2019년 1월 2일 수요일

107. 皇極天皇にまつわる伝説


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皇極四年
645.6.12          
乙巳の変, 韓人が鞍作臣を殺した. (豊璋 15)

645.6.14
皇極天皇が軽皇子に譲位, 是日奉号於豊財天皇曰皇祖母尊. 以中大兄為皇太子. 以阿倍内麻呂臣為左大臣. 蘇我倉山田石川麻呂臣為右大臣. 以大錦冠授中臣鎌子連 為内臣.

6456月12 日 鞍作臣を殺し權力を簒奪した政変主謀者達はそれから3年後仲間同志の左右大臣を除去しなければならない問題に直面する. 日本書紀は6484月1日 古き冠を罷む. 左右大臣猶古き冠を著ると曖昧に記述している. 左右大臣は中大兄皇子と異なる時局觀を持っていたでしょう. 乙巳の変の主謀者達は蘇我本家を倒すのには同意したものの皇極天皇の地位と安全をどうするべきかについてはっきりした指針とか合意はなかったようだ.

大化4年
648.4.1              
古き冠を罷む. 左右大臣、猶古き冠を著る.
大化5年
649.3.17            
阿倍大臣薨
大化5年

649.3.24
(豊璋 19)
蘇我臣日向が蘇我倉山田麻呂が中大兄皇子を殺そうとしていたと讒言. 倉山田麻呂自経而死. 妻子殉死者八. 皇太子の妃の蘇我造媛は父の大臣が斬り殺されたと聞いて悲しみ死だ.  

6493月17 日 左大臣阿倍内麻呂臣, 3月24日 右大臣蘇我倉山田麻呂自経而死. 左右大臣が1週の間, 死亡するのが遇然と見えますか.  左右大臣はなんか責任を負って自経而死しながらも謀反を認めていない. 倉山田麻呂大臣は “願わくば,黄泉にもなお忠誠心を抱いたままで退いて死にたいと思っている.”と言い終わると、仏殿の戸を開いて、仰いで誓いを立てて言いました。“願わくば、我!何度生まれ変わっても君王を恨まないように!” そう誓い 終わって自殺した. 

このような絶叫を聞いても右大臣が謀反を起こしたと信じますか. 倉山田麻呂が謀反を起こそうとしていると密告されたとした日本書紀記事は嘘でしょう. それがもし本当だったら皇太子の妃の蘇我造媛が父の大臣が斬り殺されたと聞いて傷心して死ぬことはありえない. 父が謀反を起こさなかったから蘇我造媛が憤慨することもできる.

われわれは日本書紀記錄に基づいて“皇極天皇が軽皇子(孝徳)に譲位した. この日に号を豊財天皇 (=皇極)に奉り皇祖母尊と言うようになった. そして皇極は35代天皇, 重祚して斉明は37代になったと承知している.

日本書紀がやむをえない事情があって歷史を改ざんしたなら書紀が編纂された西紀720年以前の人達は書紀記錄と違う歷史をご存じだったでしょう. 年月を重ねると人の記憶は消えて伝説になる. 代りに改ざんされた日本書紀は正史の位を 占め排他的權威を誇る. そして皇極と斉明は同一人という書紀に洗腦された後人の伝説には斉明の影だけが残る. 当てどな く彷徨う伝説から蘇った本の歷史を描てみましょう. 皇極天皇は乙巳の変で廃位され密かに幽閉の身になったようだ.

斉明は嫁いてから間もない616年, 漢皇子を産んだから舒明天皇より敬遠されて辛い歲月を凌いた. そして豊璋(大海人)を産むのは631年である. そういうわけで中大兄は豊璋より15年も年上になる. 日本書紀に大海人の名が出るのは系譜の記錄だけで事績と動静に関する記載は全くない. 664年大海人でもない大皇弟が出るまでは豊璋という名を使う.

