2017년 9월 12일 화요일

101. 百濟王系と鴨氏-和邇氏


 鴨(賀茂)氏は倭古代史の頂点を飾る神代の須佐之男命から二世までの後裔たちの名前に現れる. 神武東征以後, 鴨(賀茂)氏の一派が丸邇臣の祖という形で出て來る. 丸邇臣は後で春日臣, 大宅臣, 小野臣, 柿本臣…等に分派して行く. 2世紀から7世紀まで倭の鴨(賀茂)氏-和邇氏出身の人物たちが百濟王に卽位するのが目立つ. なぜそんなことが繰返されたのか調べて見ましょう.

須佐之男命から始まる鴨氏の根源 (數字は世代番號)
AD 130
AD 160
AD 190
須佐之男命(1)
大國主神(2)
阿遅志貴高日子根神
事代主神(3)
天押帯日子命(4)
大倭帯日子国押人(4)
孝元天皇(4)

大年神(2)
大國御魂神(3)
宇痲志痲遲命(4)

宇迦之御魂神(2)
賀茂建角身命(3)
建田背命(4)

奈良県御所市鴨神社
高鴨神社

奈良県御所市鴨神1110
高鴨社
阿治須岐高日子根命(迦毛之大御神)を主祭神
鴨都波神社

奈良県御所市宮前町514
下鴨社
積羽八重事代主命と下照姫命を主祭神
葛木坐御歳神社

奈良県御所市東持田269
中鴨社
祭神は御歳神で、相殿に大年神・高照姫命

京都 賀茂神社
賀茂別雷神社 (上賀茂神社)
京都市北区上賀茂本山339
建波邇安命を祭神とする
賀茂御祖神社 (下鴨神社)
京都市左京区下鴨泉川町59
賀茂建角身命, 波邇夜須毘賣


古事記で丸邇臣が初め出るのは “開化天皇が丸邇臣の祖である日子国意祁都命の妹、意祁都比賣命を娶って生んだ御子は日子坐王一柱”である.

日本書紀では孝昭天皇の息子に天足彦国押人命という皇子がいて、その皇子が和珥臣等の始祖であると書いてある.

日本姓氏家系大辭典 和邇氏系図は下のようですが, 年代を隨伴しない系図はなんの役にも立たない. ここには假想の世代が含まれている.

天足彦國押人命(1)
和邇日子押人命(2)
彦国姥津命(3)
彦国葺命(4)
大口納命(5)
大難波宿禰(6)
難波根子建振熊命(7)
米餅搗大使主(8)
日觸使主
大矢田宿禰命
石持足尼命



信賴性の檢證出來ない日本姓氏家系大辭典 和邇氏系図の代り, 古事記と日本書紀の記錄を調べて見ましよう. 記紀の內容とは隨分ずれがあるから注意して下さい. 正史といわれる歷史書の內容は嘘だらけでこざいます.

鴨氏-和邇氏系譜 (數字は世代番號)

AD 130
AD 160
AD 190
AD 220
AD 245
須佐之男命(1)
大國主神(2)
事代主神(3)
(孝昭天皇)
天押帯日子命(4)
(神武東征中死亡)
日子国意祁都命(5)

AD 270
AD 300
AD 330
AD 360
AD 390
比古由牟須美命(6)
建豊波豆羅和気王
(五百木之入日子)
日子坐王
(彦国葺)

倭建命(7)
品陀真若王
丹波道主命
水穂之真若王
神大根王
比布禮能意富美
(難波根子建振熊命)
大筒木真若王
應神天皇(8)
高木之入日売
中日売命
弟日売命
宮主矢河枝比売
袁那弁郎女
息長真若中比売

大山守命(9)
大雀命
宇遅能和紀郎子
(大鞆和気命)
若沼毛二俣王
意富富杼王(10)
忍坂之大中津比売命
田井之中比売
田宮之中比売
藤原之琴節郎女

日子坐王と彦国葺は同一人である. 日子坐王は開化天皇の子, 彦国葺は日子国意祁都命の子と傳われているが開化天皇 と日子国意祁都命が夫婦であるとしたら二人は同一人のはずです. 

