯王(彦主人王)

繼體天皇

320-394

370-424

391-432

412-455

430-475

450-531



百濟と倭は他國であってべつべつの人が住んだとは事實でない. 繼體天皇の系譜は百濟王系譜で次のようになる. 倭-百濟歷史で現れる人物は 同じ人でも二國の歷史に別人として記錄されているのを読み直すべきです.  應神天皇とは近仇首王のことであるのを認める人あるでしょうか.


百濟王系

近仇首王

阿莘王

腆支王

毗有王

鹵王

繼體天皇



304年卽位した比流王は倭の崇神朝征討を図る. 百濟から來た倭征伐軍の中に双子の大碓命と小碓命があった. 双子の母阿邪美都比賣は垂仁天皇の娘で比流王后である. そして印色之入日子命と大中津日子命等の垂仁天皇皇子が比流王治世百濟の高位官職へ抜擢される. 彼らは解氏, 和珥(和邇)氏の祖又は和珥臣の遠い祖先は眞氏を名乘たでしょうか. 比流王時代解仇と解婁の名前が見える. 


倭建命の四道将軍征討

大彦命(240?-310?)

年の上で不可


武渟川別命征討

東国征討(陸奥の相津)

族長を連れて行く

吉備津彦命征討

熊襲征討

熊曾建

丹波道主命征討

出雲征討

出雲建



古事記は倭建命が倭を離れるうしろ姿を詠:よんだ.


そして、その国より飛び翔:かけて行き、河内国の志畿に留まった。そこで、その地に御陵を作って鎮座させた。そこで、その御陵を名付けて白鳥御陵と言うのである。しかしながら、またその地より更に天に翔:かけて飛んで行った。



倭建命の生涯

300年頃出生

320年頃



346-375

山代之大筒木

東国征討

熊襲征討

出雲征討

近肖古王



古事記垂仁天皇条に印色入日子命の記事がある. 狭山池(さやまいけ)は、大阪府大阪狭山市大字岩室にある日本最古のダム式ため池(人工池) である. 



次に印色入日子〔イニシキノイリヒコ〕命は血沼池〔ちぬのいけ〕を作り、また狭山池〔さやまのいけ〕を作り、また日下之高津池〔くさかのたかつのいけ〕を作った.



三國史記  訖解尼師今 21年条(AD330年)には碧骨築造記事がある. AD330年は百濟比流王27年. 


垂仁皇子印色入日子命はAD270年代生まれで比古由牟須美命(比流王)と同年輩です. AD330年印色入日子命は60歲位い. この時代百濟の碧骨そして倭の狭山池が同じ人に依って作られた可能性もある.



- おわり -