天智3年 (664/2)
天智天皇は大皇弟に冠位を改めるように命じる。
豊璋 34

日本書紀 舒明天皇系譜舒明紀の最終に添えている次の一行は捏造の決定版であるから騙されないように. そのとき中大兄は東宮でもないし年十六でもない. また斉明の長子, 漢皇子は舒明天皇の子でないから百済大殯への接近さえ許されなかったはずである. 乙巳の変の際にも大和の皇太子は古人大兄だった.

舒明十三年
641.10.18
殯於宮北. 是謂百済大殯. 是時東宮開別皇子、年十六而誄之.

日本書紀 斉明紀に依ると斉明は4人の子を産んだ.

初適於高向王= 弟王子 (塞上)
漢皇子= 弟王子児 翹岐= 中大兄皇子 (616 – 671)
後適於舒明天皇 而生二男一女
間人皇女 (? – 665)
大海皇子 (631 – 686), 余豊璋と同一人
百済王善光 (637? – 693), 善光王, 禅広王ともいう

舒明天皇は生母の養育を許さなかったから631年九州で生れたばかりの豊璋は父の元へきて皇極の手で育てられる. 皇極は義母, 斉明は生母である. だから真実を知っている豊璋に皇極と斉明は同一人というのは通じない. 乙巳の変以來, 歷史の展開に豊璋の歲は主要な數になる. 成人になればなるほど豊璋は政治に介入しなければならない立場であった. 645年15歲だった豊璋は政変の裏でなにが進められてきたか分かる立場ではない. 乙巳の変以來行方不明になった母親(皇極)のことを豊璋が納得出來るでしょうか. 皇極と斉明が別人であることをだれよりもよく知っているのに.

豊璋に皇極の幽閉地を漏らしたのは左右大臣だったでしょう. 左右大臣は舒明天皇と皇極天皇を奉たから乙巳の変で皇極天皇が幽閉されるのは避けるべきと信んじていたから忠と義の間でなやんだ.

高知県土佐郡にあった朝倉村は現在の高知市の鏡川中流右岸, 土讃線 朝倉駅の周辺にあたる. 高知県高知市朝倉丙2100 朝倉神社がある. 祭神は天豊財重日足姫天皇. 朝倉神社背後には赤鬼山(あかぎやま)がある.

皇極天皇が高知県土佐郡朝倉村幽閉先を脱出, 愛媛県越智郡朝倉村に着いたのは8月19 日のようだ. 越智郡朝倉村無量寺由来に年次は記してなく斉明天皇が八月十九日桜井郷の長沢に上陸、車駕を捨て峠を越え二十日に朝倉の白崎の行宮に居したとある. 桜井郷, 長沢, 朝倉は今もある地名である. 皇極が幽閉先を脱出したのは日本書紀記錄に基ついて648年4月から649年3月の間のある時點と推す. 朝倉村無量寺由来の8月19 日と合わせると648年8月19 日朝倉村桜井郷の長沢に上陸したことになる. 

皇極天皇の朝倉上陸が大和に伝われて極秘漏泄の責任を認め左右大臣は自経而死したでしょう. 日本書紀はこんな事実をありのまま記錄したくなかったから右大臣の反逆云云と改ざんしたと思われる.

皇極は豊璋と越智郡朝倉村で3 - 4年留ったようだ. 朝倉村には斉明天皇の行宮伝承地がいくつもあり, 伝斉明天皇陵, 斉明という地名さえある. その上, 天子の宮殿とされる「紫宸殿」地名遺跡が旧東予市の明里川にある.  340 m x 220 mの長方形 である. 未だ発掘調査されていないので造営年代は不明であり誰のための宮殿なのか全く解らないという.