和邇氏の主流は 事代主神(3) - 天押帯日子命(4) - 日子国意祁都命(5) -比古由牟須美命(6) -倭建命(7) -應神天皇(8)であってこの ラインは父子間の流れである. いろいろの事情あって古事記と日本書紀はこの關係網をわざとゆがめて記錄した. 應神天皇の皇子らは高句麗との戰亂のさ中で四代の百濟王と倭王を務めた. 卽ち枕流王(在位384-385), 辰斯王(385-292), 阿莘王(392-405), 仁德天皇(397- 418)がそれである. 百濟王系と鴨氏-丸邇氏の流れを見ましょう.


百濟王系(ADは出生推定年代) 
AD 130
AD 160
AD 190
AD 210
AD 240
5肖古王(在位166-214)
6仇首王(214-234)
7沙伴王(234)
8古尒王(234-286)
9責稽王(286-298)


AD 270
AD 270
AD 275
AD 295
AD 320
10汾西王(298-304)
11比流王(304-344)
12契王(344-346)
13近肖古王(346-375)
14近仇首王(375-384)


AD 363
AD 348
AD 370
AD 390
AD 415
15枕流王(384-385)
16辰斯王(385-392)
17阿莘王(392-405)
18腆支王(405-427)
19久尒辛王(420-425)


同時代 鴨氏-丸邇氏の流れ
AD 130
AD 160
AD 190
AD 220
AD 245
須佐之男命(1)
大國主神(2)
事代主神(3)
(孝昭天皇)
天押帯日子命(4)
(神武東征中死亡)
日子国意祁都命(5)

AD 270
AD 300
AD 330
AD360
AD 390
比古由牟須美命(6)
倭建命(7)
應神天皇(8)
大山守命(9)
大雀命
宇遅能和紀郎子
(大鞆和気命)
若沼毛二俣王
意富富杼王(10)



百濟 5代肖古王は溫祚王以來の血統じゃなく北部の一部族長だったらしいが2世紀頃百濟は勿論,  倭をも掌握したと思われ
る. 肖古王と須佐之男命は同一人である. 須佐之男命の後裔が倭の鴨氏-丸邇氏であり百濟王家の人材プ-ルの役目をした.

234年百濟の沙伴王は帶方郡 古尒王に王座を奪われて倭へ歸る. 以後 古尒王-責稽王 - 汾西王の三代の中, 責稽王は戰死,
汾西王は殺害されるに到たる. そして古尒系の代りに304年肖古系の比流王(304-344)が卽位する. 比流王が誰の子で あろうかについて三國史記はすじが通じない記錄をしている.

比流王は和邇氏の比古由牟須美命でございます. 信じられますか. 古事記は彼を開化天皇の皇子としたが開化天皇が産んだ のは日子坐王たけです. 開化天皇は日子国意祁都命の妃であり女性であった. この事實を隱すためいろいろと潤色された でしょうね. 古事記開化天皇の系譜は日子国意祁都命の系譜でございます. 驚きは比古由牟須美命(6)が倭建命(7)の父, 倭建命(7)は應神天皇(8)の父であったことです. 今までの歷史がすべて嘘であったのを感じさせます.

百濟王と倭の鴨氏-丸邇氏の人物を対照させると下のようになります. 倭の鴨氏-丸邇氏の人物たちは百濟王家の構成員で あったことが分る.

肖古王(在位166-214)
仇首王(214-234)
沙伴王(234)
古尒王(234-286)
責稽王(286-298)
須佐之男命(1)
大國主神(2)
事代主神(3)



汾西王(298-304)
比流王(304-344)
契王(344-346)
近肖古王(346-375)
近仇首王(375-384)

比古由牟須美命(6)

倭建命(7)
應神天皇(8)

枕流王(384-385)
辰斯王(385-392)
阿莘王(392-405)
腆支王(405-427)

宇遅能和紀郎子(9)
大山守命(9)
若沼毛二俣王(9)
意富富杼王(10)



百濟と倭の古代史は別別の歷史じゃない.  百濟と倭の古代史は分離出來ない一體である. 今の兩國關係の愛憎で1500年前 の古代史を見るのは望ましくない. 倭は當時國の槪念のなかった自然部族の時代だった でしよう. 國造りは全く須佐之男命と大國主神の役目であった.