朝倉村無量寺由来には長沢天皇, 朝倉天皇, 牛頭天皇, 応神天皇, 斉明天皇等の名前が記しておる. 長沢天皇, 朝倉天皇はここしか登場しない天皇名である. 皇極天皇にちなんだ地名に「朝倉」という名称が多いのは皇極天皇が当代, 朝倉王と呼ばれた可能性がある. だから高知県朝倉村, 愛媛県朝倉村, 福岡県朝倉村があるのではないでしょうか

https://www.google.com/maps/d/edit?mid=14KBgGVfQdMHpBAcAnSEYVXuHI1cj84JL&usp=sharing  

皇極天皇は愛媛県越智郡朝倉村で3 - 4年留った時, 旧東予市の明里川に紫宸殿を造ったでしょう.  紫宸殿造営がどこまで進まれたが分らないが愛媛県朝倉村の紫宸殿造営は中斷され, 651, 皇極天皇は九州の大宰府に紫宸殿を造営して九州に移動した. 皇極天皇が九州の大宰府に紫宸殿を造営した652, 百済, 高麗, 新羅の賀客の前で白雉年号を宣布した. 日本書紀孝徳紀の白雉改元記事は九州の白雉年号を盜用して歷史を捏造したことになる.

九州年号


(書紀)
白雉
652

650.2.15
朝庭隊仗、如元会儀. 左右大臣. 百官人等. 為四列於紫門外. 以粟田臣飯中等四人、使執雉輿 而在前去. 左右大臣乃率百官及百済君豊璋. 其弟塞城-忠勝.高麗侍医毛治. 新羅侍学士等、而至中庭. 使三国公麻呂. 猪名公高見. 三輪君甕穂. 紀臣乎麻呂岐太四人、代執雉輿、而進殿前. 時左右大臣就執輿前頭. 伊勢王 三国公麻呂 倉臣小屎. 執輿後頭

白雉改元記事の人達は九州朝廷の役人で, 皇極は天皇, 百済君豊璋は皇太子である. 塞城忠勝は同じ人. 塞城=忠勝は百済義慈王の弟であって豊璋の弟との意味じゃない. 斉明六年の記事は王子豊璋及妻子与其叔父忠勝等とする.

斉明六年
660.10.10

送王子豊璋及妻子与其叔父忠勝等. 其正発遣之時. 見于七年. 或本云 天皇立豊璋為王. 立塞上為輔 而以礼発遣焉

九州で豊璋が豪族の娘, 鏡王女 額田王、胸形徳善女 尼子娘と宍人大麻呂女 かじ媛娘を嫁って生んだ子は;

653
十市皇女
鏡王女, 額田王(631? - ) 初娶
654
高市皇子
胸形徳善女, 尼子娘
657
忍壁皇子
宍人大麻呂女, かじ媛娘(? - 689)

九州は652皇極天皇を迎入れて獨立の國を目差すようになった. 日本書紀に次の記事が出るのは皇極天皇が九州を掌握 した後の事態である.

白雉四年 中大兄皇子が孝徳天皇に大和へ都を移すように提言するが天皇は拒否. しかし皇子は皇祖母尊 間人皇后たちと倭の飛鳥河辺行宮に移動した. 皇弟は当時, 九州にいたから并率皇弟と追記したのは嘘です.

白雉四年

653.
是歳太子奏請曰欲冀遷于倭京. 天皇不許焉. 皇太子乃奉皇祖母尊, 間人皇后, 并率皇弟等. 往居于倭飛鳥河辺行宮

乙巳の変の際, 九州は輕皇子が支配していた. 政で大和を奪取した中大兄は九州の株主である輕皇子を大和と九州の天皇に立てた. しかし652九州は皇極天皇の支配になったから輕皇子は九州の株主の資格を失った. そして大和と九州の天皇の資格もなくなったことになる. 大和の株主である中大兄は九州を諦めて大和にかえったわけです. 