倭古代史の流れ (神武から仁徳まで)      
神武天皇
正始六年詔賜倭難升米黄幢付郡假授

天押帯日子命
(神武東征中死亡)
開化天皇
孝安天皇
立卑彌呼宗女壹與年十三爲王

日子国意祁都命
孝靈天皇
崇神天皇
建波邇安王の反逆
玖賀耳之御笠討伐
四道将軍
比古由牟須美命
景行天皇
倭建命
成務天皇( -355)
仲哀天皇( -362)
建内宿禰
東国征討
近肖古王  
貴須王
神功皇后
応神天皇
宮主矢河枝比売
七支刀(372)
枕流(トムル)王

大鞆和気命
宇遅能和紀郎子
応神死亡(394)
仁徳天皇
AD 245
AD 256
AD 287 丁未年
AD 318戊寅年
AD 362壬戌年
AD 384

神武東征は百濟古尒王代の出來事である. たから須佐之男命(1) -大國主神(2) -事代主神(3)の時代は神武天皇以前の神代に屬 する. 神武治世に入るのは245年であった. 鴨氏-丸邇氏と繫がりのない古尒王は倭の內戰に介入しないと難升米は信じて 東征に出たでしようね.  

- おわり -


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2017년 9월 2일 토요일

100. 建内宿禰の年齡


 古事記で第8代孝元天皇の系譜において名が出る建内宿禰は日本書紀で景行14年産まれて仁徳50年まで登場する. しかし 景行14年から仁徳50年まで, なん年であろうか分からない. 古事記と日本書紀の記錄に基づいて建内宿禰の年齡を推測したらなん百年になってしまう. それは古事記と日本書紀の記錄の不合理性から起因する問題である.

古事記と日本書紀の記錄の中で合理的情報たけ選んで建内宿禰の年齡を窺って見ましょう.

まず神武から仁徳までの倭古代史の全體的流れを整える. 下のように6個のクルプに分けて長い時間軸の上で歷史の流れ を見たら新しい歷史理解の地平が開かれる.全體として時間的整合性を確保しなければならない. (96. 日本古代史の流れ (神武から仁徳まで) 參照)

倭古代史の流れ (神武から仁徳まで)                     
神武天皇


正始六年詔賜倭難升米黄幢付郡假授
開化天皇
孝安天皇

立卑彌呼宗女壹與年十三爲王
孝靈天皇
崇神天皇

建波邇安王の反逆
玖賀耳之御笠討伐
四道将軍
景行天皇
倭建命
成務天皇( -355)
仲哀天皇( -362)
建内宿禰
東国征討
近肖古王  
貴須王
神功皇后
応神天皇
宮主矢河枝比売
七支刀(372)
枕流(トムル)王

大鞆和気命
宇遅能和紀郎子
応神死亡(-394)
仁徳天皇(-418)
AD 245
AD 256
AD 287 丁未年
AD 318戊寅年
AD 362壬戌年
AD 384


建内宿禰は第四クルプのある時点で産まれ, 第六クルプを越えて仁徳治世のある時点まで生きた人物である. 古事記は成務天皇が乙卯年 (355), 仲哀天皇壬戌年 ( 362) 亡くなられたとした.

日本書紀 応神三年 百済で辰斯王(在位:385~392)が即位した。貴国の天皇に対して禮を失した。そこで紀角宿禰、羽田矢代宿禰、石川宿禰、木菟宿禰を派遣し、その外交姿勢を責めさせると、百済の国人は辰斯王を殺して謝罪した。紀角宿禰たちは阿花(阿莘王。在位:392~405)を即位させて帰還した。

建内宿禰の子四人が登場するこの記事は 392年の出來事である. 大體この四人が平均して四十代の歲だとすれば, 352年頃の産れと見て差支えない. 建内宿禰が25歲頃から子を産んだとすれば建内宿禰は327年頃産れとなります.

日本書紀 仁徳天皇元年条に応神天皇の子の大鷦鷯尊と武内宿禰の子の平群木菟宿禰とは同日に生まれた。その際、応神の子の産殿には木菟(つく)が、武内宿禰の子の産屋には鷦鷯(さざき)がそれぞれ飛び込んだので、その鳥の名を交換して各々の子に名付けたとある. 仁徳天皇と平群木菟宿禰は産れた年月日が同じと思われる. すると仁徳天皇は武内宿禰より 25 - 30年ほど後代の人物で, 応神天皇と建内宿禰は同世代の人間だったと思われる.  

200年餘りの建内宿禰の系譜は下のようになる.

AD 130
AD160
AD190
AD220
AD260
AD295
AD327頃

須佐之男命
大國主神
事代主神
孝元天皇
彦太忍信命
忍男武雄心命
武内宿禰

すると建内宿禰の歿年はいつのことでしょうか? それを調ぺるために仁徳50年の記事に注目して下さい.

仁徳五十年の春三月。河内の人が、「茨田堤に雁が卵を産みました」報告した。天皇はその日のうちに使者を派遣して 確認させると、長老の武内宿禰に歌で尋ねた.
魂をすり減らしてまで宮中に仕えた長老よ。あなたこそは世の中の長老だ。トンボの飛び交う倭国で、雁が卵を産んだと、聞いたことはあるか。
 
武内宿禰も歌で答えた。
安らかに天下をお治めになる大王よ。ごもっとも、わしに尋ねたのはごもっともですぞ。ですが、トンボの飛び交う倭国で、雁が卵を産んだと聞いたことは、ありませんぞ。

景行14年とが 仁徳50年などの年代は別に意味無い. 仁徳と建内のこの對話はいつの時代像を反映するかがボイントである. 主觀的見解から放れて考えて欲しい. 仁徳天皇は397年卽位して間もないうちに高句麗との戰爭に卷こまれた.

以下 (99. 信じ難い歷史の展開)から拔萃

“永楽6年(AD 396)に、高句麗王(廣開土王)が自ら大軍を率いて百済軍を討伐した。 王(広開土王)は「壹八城」以下58城を攻撃したが、百済は正義の高句麗に屈服しないばかりか戦いを挑んで来た。王は激怒し、漢江を渡って先鋒部隊を百済の王都に迫らせた。(これを見た百済軍は恐れおののいて)  百済の王都に逃げ帰った。  そうして百済王(阿莘王)は困り果てて、  男女の奴隷千人、 上質の布千匹を差し出し、  王(廣開土王)の前に跪いてこれからは 永遠に王(廣開土王)の臣下になりますと誓った。 王(廣開土王)は先に迷っての過ち  (「百済」が「高句麗」に叛いて「倭」と同盟したこと)を許し、 王は 58城、村700を奪い、残主の弟および大臣10人を 人質にして都に帰った。(好太王碑文)

阿莘王が王(廣開土王)に差し出した残主の弟および大臣10人の中には阿莘王の公主, 忍坂之大中津比売命も含まれていた. 公主のお歲ただ四つにすぎなかった頃である. 阿莘王が24才であったから娘も幼ない. 廣開土王は大中津比売命を大事に育てて後で自分の子のお嫁にしたらしい. 大中津比売命を嫁にした王子の名は珍, 高珍であって宋書に出る倭の五王の一人である.

広開土王 永楽14年 (AD 404) 不法にも「倭軍」は「百済」と共に帯方界にまで侵攻し「石城」にまでやって来た。「倭軍」は船を連ねて侵攻して来たのである。(この知らせを聞いて)(広開土王)が自ら軍を率いて平壌から出陣した。先鋒部隊が「倭軍」らと遭遇し、「高句麗軍」は王の旗印を翻して侵略者「倭軍」(倭寇)と戦い、これを壊滅させた。惨殺したもの無数に上ったのである. (好太王碑文)

永楽17年 (407) 王(広開土王)は歩兵・騎兵5万を遣わし、(倭軍)の討伐に向わせた。(倭軍)との戦いは、相手を総て斬り尽くし、捕獲した鎧は1万余領、軍用物資・兵器は数知れなかった。帰還の途中、沙□城婁城□留城など多くの城をも攻め立て破壊した. (好太王碑文)”

仁徳五十年の仁徳天皇と武内宿禰の記事は當時高句麗が倭國の討伐にまで戰線を擴大したと判斷する切っ掛けになる. なぜかすると雁は渡り鳥である. 北方地域の鳥の出現は高句麗軍が列島討伐に現れたとのことでしょうね. また韓國語で雁の音讀は安と同じである. 高安という人をご存じですか? 高安とは廣開土王の名前でございます. 雁と安の音讀みで隱し ながら高句麗軍の列島出現について仁徳天皇と武内宿禰が對話しているのが仁徳五十年の記事ではないでしょうか.

古事記 仁徳条の終りに7) 枯野の船というのがある. この御世 兔寸河(とのきかは)の西に一本の高い樹があった。その樹の影は、朝日に当たれば淡道嶋に届き、夕日に当たれば高安山を越えた……ここで高安山が出るのは偶然であろうか.