皇極元年
642.2.2

百済国主謂臣言 塞上恒作悪之 請付還使 天朝不許.  今年正月 国主母薨 又弟王子児翹岐及其母妹女子四人. 内佐平岐味 有高名之人四十余 被放於嶋

642.2.24
召翹岐安置於安曇山背連家

642.4.10
蘇我大臣於畝傍家喚百済翹岐等親対語話 仍賜良馬一疋 鐵廿鋌  唯不喚塞上

642正月九州の斉明母薨の, 輕皇子は弟王子( = 塞上)児翹岐, 其母斉明, 妹間人皇女, 翹岐の妻四人及び内佐平岐味有高名之人四十余を島放して九州を掌握した. 翹岐らは大和に流れてきたので6422月24日安曇山背連家に留るようにした.  翹岐は大和のお世話になってから智積児 沙宅軍善(614 – 669)と共に大和の國を奪取する陰謀を練る. その時から日本書紀に翹岐の名は中大兄皇子、沙宅軍善は中臣鎌足に変る. 信じたくなくても翹岐と沙宅軍善は韓人である.

642翹岐はすでに結婚して兒をつれて飛鳥へ現れた. 616年生れで642年 27歳のほうがもっともである. 漢皇子, 翹岐, 中大兄皇子(616 – 671)は 同一人であり, 塞上恒作悪之の塞上は中大兄の生父になるわけです. 


生年
乙巳の変(645)
歿年
中大兄皇子 (翹岐)
616
30
671 (56)
中臣鎌足 (沙宅軍善)
614
32
669 (56)
大海人皇子 (豊璋)
631
15
686 (56)

日本書紀は661天皇崩るの記事を次のように伝える. ここで天皇は斉明じゃなく皇極をさす. 皇極の九州軍は豊璋と一緖に百濟に遣わされたので大和から來た中大兄軍は九州をたやすく接収したでしょう. 朝倉橘広庭宮に逃けた皇極天皇は包圍され自殺を迫られる. しかし皇極天皇との交涉がうまくいかなかったので大和軍は朝倉橘広庭宮を燒いてしまう.  

朝倉山の山頂で大笠を着た鬼が葬列を見下ろしていたのは天誅下しの兆しではないでしょうか.

661.5.9
斉明七年
朝倉橘広庭宮に遷りて居ます. 是の時に、朝倉社の木を斮り除ひて、此の宮を作る故に、神忿りて殿を壊つ. 亦、宮の中に鬼火見れぬ。是に由りて、大舍人及び諸の近侍、病みて死れる者衆し.  朝倉の朝に奉進る
661.7.24

天皇崩于朝倉宮
661.8.1
斉明七年
中大兄皇子が天皇のご遺体を運ぶ日の夕方に、朝倉山の山頂で大笠を着た鬼が葬列を見下ろしていた

664年6月死亡した嶋皇祖母命こそ本物の斉明でしょう. このころ嶋皇祖母命, 間人大后, そして大田皇女が続いて死亡するのは疑わしい.  というのは唐の郭務悰等が664.5.17 から664.12.12まで戰後處理のため大和に滯在したからだ.

天智3年 (664.5.17)
百濟鎭將劉仁願、遣朝散大夫郭務悰等、進表函與獻物。是月、大紫蘇我連大臣薨。
天智3年 (664.6)
嶋皇祖母命薨
天智3年 (664.12.12)
郭務悰が帰国. 淡海国の報告
天智4年 (665.2.25)
間人大后(孝徳の后)が死亡
天智4年 (665.9.23)
唐国遣朝散大夫沂州司馬上柱国劉德高等. (等謂、右戎衞郎將上柱国百濟禰軍 朝散大夫柱国郭務悰、凡二百五十四人. 七月廿八日至于對馬、九月廿日至于筑紫、廿二日進表函焉
天智6年 (667.2.27)
斉明天皇と間人皇女を合葬する。大田皇女を近くの墓に埋葬する。
合葬天豊財重日足姫天皇與間人皇女於小市岡上陵、是日以皇孫大田皇女葬於陵前之墓

おわり