信じられないでしょうね.  九州と瀨戶內のあちこちで神籠石とよばれる山城が發見される. いつ誰が築造したか 分らない
という. 神籠石はこの時代高句麗軍が築造した山城でございます. 天皇家の萬世一系をドグマ (dogma)にして編纂された古事記と日本書紀に慣れた人の目に神籠石は見えない. 唯謎ばかりが見えるだけ.

410年頃 高句麗軍は九州北部地域を占領し福岡縣久留米市を據占とした. 412年広開土王死去, 414年好太王碑が 建立 された. 417年頃王子高珍が久留米市の高良山に陣取った. 高良大社で祭る玉垂命 (たまたれのみこと) こそ王子高珍を さすことを知っている人は少ない.  

仁徳五十年の雁についての對話は410年頃 高句麗軍の九州北部地域占領と繫がっている. 建内宿禰はそれから間もないうちになくなったでしょうね. するとAD327年頃産れで,  410年頃歿, 建内宿禰の年齡は83歲になる.

武内宿禰一生 (327 – 410, 83歲)

武内宿禰
武内宿禰
武内宿禰
武内宿禰
武内宿禰
AD 327 出生
AD 344
AD 362
AD 397
AD 410頃 死亡推定
景行天皇
成務天皇(仲哀)
應神(神功攝政)
仁德天皇
仁德天皇

追記: 仁德天皇(352頃- 418頃)は418年頃, 高句麗軍と淡路嶋で接戰中死亡した.  (日本書紀允恭十四年記事參照)

- おわり -

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2017년 8월 25일 금요일

99. 信じ難い歷史の展開


永楽6年(AD 396)に、高句麗王(廣開土王)が自ら大軍を率いて百済軍を討伐した。 王(広開土王)は「壹八城」以下58城を攻撃したが、百済は正義の高句麗に屈服しないばかりか戦いを挑んで来た。王は激怒し、漢江を渡って先鋒部隊を百済の王都に迫らせた。(これを見た百済軍は恐れおののいて)  百済の王都に逃げ帰った。  そうして百済王(阿莘王)は困り果てて、  男女の奴隷千人、 上質の布千匹を差し出し、  王(廣開土王)の前に跪いてこれからは 永遠に王(廣開土王)の臣下になりますと誓った。 王(廣開土王)は先に迷っての過ち  (「百済」が「高句麗」に叛いて「倭」と同盟したこと)を許し、 王は 58城、村700を奪い、残主の弟および大臣10人を 人質にして都に帰った。(好太王碑文)

枕流王が385年11月に死去したとき、阿莘王がまだ幼かったので叔父の辰斯王が第16代の王位を継ぎ、辰斯王が392年11月に死去して阿莘王が第17代の王位についた。(三国史記 百済本紀)

阿莘王六年 (397)夏五月百済は倭国と友好を結ぶために「太子」を人質に出した.

古事記 応神天皇の子孫の處で若野毛二俣王(372 – 424)の子は;

大郎子:オホイラツコ。またの名は意富富杼:オホホド王。(391 – 432)
次に忍坂之大中津比売:オシサカノオホナカツヒメ命。(393 - )
次に田井之中比売:タヰノナカヒメ。(396 -  )
次に田宮之中比売:タミヤノナカヒメ。 (399 -  )
次に藤原之琴節郎女:フヂハラノコトフシノイラツメ。(402 -  )
次に取売:トリメ王。
次に沙禰:サネ王。でございます.

百濟の阿莘王は倭の若沼毛二俣王をさします. 大郎子又の名は意富富杼王 (391 – 432)は 百濟の腆支王(或云直支)と 同一人である. 信じられますか? 行く途が遠いから驚くのは又速い.

阿莘王が王(廣開土王)に差し出した残主の弟および大臣10人の中には阿莘王の公主, 忍坂之大中津比売命も含まれていた. 公主のお歲ただ四つにすぎなかった頃である. 阿莘王が24才であったから娘も幼ない. 廣開土王は大中津比売命を大事に育てて後で自分の子のお嫁にしたらしい. 大中津比売命を嫁にした王子の名は珍, 高珍であって宋書に出る倭の五王の一人である.

397年阿莘王が太子を倭国に送ったのは人質に出したのではなく戰爭の危險から太子を保護するためだった. 倭は當時 百濟の他國じゃなく領有地であって百濟の支配下にいた.  歷史とは信じ難く眞實からも遠いようだ.

広開土王 永楽14年 (AD 404) 不法にも「倭軍」は「百済」と共に帯方界にまで侵攻し「石城」にまでやって来た。「倭軍」は船を連ねて侵攻して来たのである。(この知らせを聞いて)(広開土王)が自ら軍を率いて平壌から出陣した。先鋒部隊が「倭軍」らと遭遇し、「高句麗軍」は王の旗印を翻して侵略者「倭軍」(倭寇)と戦い、これを壊滅させた。惨殺したもの無数に上ったのである. (好太王碑文)

永楽17年 (407) 王(広開土王)は歩兵・騎兵5万を遣わし、(倭軍)の討伐に向わせた。(倭軍)との戦いは、相手を総て斬り尽くし、捕獲した鎧は1万余領、軍用物資・兵器は数知れなかった。帰還の途中、沙□城婁城□留城など多くの城をも攻め立て破壊した. (好太王碑文)

410年頃 高句麗軍は九州北部地域を占領し福岡縣久留米市を據占とした. 412年広開土王死亡, 414年好太王碑が 建立 された. 417年頃王子高珍が久留米市の高良山に陣取った. 高良大社で祭る玉垂命 (たまたれのみこと) こそ王子高珍を さすことを知っている人は少ない. 忍坂之大中津比売は418年頃高良大社で木梨之軽王を産んだ.

 日本書紀仁德十二年の秋七月 高麗国(高句麗)が鉄の盾と鉄の的を披露しに来た。八月。高麗の使者を歓待した。この日、豪族たちや家来たちを集め、高麗の献上した鉄の盾と鉄の的を射させた。多くの人が射通すことができず、ただ的臣 (いくはのおみ)の祖先となる盾人宿禰 (タテヒトノスクネ) だけが鉄の的を射通した。高麗の使者はこれに驚愕した。翌日になり、盾人宿禰を誉めて的戸田宿禰 (イクハノトダノスクネ)という名を与えた。また、小泊瀬造(をはつせのみやつこ)の祖先の宿禰臣 (スクネノオミ)に賢遺臣(さかのこりのおみ)という名を与えた。

王子高珍は417年仁德と交涉に出たらしく仁德は王子高珍に宿禰臣又は賢遺臣という名を与えた。宿禰臣は後で允恭天皇の名前に現われる. 允恭天皇の名前は雄朝津間稚子 宿禰天皇である.

日本書紀允恭十四年の秋九月。天皇は淡路嶋で狩りを行った。大きな鹿や猿、猪があちこちの山谷に溢れていたが、炎のように見え隠れしては蝿のようにすばしっこく逃げ、一匹の獣も獲れなかった。狩りをやめて占うと、嶋の神の祟であることがわかり、「赤石(兵庫県明石市)の海底に真珠がある。その珠を供え物とすれば、獣を与えよう」との神託を得た。そこであちこちの海人(漁師)を集めて赤石の海に潜らせたが、海が深くて誰も底にたどり着けなかった。すると、阿波国(徳島県)の長邑(那賀郡)に住む男狭磯 (ヲサシ)という海人が、腰に縄をつけて海に潜り、しばらくしてから出てきて、「海底に大きなアワビがあり、なにやら光っていた」と報告した。男狭磯はふたたび潜り、大きなアワビを抱えて出てきたが、すでに息絶えており、プカプカと波に浮かんでいた。縄を外して深さを測ると、六十尋のふかさであった。そのアワビを切り裂くと、腹の中に桃の実のような大きな真珠があった。それを神に奉げて狩りを行うと、多くの獣が獲れた。ただし、男狭磯が死んだことを悲しみ、墓を作って手厚く埋葬した。その墓は今もあると伝わる。

日本書紀允恭十四年記事は大體418年の出來事でしょう. 仁德天皇が高句麗軍と淡路嶋で接戰中死亡したらしい. 男狭磯とは大鷦鷯のことでしょうね. その墓は今もあると伝わるというのが決定的端緖ではないでしょうか.

日本書紀允恭三年の春正月。使者を新羅に派遣して医者を求めた。秋八月。新羅から医者が訪れ、天皇を診察した。すぐに病気が治り、天皇は喜んで、医者を厚くもてなして帰国させた。

古事記には訪れた新羅の使者が医学に通じており、天皇を治したとある。古事記允恭天皇2) 氏姓の制定の處でこの貢物の大使の名を金波鎮漢紀武と言う。この人は薬の処方を深く知っていたため、帝皇の病を治療して差し上げたとある.

この記事は大體428年頃と思われる. 418年の淡路嶋決戰で王子高珍も致命的負傷を負ったらしく高句麗軍は倭に進擊することなく九州に退脚, 福岡縣久留米市に籠もった. あそこで王子高珍は十年近く死境に置かれたようだ.

その間高句麗軍は倭の反擊に備えて九州と瀨戶內に山城を築造した. その跡を今神籠石とよぶ. 倭はその間大鷦鷯の墓を築造するのに盡力したらしい.

ここに出る新羅の波鎮漢紀金武は新羅の將軍であり福岡縣金武市を據占として王子高珍を補佐した. 高句麗と新羅の同盟軍が倭の占領に動員されたのである. 金武市の地名は將軍金武から由來したのである. 金武は453年允恭天皇が毒殺されたあと卽位した安康天皇でありますけど信じ難いでしょうね.

大體428年頃王子高珍の病気が治り倭占領作戰が再開される. 高句麗軍の難波攻略が始まって難波之高津宮の御殿に火を放つ. 履中天皇は難波を捨てて伊波礼之若桜宮 (奈良県桜井市)に避亂するが 432年 (壬申年) 履中天皇は死亡する. 高句麗軍が倭を占領したとのことでしょう. 以後水歯別命 (反正天皇)は少ない側近と逃避しながら抵抗するが次第に消滅して行く.

そして高句麗は百濟の支配勢力を制圧して倭の支配に成功した. 信じ難いけど.

432年 (壬申年) 王子高珍は遠飛鳥宮において天下を治めた。男浅津間若子宿禰命という名前で. いわゆる允恭天皇である.

日本書紀 応神天皇 三十九年の春二月。百済の直支王(腆支王。在位:405年~420年)がその妹の新斉都媛〔シセツヒメ〕を派遣して仕えさせた。新斉都媛〔シセツヒメ〕は七人の女性を連れて来た。

応神天皇 三十九年とはありえない. 応神は394年なくなった. 百済の直支王が新斉都媛と七人の女性を倭に送ったのは420年頃と思われる. 直支王の妹は四人であるが忍坂之大中津比売は王子高珍の妃である. のこりの三人は

田井之中比売
田宮之中比売
藤原之琴節郎女である.

古事記 反正天皇 后妃と御子は丸邇の許碁登臣(コゴトノオミ)の娘、都怒郎女(ツノノイラツメ)((紀)津野媛)を娶って生んだ御子は甲斐郎女, 次に都夫良郎女 二柱。
また、同じ臣の娘、弟比売を娶って生んだ御子は財(タカラ)王, 次に多訶弁郎女(タカベノイラツメ)。併せて四王である。

直支王の妹の新斉都媛とは丸邇の許碁登臣(コゴトノオミ)の娘、都怒郎女のようだ. 弟比売とは普通藤原之琴節郎女のことである. すると丸邇の許碁登臣(コゴトノオミ)とは直支王の倭の名前 意富富杼(オホホド)を歪(ゆが)めて作し出した僞名であろう. 新斉都媛とは 田井之中比売であろうか田宮之中比売であろうかはっきりしない.

古事記允恭天皇は木梨之軽太子の御名代として軽部を定めた。大后の御名代として刑部(おしさかべ)を定めた。大后の妹の田井中比売(タヰノナカツヒメ)の御名代として河部(かはべ)を定めた。

日本書紀は允恭天皇が大后の妹の弟媛のために藤原部を定めたとした。

反正天皇死後允恭天皇は心の中で大后の妹, 弟比売 (藤原之琴節郎女) を熱望して大后の激しい反對にも拘らず琴節郎女を誘う. 結局弟比売を手に入れて幸わせになったが間も無く悲劇的終末を迎える. 運命の惡戱というか高句麗の夢が消えて終う. 木梨之軽太子と琴節郎女が愛し合うようになって太子が453年父王を毒殺してしまった. 信じ難い歷史の展開である.

                                                           - おわり -